【第一章:ノブレス・オブリージュ⑫】

「よし」



 帽子を被り直す。こんなに暑くなるなら、持ってきて正解だったな。



 いや、そんなことはどうでもいい。



「いきます」



 相手に聞こえるか聞こえないか、そんな声で呟く。



 ちょうど手で覆えないくらいの大きさの球が、ふわっと左手から離れる。それは重力に逆らい、まるで吸い込まれていくように蒼穹に向かっていく。



 そしてそれが、やっと、摂理に逆らうのをやめて、地面に恋しく落下してくる。



 瞬間、弧が球を打ち抜いた。それは元は面だけど、速さに混ざって次元が圧縮されて、一筋の線形になって、空間を横切った。



 球は真っすぐ走った。蒼穹の下、驚くほど直線的な軌道だった。でもそれは、あまり都合がよくなくて。



 球は無事ネットを越えたけれど、地面との接点はサービスラインの向こう側。すぐに審判の手が上がった。



 とぼとぼとベンチに戻ってくる僕を、特に何の恣意も混めずに見つめる才媛がいた。



「下手」



「直球!」



「それは、テニスとかけている?」



 はあ、とため息をつく。特に返答のことは考えず、彼女の横に座った。ベンチは、ポールに板が張られただけの屋根が備え付けられていて、日陰になっている。とはいえ、このジメジメした空気にとって、屋根なんかほとんど意味がない。



「暑い」



「うん」



 しばらくすると、彼女の番が回ってきた。特に言葉を置いていくこともなく、コートに向かっていった。あの、夜空のように綺麗に在る髪は、ただ下へと流れているだけではない。この時間だけは上向きに結われた不思議な曲線流を見ることができる。



「よし」



 張り詰めた空気の中、ふわっと球を投げる。それは、僕が脳内で勝手に描いた完璧と全く合同に動き、そしてまた、完璧なサーブショットが放たれた。一種の芸術だ。



 球はほどよい距離で直線から放物線に切り替わり、サービスラインの際をしっかりと跳ねた。相手はコート端に走り、鋭く球を返す。すると、それをじっと見ていた彼女がゆっくりと余裕をもって着地点に向かい、鮮やかにラケットを振る。





 すぱっ、と。

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