定時後ファンタジー

地の底マントル

プロローグ ~ファンタジーの夜明け~

第1話 定時に帰っただけなのに

 僕は今日、生まれて初めて定時で退社した。


 今の会社に新卒で入社して早5年。競争が激しい化粧品業界で働いているため、朝から晩まで市場調査や新コンセプトサンプルの処方決め、試作、プレゼン資料作成の毎日。休日も月の半分は出勤。それでも終電までには帰れるのが唯一の救いだ。


 今の仕事にやりがいを感じてはいるが、帰宅して晩御飯を食べて寝るだけの生活にうんざりしていた。自分は一体なんの為に働いているのか分からなくなってきていた。


 そんな僕は退屈な人生を変えるべく考えた。そして熟考を重ねて出した結論が、勇気をもって定時に帰ることだった。


 皆さんは定時にタイムカードを切るだけなんて簡単じゃないかとお考えだろう。その行為自体は確かに簡単である。しかし、恐ろしいのはその後遺症とも言うべき、定時上がり翌日の現象の数々だ。


 まず、朝出勤するとデスクに色鮮やかな付箋がまるでお花畑のように張られている。ここで気を付けていただきたいのは、これらは決して綺麗な花ではなく、軽く触れただけで出血してしまうほど鋭利な棘を持っている危険な花だという事だ。


 定時上がり=余裕がある=仕事を振れる


 一見シンプルな等式に見えるが、落ち着いて考えるとかなりの難問である。数学の父たちですら頭を抱えるであろうこの数式が現代社会人たちの中には常識としてあるのだろう。ちなみに、この式を証明すると「定時帰りの翌日は仕事が増える」である(証明終了)。


 他にも、定時後に来たメール(普通は定時後にメールしないのがマナーではないかと思うが)の返信や、上長からの嫌味などが待ち受けている。


 真面目な僕はこれらを想像するだけで吐き気を催し、定時帰りを躊躇ってしまう。実際、定時帰りを2度ほどした先輩が耐えられず退職しているのを見ているからなおさらだ。


 しかし、踏み出さなければこのまま年を重ねて退屈な人生を送るだけだという事も理解している。極端な考えであることは重々承知しているが、冷静になって考えれば、ただ定時に帰るだけだ。法は犯していない。よし、いける。



 約束の日。名前だけのノー残業デイ。僕は、定時の1時間前まで普段通り業務を遂行し、その後は定時に即帰宅ができるように、キリの良いところで業務を区切っていった。できる限り翌日に強烈なカウンターを受けないよう、自衛の準備に抜かりはない。


 そして、迎えた定時。解放のチャイムが鳴り、僕は席を立つ。仕事場を出るルートに障害が無いことを確認し、大きく息を吸い込む。3拍ほど置き、脳と心臓を落ち着かせて心身を整える。スマートウォッチの数値に異常は無い。

 チャイムが鳴り終わり、流れる一瞬の静寂の中。僕は静かに口を開く。


「お先に失礼します」


 決して大きい声ではなく、デスク3つ分ほど離れている上長の耳に入るか入らないかの声量で言った。その時の同僚たちの反応は覚えていない。僕にはロッカールームまでの道しか見えていなかったからだ。


 普段仕事をしている居室を抜け、ロッカールームのある1階へと階段で降り、作業着を脱ぎ、守衛に挨拶をして、エントランスを出た。この時の解放感は、就職活動の最終面接が終わった時以来の感覚だった。この後、映画を観に行ったり、焼き肉を食べに行く時間だってある。なんだってできる。


 僕は解放された。自由になった(ただ定時に退社しただけである)。


 まだ明るいうちに帰路につくと、自分が生きていることを実感できた。たがが定時、されど定時。たった1回の定時帰りで僕は生を感じることが出来た。

 とは言っても、しっかりと定時まで働いた疲れがあったので、今日は早く帰ってゆっくり過ごすことにした。自宅近くにコンビニに寄ってビールを数本と、珍味を買って帰った。


 アパートに到着すると、部屋のドアから光が漏れていた。出社前には必ず部屋の中を見渡していたはずだが、今日は重要なミッションがあったから、電気を消すのを忘れていたのかもしれない。そう思っていたが、部屋に近づくにつれて発光が強くなっていく。不自然なまでの輝きを放つ光を目にしても、何故か目を瞑ることは無かった。全身から冷汗が湧き出て、鳥肌が立っていたが、目を離すことなく歩を進めていた。


 ドアの前に立ち、部屋番号を確認する。103号室で間違いない。ドアノブを捻る、カギは締まっている。唾を飲み、鍵を差し込んで開錠し、ドアを開けた途端、全身が光に包まれ、真っ白な世界に誘われる。

 反射的に目を閉じ、中に踏み入る。目を開けると魔法の世界かもしれない。


 恐怖と期待を胸いっぱいに、恐る恐る目を開けると、いつもの部屋の中で知らない男が煙草を吸っていた。

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