【第二章:偉大なる探求者④】
「お邪魔します」
「はい」
会話は、二人のものだけ。から の家は、大学の隣駅から歩いて十分くらいのところにある。
一人で暮らすには広すぎる一軒家だけど、きちんと清潔な状態が保たれている。
「から って掃除するんだね」
「綺麗なのは好きだからね」
僕は特に一階の居間には関心がない。から と一緒に階段を上がり、二階の書斎を訪ねる。
それはもう、ものすごい量の本だった。つい昨日までここで作業をしていた痕跡か、こっちはあまり片付いていなかった。
「本だらけだ」
「そういう部屋だからね」
積み上がった本の著者は、どれも同じ。
「グレイス・ドーヴァー」
「この世界で最も偉大な科学者だよ、間違いない。まず出してる論文の桁数が違う」
「千?」
「万は行ってる」
「嘘だ、そんな量人間じゃ書けない」
「同感」
しかも、と累加することには。
「どれも質が高い。ほら、論文の量と質は実際には比例すると言うじゃないか。その良い例だね。どれも画期的かつ抜本的、それでいて神秘的だ」
「何の研究をしてた人?」
「心理学と医学、物理学と天文学。それぞれの分野に橋を渡した人、そして星系意思の提唱者だ」
「星系意思の祖、ってことね」
「彼の論文の面白いところはどれも、彼の意図を汲み取れていない実感だ」
「それ論文じゃまずいんじゃない?」
「私は論文は楽しく読みたいんだ。いつも彼の論文を読み終わると、まだ彼の思考に辿り着けていない実感がある。私は彼の思考と繋がりたい。そうしたとき、私はようやく次に進めるように思える」
話しぶりが興奮してきたのを見計らい、次の話題に進む。
「それで、渡したい資料はどれ?」
「その机に乗ってる本の全て」
「これをどうしろと?」
「読んで」
何日かかるのやら。
「この書斎にある本はもう全部読んだの?」
「当然。楽しいよ」
「それはよかった」
ああ、今僕から出たのはため息か。
さて、これをどうしようか。とりあえず一番上から読み進めていくか。
* * *
グロリアス・シーカー症候群について、もう少し詳細な事実を説明しておこう。
今回実験を行った対象は、十代から八十代までの男女である。ここで重要なのは、彼らは今まで何らかの精神疾患を罹患したことがあるわけではない、健常な人間だったということだ。
つまりこれは、既存の診断や分類とは異なる現象である。我々は改めて、この症状の異常性を確認しなければならない。
彼ら被験者には共通点がある。それは、身近に死を経験したことがあるということだ。その程度は様々で、親族や友人から唯の隣人、会社の同僚など関係性は多様である。また、死因が病死だったのか、事故だったのか、それとも事件だったのかについても様々である。このグロリアス・シーカー症候群は様々な年齢の様々な背景を持つ人間に対して、統計的にはランダムに発生している。しかし、過去に死を感じたことがあるかどうかが重要な要因であることは、過去の研究から明らかである(Dover 1999)。
* * *
具体的な症状についても、様々な報告がされている。
最も一般的な現象は自殺である。高所からの落下や道路及び線路への飛び込みが見られた。一方で、前後の診断からは、彼らに自殺願望があるような兆候は見られず、これは衝動的なものであると考えられている。しかし、これら診断の正確性の如何については議論の余地がある。我々はいかにして彼らの心情を知るべきなのだろうか。私はこれについて、新たなシミュレーションを構築した。しかし未だにその具体について情報は得られておらず、未知の要素は非常に多い。
さて、症例の話に戻ろう。この話題は今までの文献でも避けられてきた内容であるが、ここでは述べようと思う。これはグロリアス・シーカー症候群の罹患者への道徳的配慮や、今後起こるであろう差別や偏見を防ぐためである。当文書の入手は専門家に限られており、一般には公開されていないことを考慮し、この文書が医学的価値を持つことを優先して記述する。
* * *
ここで一度、読むのをやめた。
次だ、次へ行こう。
僕が知ってしまう前に。
* * *
グロリアス・シーカー症候群の症状発症には傾向がある。特に日の出ていない間、夜間に起こることが多い。この原因についても未だ分かっていないことが多かったが、今回の検証から、グロリアス・シーカー症候群のトリガーは星であることが解明された。特に太陽と月は除いて、天体が見えない条件下であると、発症する例が多く見られた。
精神疾患と天体の関連は前代未聞である。私はこの現象と星系意思の関連性を今後検証すべく、前述のシミュレーションに新たな要素を付け加えた。
* * *
ふう、ここで一息。
段々目が疲れてきた。一度休もう。
一方で彼女は、本当に一度も休まずに本を読み続ける。黒くて長い髪は、読書少女の様に合う。
…そうか、星か。
そういえば、最近あの星を見ていない気がする。名前は、えっと、ウインクだ。
自宅に戻れば、見ることだけなら出来るだろう。場所はしっかり覚えている。
「ほら、次だよ」
「ちょっと休憩中」
「そうか。なら、それでもいい」
なんだか悔しくて、次に進む。
* * *
おそらく、「その日」が人生で最も多くの本を読んだ日になった。
眩暈がひどい。
だんだんと、僕の記憶が解かれていくようだ。
ああ、そうか。
僕は忘れていたんだと思う。
でも、それは忘れてはいけない。これは、一度目の贖罪だったのだから。
罪人が償いを忘れてはいけないものだ。
でもね、瑛摩から。
囚人が囚人としての務めを果たす間は、看守も看守としての務めを果たすんだよ。
そうしないのであれば、看守もまた罪人だ。
ああいや、この考え方はいけない。他責は僕の趣味じゃない。
そのときはそう思った。だけど、「今」の僕は少し違うんだ。
僕たちは実は、共犯者だったんだよ。
だから僕たちは、そういう契約に結ばれた、そういう者同士だったんだ。
そうか。
君の言い分にも、理はある。
そうかそうか、それが私たちの呪いだったわけだな。
私たち二人を決して離さないよう、世界が繋ぎとめた運命だった。
そうか、そうか。
これがロマンスか。
私たちの物語は、はじめからおわりまでランデヴーだったのを思い出したよ。
思い出したのは、ずっと前のことだけど。
いわゆる逃避行、というやつだね。
君は、君自身の境遇についてはよく分かっていたんだ。
だけど、君は君の心について何も知らない。
だから、少しだけ遡ってみよう。覚悟ができたみたいだからね。
一度目の贖罪の前には、一度目の罪が。二度目の贖罪の前には、二度目の罪が。
今はまず、一度目の罪について、その記憶を解いていこう。
さあ、手を動かして。
君が進めていくんだ。
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