【第三章:この宇宙で、最も重要な結論⑤】

 それは、大学二年生の祭りの日。



 僕と彼女は、同時に家を出て祭りに向かっていた。



「一年ぶりだね」



「そうだね、一年経ったんだね」



 今日は僕も浴衣を用意して、二人で肩を並べて祭りに向かう。



「いろんなことがあったね」



「それはもう、いろんなことがね」



「僕たち、いつまで一緒にいるんだろう」



「そんなに私といるのが嫌?」



「それがなかなか、僕には分からない」



 このときの僕の勘はとても鋭かった。僕は彼女と一緒にいることの是非を、どこかで疑っていたのだ。



 僕たちはいつか、別れるべきなのだろうか。



 僕はそれが嫌だった。彼女と一緒にいるのが楽しくて、いつか別れが来ることが分かってしまうぶん、一緒に居続けることが恐ろしかった。



 心のどこかで思ったのかもしれない。



 僕を少しだけ、一人にさせてください。



 その願いを神様は見ていたのだ。大きな大きな神様は、世界の理を外れてしまった僕たち二人を、注意深く、それはもう厳格に監視していたに違いない。



 から が呟いた。



「あ」



 僕は尋ねた。



「どうしたの?」



 から が答えた。



「忘れ物した」



「一緒に戻る?」



「いや、先に行ってて」



 もう から は、随分と雰囲気が変わっていた。失われた、子供らしい子供時代が蘇ってきていたようだった。



 僕はすたすたと自宅のほうに戻っていく彼女をしばらく見送ってから、祭りの会場へ向かった。



 だんだんと見えてくる提灯が懐かしかった。



 あれはヨーヨー釣りだ。あっちが金魚すくい、あっちがりんご飴、あっちが射的……。



 りんご飴は先に買っておこうか。あとで射的に行くときのために、何が並んでいるか今のうちに見ておくか。



 僕が祭りを徘徊しているとき、ずっと違和感があった。



 それは、本当に気のせいなのかもしれなかった。だって、そんなことに気づくなんておかしい。だからこれもきっと天啓なのだ。神様が僕にくれた印だった。



 僕は本当にふと、空を見上げた。今日の空はなんだか暗い。一年前よりも。



 その理由は、そのとき確実になった。



 ウインクがない。



 僕が名付けたあの星が見えない。



 どんなに明るい街でも、僕の頭上で輝き魅せてくれたあの星の姿が無い。どこかへ行ってしまったのだ。



 星がなくなってしまったなんて、どうでもいいことなのだろう。でも僕はその瞬間、ちょうど一年目の今日の帰り、僕に呪いを振りかけた彼女の姿が思い出されたのだ。



 もしかしたら、今日よりずっと前、あの呪いの日から彼の星は消えてしまっていたのかもしれない。それもすぐに消えたのではなくて、段々と時間をかけて、瑛摩から が人間を取り戻していくのに伴いながら。



 気づいたとき、僕は走った。自宅に向かった。



 全力だった。僕の人生のどんな一日よりも全力を出していた。それは一年前の一日後、瑛摩から の心を取り戻したあの日よりも全力だった。



 僕を突き動かすのは何か。一体何があの日の僕よりも僕を必死にさせるのか。



 簡単だ。



 それはやっぱり、僕が身に着けた性質じゃなくて、生物が備え付けたもの。



 走れ、走れと声がする。僕の背中を追いかけてくる。覆い被さる。



 でも、声は、走れ、だけじゃない。もっともっと、慟哭のような声が押し寄せてくる。



 僕には分かっていた。彼女が彼女でいることの本当の意味が。



 でも、分からない。本当であることは良いことじゃなかったのか?



 彼女である彼女を愛した僕ではなかったのか?



 僕のアパートに着いた。僕の部屋の隣、扉が開け放たれていた。



 僕は床を見ないようにして、一度隣人の部屋に入った。電気はついたままだったから分かった。



 汚れは最小限だった。



 ただ、部屋の隅にある椅子の上に、まだまだ新鮮な赤色が、線状に滲みていた。その滲みは、椅子から点々と繋がって、僕が今やってきた道を逆に辿っていく。やはり、ここは終着ではなく始点だったのだ。



 僕はゆっくりとこの部屋を出る。そして次は、僕の部屋だった。



 さっき敢えて目を逸らした地面には、答え合わせのように、血痕が這い、コンクリートに滲みついていた。でもこの滲みもやっぱりまだ新鮮で、僕の足の裏につけば、静かにべたりと粘性を露わにするものだった。




 僕は耳を塞いで、家の中に入った。






 家の中には、目を閉じて笑う彼女がいた。





 僕の隣人がどんな人だったかは覚えていない。だけど、そこに置かれていたものを見ても、もう思い出せやしないだろう。



 もうそれは、解体された後だった。



 机の上の、黒色の毛束が除く静かな物体に、布が被せられて置かれていた。これが彼女なりのマナーなのかもしれない。



 それ以外はどこだろうか。既にそれは、僕のベッドに安置されていた。だけど途中で面倒になったのか、いくつかは乱雑に捨てられたような形になっていた。



 例えば、それの手の甲からは五本の骨格が突き出ていた。まるで、手羽先の肉を綺麗に食べ尽くすのが難しかったから、それを諦めてしまったときのあの中途半端な有り様だ。甲の辺りまでは綺麗に肉が削ぎ落されているものの、もう指の部分は大まかにしか処理されていない。



 今彼女は、右足に取り掛かっているところだった。足の骨は大きくて、取り出すのが簡単そうだった。



 部屋の中は、それは今まで見た中でも一番綺麗な赤色だった。



 臭いも充満していた。その臭いに耐え切れず、僕は右手で鼻を覆った。その代わり、右耳が解放された。



 そこでようやく、彼女の声を聞けた。



 目を閉じて笑う彼女の、朗らかな笑い声が。



 それは、ひっきりなしに続いた。このままではもう肺が潰れてしまうのではないかと思えた。



 爆笑だった。



 彼女は決して目を開かなかった。だけど彼女は上手に上手に、その右足が右足じゃなくなる瞬間を手でなぞり、差し込み、持ち上げ、回し、抉り出した。



 僕は何も言わなかった。何も思わなかった。



 ただ、感じることはあった。



 それは、瑛摩から の本心だったのだ。



 僕がそこにいても、から は作業を続けた。手に持っていたのは、僕が使っていた彫刻刀だった。剥ぐのに使っていた。



 彼女は忘れ物を取りに行くと言った。



 から は何を忘れてきた?



 それがずっと分からない。僕は彼女をどうしてあげればいい?



 僕は、から の作業が終わるのを待ち続けた。そのとき、言葉が聞けると思ったからだ。



 だけど、から は笑っていただけだ。口を開けて笑っていた。たまに手元から鉄さび色の液体が跳び散ったとしても、彼女の唾液はそれに寛容だった。



 子供のような、少しの邪心もなく、彼女の善なる真実の泉から湧き出てくる豊穣だった。



 星のようにきらきらと輝く、から の笑顔。










 ああ、から。



 君は、そんなに白くて綺麗な歯をしていたのか。

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