【第三章:この宇宙で、最も重要な結論①】
「私がどうしてカフェインが好きか?」
「うん。いつも飲んでるから」
「飲むと幸せになれる、という以上の理由はないな」
「それってなんか危ないんじゃない」
「たしかに」
真剣な顔でそんなことを言うから、どう反応していいか分からない。
「まあでも、幸せならいいんだ。オススメはしないけど」
「はあ」
「何事も最初が大事だ。自分を大切にしたいなら、カフェインは飲み始めないことだね」
「用法用量を守ればいいんじゃないの?」
「守れる保証はどこにもないよ」
それはそうかもしれない。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「そうだね」
何に向かうか、と言うと。
大学の文化祭とは別に、地元のお祭りである。ちょっと遅めの夏祭りみたいなものだ。
僕は生涯で、お祭りというものに足を運んだ試しも少ない。
何を楽しむものなのだろうか、祭りとは。
「そこまで難しく考えるものでもないよ」
「から は得意だよね、雰囲気から楽しむの」
「楽しむべきときは楽しむ。大切なことじゃない?」
それはそうだ。なんというか、空気を読むという意味で。
ふう、と息を吐く。秋も垣間見えるけれど、空気の色はまだ夏だ。
祭りまでの路。彼女はわざわざ浴衣を着てくれたが、僕は普段着だ。だって持っていないんだもの。
和装の彼女はいつもとまた雰囲気が違う。
どういうふうに違うか、というのはちょっと難しいけれど。なんだか浮かれている。
僕たちは変わっている。あの日から、少しずつ。
日常は普通になりつつある。
僕と瑛摩からは、少しずつ人間に近づいている。
僕たちは人間と非人間の狭間を彷徨っていると思っていた。それがどうだかは分からないけれど、結局僕たちは人間のほうに傾いた。
祭りに出かける僕たち二人は、やはり人間の二人だ。
「あ、右手」
から が僕の手を見て、小さく呟いた。
「昨日彫刻やってるときに、ちょっと怪我しちゃった」
「そうか。趣味を楽しめているなら良いことだ」
絶妙に返答に困っていると、しばらくして、
「趣味に没頭するのと祭りに行くの、どっちが好ましい?」
「祭りかな」
「意外だ」
すれ違う人々は、から のように和服を身にまとって歩いていく。僕たちはちょっと早歩きなのかもしれない。
だんだんと、提灯の灯りが見えてきた。青から灰色に偏移していく、だけど暗さのない爽やかな空の下で祭りの賑やかさを見る。
「それじゃあ、自由にやっていこう」
自由にやっていこう、という彼女に付き従うようにして、僕は祭りを徘徊した。
なんとなくステレオタイプとして知っていた屋台が実在していることに驚いた。ヨーヨー釣りは本当にヨーヨーを釣って、金魚すくいでは本当に金魚をすくっている。りんご飴は本当にりんご大のりんごの飴だし、射的はやはりギリギリまで身を乗り出して狙うものらしかった。
そうやって本物の色をつけてくれたのは、全部彼女だった。
「当たった!」
から の表情は子供っぽく、明るかった。
「次、君もやりなよ」
「僕もか」
「あれ、狙ってよ」
彼女が指差したのは、中くらいの缶だった。
「あれにカフェインは入ってないと思うけど……」
「別にカフェイン目当てじゃないよ。あれが欲しい」
「分かった」
缶は空で、とても軽かった。ゴムの銃弾が鈍く胴体を撃ち抜き、台からころっと転げ落ちた。
「やった」
僕はらしくなく喜ばしかった。
渡されたのは、本当にただの缶だった。
「これが欲しかったの?」
「そう」
オレンジジュースの缶だった。特に珍しそうでもない、ただの缶だ。
から は中を覗き込んで、にこっと笑った。
「ほら、いた」
彼女が、これこれ、と指差した。僕もつられて覗き込む。
「うわっ」
意外なものが蠢いていて、咄嗟に顔を離した。
「蟻だよ。やっぱりいたんだね」
「気づいてたの?」
「なんか中で動いてそうな感じがした。これは、私が飼うんだ」
その缶を、祭りの間ずっと持ち続けた。
「私の宝物だ」
時間が過ぎて、花火が上がる。
僕たちは二本目のりんご飴を持って河川敷に走った。
「始まっちゃうよ」
「そうだね」
から は全く焦る素振りもないが、見たいと言い出したのは彼女のほうだ。
花火なんてどこからでも見れるだろう。りんご飴を頬張りながら、適当なところから見上げればいい。
「それはナンセンスだよ。川から見る花火が一番綺麗なんだ。私の感覚が呼んでる」
ようやく到着したところで、もう河川敷は人でいっぱいだった。前に行こうにも、りんご飴を持って進む余地はないだろう。
から は足を止めて、特に残念そうな表情も見せずに、小さな口でりんご飴をかじった。
「ほら、花火が上がっているよ」
そんな当たり前のことを言っていた。
「川で花火が見たいんじゃなかったの?」
「来たじゃないか、川まで」
「でも、これじゃただ混んでいるだけで、川の水面も全く見えない」
「尽力したから良いのさ。それよりほら、花火だ。赤いね」
赤い、赤いと喜ぶ彼女。だけど青色の花火が上がれば、今度は、青い、青いと言って喜んだ。
「花火というものは素敵だね。あんなに大きな熱を帯びながら、散っていられるんだ」
「でも線香花火なんかもあるよ」
「線香花火はキライだ」
「そんな、あんなに綺麗なのに?」
「綺麗でも熱がないものはキライだよ」
線香花火だって十分熱いと思うけど。
ただ、隣で花火を見上げる彼女は笑っている。
不思議だ。彼女の表情が豊かになっていくたびに、これでも良いんだと思える。
彼女の笑顔はとても不思議だ。三年以上前から彼女を知っている僕にとって。
あの日常の中で見た 瑛摩から の笑顔は、いつだって不自然なほど自然だった。冷たい、熱のない豊かさ。でも今の彼女の表情は、人生のあらゆる者事から解き放たれていくような、清々しい笑顔だった。
彼女も成長しているのだろうか。あの完璧だった 瑛摩から は、どこへ向かっていくのだろうか。
「花火、綺麗だね」
「うん」
帰り道、僕と から は明日のことについて話した。
「明日も大学だ」
「秋は忙しいね。寝坊しないかどうか心配だ」
「いつまで忙しいんだろう」
「きっとこれからずっと忙しい。私たちの人生が忙しくなくなるなんて、ありえない」
「働き始めれば、もっと忙しいのかな」
「それは、なってみないと分からない。未来のことは、私にだってわからない」
和装で闇夜を歩く彼女の姿は、幽霊のような淡さをしていた。
僕より一歩先で消え入ってしまわないように、歩調を速めた。
「私はいつか、私の知りたいことを知る」
「星系意思のことだね」
「うん。それもそうだけど」
「他にも? 欲張りだね」
「欲張るとも。私の人生だから」
表情まではよく見えない。
「でも、それを口にしてしまっては呪われてしまうだろうから。だから、また明日」
ちょうど帰路の分かれ道だった。僕は消えずに残った 瑛摩から の姿に、心の底から安心した。
いてくれるのであれば、別れてしまっても構わない。
「それじゃあ」
そのとき、僕は気づいてしまった。
僕の骨という骨が、細く引き締められていく。全身の器官が裏返るような、引き裂かれるような、吐き出されるかのような感覚。それは人が人として、最も規模の大きいこととして把握できる、特別な感情だ。
これは僕が獲得した感情なのではなくて、生物が最初から備え付けた性質だ。だから僕には、この感情の理由も方式も分からない。だからこそ、もっともっと大きなものとして感じられるのだ。
彼女が去り際に遺していった一つの営みを目に焼き付けて、脳に焼き付けて、そしてこの時間にスタンプを押したかのように、烙印される。
僕は から がウインクするところを、この目で見てしまったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます