【アップ】男山教会2023年6月18日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】男山教会2023年6月18日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=QEorXvE_ZTw&feature=youtu.be


【アメーバブログ】

聖書や讃美歌の内容などは、こちらのブログより閲覧できます。

ぜひお気軽にお立ち寄り下さい^^

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12809189746.html



前奏

招詞

コリントの信徒への手紙二 1章4,5節

頌 栄 たたえよ、主の民[こ改25]

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問40

「イエスさまのもとに」

こどもさんびか

あいのしゅイエスは [改124(3節)]

牧会 祈祷

讃 美 歌 214番

聖書

使徒言行録16章6~10節(新約P245)

詩編89編20~30節(旧約P927)

説 教

「マケドニア人への召命~

主の備えられた宣教の道」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 519番

みことばの交読文

イザヤ55章8~11節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 541番

祝 祷

報 告



讃美歌~♬


讃美歌第214番「北のはてなる」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=kp1DGXipIhE


1 

北のはてなる  こおりの山、

てる日にやくる まさごの原、

叫びともむる  声ぞひびく、

「迷いのくさり 解き放て」と。

2 

めぐみの露は  草木にすら

ゆたかにかかり、天つさかえ

野にも山にも  みちわたるを、

などか人のみ  罪に染みし。

3 

上なき知恵に  てらされたる

我らはいかで  このひかりを、

暗きにまよう  世の民らに

てらさで隠し  秘めおくべき。

4 

大君イエスの  み代をしらす

時のくるまで  いよよ励み、

救いのひかり  たかくかかげ、

あまねく照らせ、四方の国に。  


アカペラ4声 讃美歌519番 わが君イェスよ うき世の船路

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=NI1D3aFF4wA


1

わが君イエスよ、浮き世の船路、

夜も日も安く、導き給え、

主よ、主よ、

嵐に悩む、この身を常に、

導き給え

2

波ほえたけり、雲きりたてど、

行く手をさやに、しめさせたまえ、

主よ、主よ、

嵐に悩む、この身を常に、

導き給え。

3

みひかりみつる、とこ世の国へ、

わが君イエスよ、ともないたまえ、

主よ、主よ、

嵐に悩む、この身を常に、

導き給え



2023年6月18日 礼拝説教 中心聖句


その(幻の)中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。

使徒言行録16章9節


あなたの慈しみに生きる人々にかつて、あなたは幻によってお告げになりました。「わたしは一人の勇士に助けを約束する。わたしは彼を民の中から選んで高く上げた。

詩編89章20節


はじめに

主の召命によって一つされた教会の使命である福音宣教を求めつつ学ぶ。

「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とは、パウロとシラス、リストラで加わった、テモテたちが、リストラから進んで、さらに、現在のトルコ西部にあたるローマの属州である「アジア州」の内陸部に向かっていくことを、聖霊によって禁じられたこと。「フリギア・ガラテヤ地方」とは、リストラから見て北進することになる。「ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとした」とは、途中、西方に進み、右手の「ビティニア州に入ろう」としたこと。このときも、「イエスの霊(その霊:聖霊と同じ)がそれを許さなかった」。どうして、聖霊は、二度も、その道を閉ざされたのであろうか。それは、宣教の主であるまことの神とキリストが、その先の目的地を定めておられたから。第二回伝道旅行において、海を渡って、マケドニア、アカイアを経て、再び、海を渡ってアジア州のエフェソに戻ってくる。神の備えられたアジア州伝道は、エフェソに向かうことにあった。それは人間的に言えば、内陸(高地が続く)を通る労力(徒歩か馬車)からしても、むしろ、海岸沿いの都市で、海からの方がアクセスしやすい。限られた時間(召された宣教の生涯)の中で、最善の実りを見る道とも言える(旅行期間1年半:A.D.49年半ばから51年の終わり頃)。結果として、第一回伝道旅行で迫害を受けたピシディア州のアンティオキア(13章45節)を再訪しなかった。

「その夜、パウロは幻を見た」。それは、新たな伝道地を示す、神からの目に見える啓示(コルネリウスの時「神の天使」10章3節)。「その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った(懇願した)」。伝道の荒野はいつの時代においても広がっている。ならば、我々はどこに向かって出ていくのか。それは同時に「だれに」である。昨年新たな戦禍の中5月にハンガリー宣教も「ハンガリー人への伝道」を召しとして宣教師一家が遣わされた。また、当時なおアパルトヘイト政策下にあった南アフリカから日本への宣教師派遣も、1978年に滋賀の地で開始された。それらは、人の思いとあらゆる障壁を超えてなされる、聖霊なる神による派遣であり、福音宣教と教会建設の道。

「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐに(まっすぐに)マケドニアへ向けて出発する(を求めて行く)ことにした」。「マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたち(同行のルカたちのただ中で)を召されている(一つに結びつけておられる)のだと、確信するに至ったからである」。マケドニア州への派遣は、アカイア州へとつながっていく。後に、パウロは、フィリピ、テサロニケ、コリントへの手紙を書く。「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至った」(テサロニケ一1章6節)と。

おわりに

かつて、「主の言葉」「幻」は、「その夜」預言者ナタンをとおしてダビデに告げられた(サムエル下7章4-17節)。ダビデに立てられた契約は、御子の到来と聖霊降臨日にその実現を見る。「一人の勇士」たる主の召しを共に求め行きたい。



(Mynote)


二〇二三六月一八日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。

【今年度の目標と聖句】

「希望の源である神が、信仰によって得られる凡ゆる喜びと平和とであなた方を満たし、聖霊の働きに依って希望に満ち溢れさせて下さる様に。」(『ローマの信徒への手紙』第一五章一三節)


〈子供メッセージ〉

『子供と親のカテキズム 問四〇』

「私達は死んだ後、どうなりますか。」

「死んで終わりではありません。死んだ後、私達の魂は完全に清められ、天に居られるイエス様のもとに引き上げられます。体はイエス様に結び合わされたまま墓の中に休みます。」

ラザロのエピソードを話された。イエス様、即ち神様を信じる者は誰でも復活し、永遠の命を与る。イエス様は神様に祈られ、ラザロを復活させられた。これは天に居られる神様の業である。この事を信じる事が誰にとっても大事に在る。自分の命を思う上で、そして誠の神様を信じ、知る為である。

〈公同礼拝〉

『使徒行伝』(第一六章六〜一〇節)

『詩篇』(第八九篇二〇〜三〇節)

『使徒行伝』のこの箇所は、福音の道が神様から与えられ備えられたエピソードである。

パウロ達一行が、アジアで布教する事はまだ聖霊に禁じられ、又、それからフルギヤ・ガラテヤ地方経由でムシヤからビテニヤに行って布教しようとしたところ、ここでもイエス様の御霊により許されなかった。詰り、行こうとして居た二つの宣教地が遮断され、それからマケドニヤ地方へ行き、そこで布教活動をしたのである。

この時、パウロは一つの幻を見た(この聖書に在る幻は夢と解釈される事が多い)。その幻の中で一人のマケドニヤ人が立って、

「マケドニヤに来て、私達を助けて下さい」

とパウロに懇願するものだった。この幻を見たパウロは「これは彼らにこそ今、福音を宣べ伝えなければ成らないと言う、神様のお招きなのだ」と確信し、それからマケドニヤに行く事にした。

そして『詩篇』のこの箇所では、主のしもべとなったダビデの事が記されて居る。ダビデがこれからする神様の働きに於いて、誰もダビデを邪魔する者無く、ダビデを卑しめる者も無く、ダビデを憎む者共を神様が討ち滅ぼすと約束された。神様の誠と慈しみはこのダビデと共に在り、全世界に於いてダビデが赴く所には神様の備えと恵みが用意された。そしてダビデは地上の王の中で最も高い位に就く者とされた。主の契約はダビデの為に堅く立ち、ダビデの子孫の繁栄も堅く約束され、そのダビデの栄えは永久(とこしえ)に守られた。

我々は日常に於いて、街中で隣に座った人の誰もに対し、気軽に話し掛けるだろうか?人には人間行動学から成る行動心理が働く上で、やはり常識があり、誰もに対して気軽に話し掛ける事は相手の心に気遣う上、またそれにより自分が傷付けられる事を恐れ、つい保身する上で話し掛けない。しかしそれはこの人間の地上・常識に於いて正しい事とされ、又は美徳とされる事もあり、それが当り前だと教えられる。しかしこの時に、神様がその人に「隣の人に話し掛けよ」と良心を響かせ教えられた場合、その人はどうするだろうか。やはりこれ迄通りの人間の常識・習慣に従い、隣人に話し掛ける事・そこで関係を持つ事を避けるだろうか。それより自分にとって心安い人、自分が好きな人の所に行って、そう言う人をメインに交流を持ち、安心出来る環境と交流を保とうとするのではないか。

この様な日常の事も、パウロの福音宣教の様子・内実に似て居る。自分が行きたい所・必要とした場所へ向かう時、神様とイエス様の聖霊・御霊により整えられ、新たな福音の道が備えられた。詰り神様が御用意されたその道には先があると言う事である。神様は全ての人を見守る上で、その人の前後の事をもご存知の上、備えられる。信仰に歩まされる上、その人が神様に聴き従い信仰に依る上で、その先の道や取るべき行動は、神様が予め御用意されるのである。

パウロも次第に老齢に差し掛かり、一つの地方へ赴くにも大変だった。だから幾ら神様にそう教えられても、その旅程を遂げようと試みる際にはやはり人間としての躊躇が芽生えておかしくない。更には自分を迫害する者達・自分達の身にとって危険が在ると予測出来る土地に行きたくないと思うのは、誰にとっても当然となる。

けれど神様が御用意された道を歩む時、その先に危険は一切無く、それよりも祝福が想像以上に在る。この事を、果してどれだけの人が知る程に信じる事が出来るか?これはダビデの時でもおそらく同じだったろう。神様の備え無しに全ての福音(こと)は成らず、やはり飽くまで人間主観の常識に囚われた儘、その人間の世界の中で全ての事を終えてしまう。これは人が主観的に動く結果に在り、固より限界の有る人間を土台にするからそう成るのである。神様の恵みと癒しに限りは無い。この根本的な土台の違いから、時に人にはその神様の御計画の内容が解らない事がある。だからこそ信仰が必要と成り、神様に教えられた事を「必ず成功する・総じて神様の恵みに与れる事」を知る程に信じる心の姿勢が必要なのだ。

教会も今、この人間社会の中で共存して居り、人の交流の中で、誰でも来訪出来る場所として在る。教会はエリート集団が管理する場所でなく、全ての人達のものである。そして教会の主はイエス・キリストであり、その天の父である神様である。この関係が在るからこそ教会に集う人達の間には聖霊が働き、夫々の人の信仰が生長させられて生く。教会は知識層から生まれた場所と捉えられがちの為、ついそう言う人達のものだと間違われる。この常識・習慣を先ず捨てなければ成らない。これは又特に、教会の内に居る人達に強く問われる事にもある。

「一人のマケドニヤ人が立って…」と言うこの箇所が大事である。一人の人が立って居る…と言う事は、その一人が先ず助けを求めて居る事実が分かる。伝道(福音・布教)とは、その場所に行く事ではなく、その場所に居る「人」に対して行うのである。場所でなく人。この事が同時に教えられる。この事は、つい人に忘れられがちである。詰りは形に囚われがちに成り、人を見落とし、その形式(場所・儀式・自分が定めた信仰の在り方)を最優先し、人を救う為の努力を忘れるのである。神様に会い、聖霊に依り、そこから生まれる信仰に依り「人を救う為の努力」を忘れるのである。人を助ける事・即ちその人を救うのは無論人でなく、神様であり聖霊の働きである。伝道者は、その神様の助け・恵み・聖霊の働きにより一人でも多くの人が神様の前で救われる事(信仰に依り救われる事)を祈り願わねば成らず、その為の努力を連続してする訳である。連続と言ってもこれは疲れを意味せず、神様の御計画・備えの内にその伝道者と救われる者達は在る為、神様が予めその為に御用意された試練以外の疲労も悲しみも非難も無い。これ等の事を、知る程に信じる事が出来るかが大事となる。

西欧の牧師は、わざわざ極東に在る(一番遠い)日本にまで宣教活動に来る訳である。これも神様が御用意された導きに在り、神様が備えられたその福音の為の土台と恵みが在るから出来るのである。日本まで宣教に来る事は、他のどの国に行くより資金が掛かる事も意味する。

ただ一人のマケドニヤ人のその助けを求める声を聴き、神様が御用意されたその道だったからこそ、パウロはそのマケドニヤの地でこそ福音を宣べ伝えねば成らないと確信に至り、実際にその事が成ったのである。人間的な迷いを踏まえ、パウロもこの伝道の確信を得たのである。

御言葉を受け入れる事は、神様の教えを学ぶ事に在る。模範的な教会となる為にも、その教会に集う全ての人が神様の御言葉に聴き従い、その神様の御言葉・教え・御計画に学ぶ事に大事が在り、その事にこそ救いが在る。

信仰から態と目をそらしたり離れたりすると、途端に聖書の言葉が色褪せる事がある。これも神様が教えて下さって居る。常に私を求めよ。そして常に私に祈れ。あなたの隣には私が居る。あなたの頭上には私が居る。あなたの後ろには私が居る。そしてあなたの前には私が居ると。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


榎本保郎牧師 ミニ説教9 「信仰の足どり 確かに」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=9QAStJLYjiA


「信仰の始まり―ザアカイの救い」

THE DAILY with Arthur Hollands 2023/06/23

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MvYyTFTgiDU


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)




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