冷血魔法使いが愛する彼女のごはん

遊森謡子

第1話 美味しいと言わせるまで帰れません

 がしゃん! と皿が床に落ちて割れ、だし巻き卵が飛び散った。


「何するの!? お客さんじゃないなら出てって!」

 叫んだ私の前に、軍服姿の男が数人、立ちはだかる。

「『七つの歌亭』店長のナノカだな。店を調べさせてもらう」

「は!? ここはただの食堂で、あの、待って!」

 軍人が強引に、厨房と、二階の狭い居住スペースに入っていく。雇っている店員さんが、厨房から怯えた表情で飛び出してきた。

「て、店長! なんか、軍人が勝手に予約帳とか調べてます、これ何!?」

 お客さんたちも、

「ナノカちゃん、どうしたの!?」

「軍人さんがた、説明してくれ!」

 と詰め寄ってくれる。


 ここは、小さな港町ウィンポルトの路地裏食堂『七つの歌亭』だ。

 カウンター八席、二人掛けテーブル二つの小さな店で、最近やっと開店一周年を迎えた。無事に軌道に乗り、夕方の今は満員だ。外の赤茶色の屋根の下、数人のお客さんが白い壁沿いに並んで待っている。

 秋の始め、入り口の木戸は開け放してあり、涼しい風が海の匂いを運んでくる。立てかけてある黒板には、『今日の定食・揚げ魚と野菜の酢漬け、塩肉ジャガ、だし巻き卵』の文字。

 そんな店に、山側の砦に常駐している国境警備軍が数人、いきなり踏み込んできたのだ。


 彼らのボスらしきガチムチの中年ヒゲ男が、細い目でぎろりと店内を睥睨してから、私を見る。

「情報班、班長のガスマンだ。この店に来ていた、トニオという男を知っているな」

「えっ? トニオさんって……船乗りの? ウィンポルト港に船が寄るたび、うちに食事をしに来てるけど」

 私が答え、お客さんたちも「常連だよな」「うん」とざわざわする。

 班長は、お客さんの顔を一人一人確認しながら言った。

「トニオが隣国デイドのスパイだと、知っていた者は自分から申し出た方が身のためだぞ。ここを連絡所にしていたそうだな」

「えええ!?」

 私は仰天する。

 トニオさんといえば、声が小さくてやたらビクビクオドオドしていて、そのくせお代わり自由のアラ汁は遠慮なく五杯も六杯も食べる人だ。あのトニオさんが、スパイ!?

「そんなの知らない、店は関係ない!」

「話は砦でゆっくり聞かせてもらう。来い」

「あっ、ちょっと!」

 私は両側から腕を掴まれ、店から連れ出されてしまった。

「待ちなさいよ、ええと、お客さんがたー! 今日のお代は結構ですので!」

 頭だけ振り向いて叫ぶ。

「店長!」

 半泣きになっている店員にも、指示を出した。

「悪いけど、留守番お願い! ちゃんと話してくるから!」

 馬車に引っ立てられる私の背後から、

「お店、片づけて綺麗にしておくからね!」

「ナノカちゃんにひどいことするんじゃないぞ!」

 と常連さんたちの声が口々に聞こえてくる。

 馬車に乗せられながら、私は軍人を振り返ってにらみつけた。

「店を壊したら承知しないから。トニオさんは『七つの歌亭』の料理が大好きで来てただけだし」

「どうだか。あいつはデイドの高官の息子だそうだ。さぞ高級料理を食べ慣れて舌が肥えているだろうに、こんな下町の安い定食目当てで来るはずがない」

「ふん、一度食べてから言ってよね。うちの料理は美味しくてスパイすら通っちゃうだけですから!」

 すると不意に、きらり、と班長は目を光らせた。

「ほう。ちょうどいいかもしれんな」

「は? 何が?」

 聞き返す私に、班長はふてぶてしく告げる。

「本当にお前の料理が美味いかどうか、砦で作って証明してもらおうじゃないか」

「いいですとも、それで疑いが晴れるならね。ほっぺた落っことしてあわてても知らないから!」


 ──と。

 売り言葉に買い言葉で返事してしまったのが、運命の分かれ目だったのかもしれない。


 今、私の目の前には、一人の男がいる。

 いくつもの本棚と机くらいしかない部屋の奥、ぶかぶかの黒ローブをまとった彼は、机に向かって背を丸め一心不乱に書き物をしていた。机に大量の本が積み上がっているし、癖のあるグレーの長髪が垂れ下がっているので、私には顔が見えない。

 本と紙束は、机の周りにもあちこちに山を作っている。板張りの床には直接、何かをチョークで書きつけた文字や図形があった。

 机の方から時々、何か固いものがカチカチとぶつかり合う音がする。何だろう?


 ラトラルビー王国と隣国デイド王国との国境には、山々が連なっている。ここは港町ウィンポルトから山を上ったところにある、国境警備軍の砦だ。

 城塞、というのだろうか、ロの字型の巨大な建物があって、その中にさらにいくつも建物がある。

 私がいるのは、『魔法研究所』と呼ばれる建物群の一つだ。数人の魔法研究者がそれぞれ平屋の家、いわばラボを持っているそうで、通っている者もいれば住んでいる者もいる。

 灰色の髪の彼は、住んでいるらしい。


『この研究室の魔法使いは、ずっとまともな食事をとっていない。食事をさせろ』

 ヒゲの班長さんはそう言った。

『彼がお前の料理を食べて美味いといったら、釈放してやる。食材は軍の大食堂の分と一緒に、ウィンポルトの市場から仕入れる。ほしいものを料理長に伝えておけ。今日はひとまず、大食堂の厨房から好きなものを持って行っていい』


 そして私は食材とともにこのラボに放り込まれ、背後の扉はすでに閉まっているのだった。

(この人、扉を開け閉めする音には反応しなかった。聞こえてないのかな? それとも、無視してるだけ?)

 私は意を決して、呼びかける。

「失礼します」

 ビクッ、と背中が跳ね、彼は思いがけない素早さで振り向いた。

 かすれた声が漏れる。

「は? 女?」


 伸ばしっぱなしの前髪の隙間から、ハッとするほど綺麗な新緑色の瞳がのぞいていた。

 けれど、その目は明らかにこちらを警戒してギラついている。怯えているようにも見えた。

 彼が、このラボの主、魔法使いルナウトだ。


(どういう反応?)

 内心首を傾げつつも、私は愛想良く笑みを浮かべた。

 料理を作って報酬(釈放の許可)をもらうんだから、ルナウトさんはお客さんである。

「料理人の、ナノカといいます。ガスマン班長に言われて、食事を作りにきました」

「いらない」

 即答だった。かすれ声で拒否しながら、彼は右手で面倒くさそうに払いのける仕草をする。

 その、ローブの袖口からのぞく手首はとても細く、不健康に痩せていた。肌は青白く、目にもクマがあるようだ。

(今にも倒れそうじゃないの!)

 ラボで男性と二人きりになるのはさすがに、と思って班長さんに聞いたんだけど、

『そんな体力が残っていたら、お前に食事作りなど頼まない』

 とのことだった。

(衰弱してるってこと? どういうことなの、いったい……)

 手にした籠の中の食材で、消化のいいものを作ろうと算段しながら、私は言葉を続ける。

「研究のお邪魔はしません。作って置いておきます」

「いらないって言ってるだろ」

 かすかな苛立ちを含んだ声で再び拒否し、彼はすぐに机に向き直った。

 でも、こちらも引き下がるわけにはいかない。

(ルナウトさんに美味しいと言わせないと、スパイに協力してたっていう疑いが晴れないんだから!)

「厨房、お借りしますねー」

 私はさっさと右手の扉に向かい、中に入って扉を閉めた。ここが厨房だと聞いている。

 少し待ってみたけれど、ルナウトさんが怒鳴り込んで来る様子はなかった。

(年齢不詳だったなー、それにあの手……どうしたんだろう)

 たった今の様子を思い返す。

 払いのける仕草をした彼の、その左手は、一部が金属だったのだ。部分的な義手(義指?)かもしれない。カチカチと鳴っていたのは、金属の指が机に当たる音だったようだ。


 気を取り直して見回してみると、厨房は意外と綺麗だった。

 というか、水道以外、使われている形跡がない。調理器具はラボの備品として一通り揃っていると聞いてきたんだけど、うっすら埃をかぶっている。

 床下の貯蔵庫は温度が低く、肉や魚はそこに保存するのが普通なんだけど、空っぽだ。ゴミ箱があったのでのぞいてみると、果物の種と野菜の皮が入っていた。しかも、包丁を使わず手で剥けるものだけだ。

(まさか、生で食べられるものしか食べてないの?)

 もちろん、それで大丈夫な人もいるのだろう。でも栄養って、加熱しないと吸収できないとか、脂と一緒じゃないと吸収できないとか、そういう種類のものもある。

 ルナウトさんは体調が悪そうなんだから、生ばっかりはよくないような気がする。


(ああもう……何か事情があるなら説明しろってのよ、あのボケ班長)

 心の中で悪態をついた私は、くしゅんっ、とくしゃみをした。山の上のせいか、港町より気温が低い。

(さっさと料理を始めよう)

 煮たり焼いたりすれば、厨房も暖まるはずだ。

 ざっと掃除をし、調理器具を片っ端から洗って、いざ! 調理開始である。

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