世界が終わる日に
タツノツタ
第1話
「明日世界が終わるなら何食べたい?」
おおかたの生徒が昼食を済ませて、あと15分ほどで午後の授業が始まるという教室でそんな会話が耳に入ってきた。
オイオイお昼ご飯食べた後にまた食事の話とかどんなデブだよと、と思って視線を読みかけの小説から、会話の現場に向けた。
会話はデブ同士ではなくどちらかといえばイケメンと文句なしのフツメンとで交わされていた。
イケメン、フツメンは標準もしくは標準以下の脂肪量を有していて、標準以上の脂肪を有するデブとは異なり、見苦しさや暑苦しさといった苦しみを周囲に付与しないからイケメン、フツメンなのだ。
これは私が考えた一つの結論。何を考えてたかというと、イケメンとデブの違いについて数学の授業中に考えていたこと。
苦しさを付与しないタイプのデブは可愛いとか、ぽっちゃりとかと呼ばれる。少なくとも私はそう呼ぶ。そもそも、デブという言葉は攻撃性に溢れているとてもネガティブな言葉なわけで、私がデブだと思って必死に一人で自己弁護しているのに意味はない。
本当に。
「そうだなぁ、高級寿司とか食べたいな。大トロとかウニとかイクラを食べたい」
「え、お前大トロ食ったことあんの?」
脳内自己弁護を進めている間にも話は進む。
「夏休みにじいちゃん家行った時によ、出前で食べたんだよ」
「どうだった?めちゃうまだった?」
「やっべーよ、魚であんな味?食感?を作れるってやべーよ」
「マジかよ!」
「あんな美味い寿司を、地球最後の日に食べてぇなぁって思ったわ」
「俺最近全然寿司食ってねぇから寿司食いたいな」
話は思ったよりも広がらず、私は勝手に残念がってしまった。
地球最後の日に食べるもの。私は何を食べたいのだろう。
宇宙が誕生して136億年。何も「無」の状態から、無は爆発して宇宙が出来上がった。
色んな神話だと神様が「光あれ」とか言って宇宙が、太陽や星々を作ったと伝えられている。
前にチラッと読んだ本の挿絵で「神様が宇宙を作ったなら、誰が神様を作った?」という一文と、入れ子構造になった神様と宇宙が描かれていた。
当時の私は『確かに・・・誰が神様を作ったのだろう」と、この命題に感激した。
その後に読んだ少し古い漫画では、神と呼ばれる存在であり強力な異星人が地球を、文明を何度も作り直している、とあった。
その設定にも私は「なるほど・・・!」と感激した。
一昔前の作品ながら色褪せずに魅力あふれるキャラにハマって読んでいたが、その設定に驚愕して、人生観が入れ違った気がした。
世界は何度も作り直されている。私たちがスケッチブックのページを破って新しい絵を書くように、組み上げたレゴを分解して違う物を組み上げるように、やり直しとは違う、改善を目指したリトライ。
不意に終わりを迎えて、次の周が始まる。
この考えは私の頭の中に根を張り、日常生活にどうという影響も与えない世界観となった。
その世界観が再び頭をもたげてきた。
クラスのイケメンとフツメンの会話をきっかけに。
地球最後の日。地球が終わる日。
自分が死んだ日や死んだ後の日ではなく、私と地球が同じ日に終わる日。
地球の中心は私なんて考えではないが、私は私が地球に生きているから地球を観測、確認できている。
私が地球を観測できなくなった時、死んだり、脳が正常に機能しなくなった時、私にとっての地球は終わりを迎える。
観測して存在を確認出来ているから、物質は存在しているって偉い科学者が言ったと父は言っていた。その考えを自分に当てはめて、地球も私が観測しているから存在していると思った。
それでも私が死んだ後も地球は回り続けるし、社会も小さく大きく変化しながら存在し続けるだろう。
乱暴にいうと死んだ後のことは知ったこっちゃない。ってことだ。
そもそも、地球最後の日を考えると、どういう最後を迎えるのだろうか。
恐竜を絶滅させたと思われている巨大隕石。今から6600万年前、メキシコのユカタン半島に落ちた直径10kmの隕石は凄まじい衝撃で恐竜の絶滅原因になったと言われる。
巨大隕石の衝突によって恐竜は絶滅したが、原始哺乳類や魚は生き残り、恐竜も鳥類という形で生き延びている説があるが、地球は死んでいない。
巨大隕石では地球を終わらせることは出来ないということか。
となると、地球最後となるのは、地球がブラックホールに飲み込まれる、太陽に飲み込まれる、もっと大きな天体をぶつかる、とかが宇宙的な理由か。
そのほかの理由を考えてみる。
地球温顔化が進行して、地球の表面温度が高くなる。地球上の酸素が少なくなる。何らかの有害な化学物質が大気や海に満たされてしまう。核戦争が起きて世界のあらゆるところに核爆弾が落とされる。
どれも人類やある種の生物にとっては過酷な環境になることは間違いないだろうし、人類は生きていけないかもしれない。
それでもやっぱり地球は生きるだろう。これまた以前読んだ本で、人類だけが居なくなったら地球はどうなるか?というシミュレーションをしていた。その本の中では、人類が消えることで地球は最適なバランスを取り戻す、と推測されていた。
冬休みの読書感想文の課題図書に父から薦められた本だったが、読書した感想が「地球にとって人類は消えた方がいい存在だと思っている作者が書いた本でした」だったので読書感想文は違う本を読んで感想を書いた。
人類が消えた地球の本は厭世、厭人の観を煮詰めたようで読書感想文の課題には不適なだけで、読み物としては面白かった。
ざっくりと有名な、地球に訪れた危機を考えてみた結果、今も地球や地球上の生物は活動をしていることから地球最後の日はもっと壮絶なイベントが無ければ地球は存続していくだろうということだ。
月が落ちてくるとか、そういうレベルの。
ひとまず前提の一つ、地球の終わり方は「月が落ちてくる」にする。どうしてかはわからないし、月が落ちてくる前に重大な影響があるかもしれないとかは考えないでおく。
ある日、空を見上げると地球を押し潰さんとする月で視界を埋め尽くされていた。
その景色は何を食べたいとか考える前に食欲が湧かないんじゃないか・・・?
一周回って、全てを諦めていつも通りの日常を過ごそうとするのか。
ワンチャン生き残ること、月が落ちた後の暮らしのQOLを高めるためにその日の食事を摂らずに食料品の確保に奔走するのだろうか。
いや、交通事故のように気がついたら月が落ちてくるわけではないから、地球最後までの準備期間は何日も何週間、何ヶ月かもあるだろう。
物理で習ったことを思い出す。月が地球に与える影響で最たるものは潮汐力だ。
月の引力に引っ張られるように地球上の海水は移動をしている。月が落ちてくる、地球と月の距離が近くなるということは、作用する距離rが小さくなるということだ。潮汐力を求める公式がパッと思い出せない(そもそも習ったかどうかもわからない)が、潮汐力が大きくなるか小さくなるのどちらかだ。
直感的に作用する距離が短くなれば作用する力は大きくなると思う。
力は距離が離れると小さくなる。
月が日夜問わず近づいてきて潮汐力が強くなり、満潮と干潮の差が大きくなり、次第に海沿いの地域が海に飲み込まれていく。
海沿いの道路、線路が海に呑み込まれて物流が滞る。食べたいものがスーパーやコンビニに並ばなくなる。
月が近づいてきたら人工衛星なんかも機能しなくなるんだろうな。地球か月に落ちてしまう気がする。地球から打ち上げた人工衛星が月に落ちるって、何だか皮肉でロマンチックな響きだ。
ふと視線を窓の外の、窓の上の、空へと向ける。
青い空、白い雲、どこかの誰かの頭の上に飛行機雲が描かれていて、海も見える。
月が近づいてきたら、海辺のこの辺りも沈んでしまうのか。高台にあるこの学校を海が飲み込む様子はどんな光景なんだろう。
今まで誰も見たことのない光景に感動を覚えるのか、恐怖か、絶望か。どんな景色も何度か見るうちに慣れてしまうのだろうけど。
強くなっていく月の引力によって、海以外のものも何かと引っ張られて、温泉やマグマも噴き出てくるのだろう。火山の噴火、大きくなっていく空の月、空は火山の噴煙と月で覆われて、太陽を見る時間が少なくなっていく。
テレビをつけても電波が届かず、スマホも快適な通信状況とはいえず、停電に悩まされながら蝋燭や懐中電灯の灯りで本を読むのが唯一の娯楽。
生鮮野菜も貴重品。缶詰の残り個数を気にしながら食べる生活。
飲料水は確保出来たらいいな。お風呂も入れるし。
海が近くなっても漁師さんは漁に行くどころじゃないな。寿司屋さんだって寿司を握ってる場合じゃない。自分のために魚を獲って、寿司を握る方が優先だ。いや、寿司も握ってる場合じゃない。
そうしてジリジリと食料が尽きていって、最後の食事は乾パン一切れだった、とか地球最後のシミュレーションをしていたらとても劇的とは言えない寂しい結果になってしまった。
時計に目を向けると13時10分、あと5分で午後の授業が始まるけどまだまだ地球の最後には時間があることだし。
もうちょっと都合よい方向で軌道修正して考えてみよう。
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