顔のない探偵③ 余計なアリバイ

まさきひろ




 昼食から帰ってくると、事務所にお客さんがいた。警視庁捜査一課の網野警部ーー若月さんの警察時代の後輩だ。二人は何か話し込んでいたようで、僕が入ってくるなり、急に口を噤んだ。大事な話だったのだろう。僕は「こんにちわ」と網野警部に挨拶してから、コーヒーを淹れ、配膳してから、「ちょっと出かけてきます」と気を利かして退室しようとした。ところが、

「まあまあ越智くん」

 と若月さんが呼び止めた。今日の若月さんがかぶっている仮面は、古代ローマ騎兵がパレードや戦闘の時に着用したという、表情のない銀色のマスクのレプリカだった。

「何でしょう?」

「せっかくだ。君も網野くんの話を聞いてくれ」

「いいんですか?」

 と訊いたら、網野警部は苦虫を噛み潰したような顔で、「捜査のことを部外者に話すのは本当は良くないんだが、若月さんにも話したんだ、まぁいいだろう」

 おまけ扱いか、と思ったが口には出さなかった。

「某月某日午後3時5分、110番通報があった。男性の声で、〝知らない男が家に押し入って、バールで頭を殴られた〟と言う。住所を尋ねると――実名を言っちゃまずいので仮にD坂としておく――その高台にあるお屋敷だというので、直ちに最寄りの交番の警察官を現場に急行させた。呼び鈴を鳴らしても応答がないので中に入ったら、居間で人が倒れていた。血だらけで、そばにバールが落ちていた。庭に続くガラス戸が開いてみて、見ると、焦げ茶色のコートを着た人物が塀を乗り越え逃げていったので、慌てて追いかけたが、逃げられてしまった。

 被害者は、世帯主であるM氏。70歳。多くの不動産を所有し、その地代収入で暮らしている、いわゆる大地主だ。

 死因は、頭部外傷。具体的に、頭蓋骨骨折とそれに伴う出血。複数回殴られている。

 電話には被害者の血がべっとり付着していて、発信履歴から、110番通報は被害者本人と思われる。とすれば、死亡推定時刻は午後3時過ぎになる。

 ……ここまではいいかな?」

「はい」

 網野警部は肯いて、

「次はM氏の家族構成だ。奥さんは15年前に亡くなっていて、娘が二人いる。長女のA子さんは40歳。独身で、M氏と同居していた。一方、次女のB子さんは35歳、既婚者だ。ご主人は同い齢のT氏で、近くのマンションで暮らしている」

「T氏の職業は?」

「発明家、と本人は主張している」

「自称・発明家ってことですか?」

「どうだろう。元は電機メーカーの技術者だったのが、B子さんと結婚して独立したそうだ。特許は、出願はしているがまだ取得にはいたってないようだ」

「それぞれのアリバイは?」

「その日、A子さんとB子さんは近所のフルーツパーラーで会っていた。店の人によると、二人は何か言い争いをしていたらしい」

「どんな言い争いですか?」

 網野警部は手帳を取り出し、声色を使いながら、読み上げた。

「B子さんが〝姉さんでしょ。父さんに変なこと吹き込んだの〟、

 それに対してA子さんが〝私は事実を伝えただけよ〟。

 その後、二人は店を出て、A子さんは買い物、B子さんはむしゃくしゃした気分を紛らわすため散歩していた、と証言している。ただし、二人とも、そのアリバイを裏付けしてくれる人はいない」

「T氏は?」

「近所にある行きつけの喫茶店にいたという。レトロな感じの純喫茶店だ」

「レトロな感じって、知ってるお店ですか?」

「いや、知らない。T氏が写真を撮っていたんだ。店長に頼んで、携帯電話のカメラで。データをコピーさせてもらった。これだ」

 と、網野警部は携帯電話の画面を見せた。茶色とベージュを基調とした落ち着いた感じのインテリアに、アンティークな家具・調度品。カウンターの右端から撮られたもので、カウンター中央に座っている背広姿の中年男性が、カメラに向かって、にこやかに微笑んでいた。

「確かにレトロな感じですね」と僕は言った。「このカウンターはマホガニーですかね?」

「じゃないのかなあ」

 そのカウンターの上に木枠で角形の置き時計があった。時計の針は2時半を指している。

「これ、ひょっとして事件当日の写真ですか?」

「そうらしい。アリバイを尋ねたら自信満々でこの写真を見せてくれた」

「でも、事件があったのは午後3時頃ですよね」

「そうなんだ。それを指摘したら、T氏、慌てちゃって」

「どのくらいお店にいたんですか?」

「半時間ほどいたというから、まあ、アリバイは成立するんだが」

「もちろんお店の人にも確認取られたんですよね?」

「取ったんだが……」網野警部は眉を八の字にして、「それが変なんだ。マスターが言うには、T氏が帰って直ぐ、置き時計を見たら午後三時半を指していた、と」

「T氏の勘違いですかね? 店にいたのは半時間じゃなく、本当は1時間だった」

「いや。そんなに長くはいなかった、とマスターは言っている」

「うーん……」

 確かに変だが、T氏、マスター、どちらが間違っているにせよ、T氏のアリバイは証明されたことになる。

 僕は若月さんを見た。若月さんは背もたれに深く体を預けた姿勢で安楽椅子を静かに揺らしていた。若月さんの表情は、無表情な銀色の仮面の下に隠れて伺えない。

 網野警部の話には続きがあった。「翌日のことだ。長女のA子さんから、家にあったはずの現金一千万円がなくなっている、という訴えがあった」

「一千万円! タンス預金にしてはえらく高額ですね」

「タンス預金じゃない。理由があって、銀行から引き出していたらしい」

「どんな用事です?」

「次女のB子さんから借金を申し込まれたそうだ。ご主人のT氏の研究資金に、と。しかし、B子さんには貸さなかった。直前に、そのことを知った長女のA子さんが大反対して止めさせたんだそうだ」

 〝姉さんでしょ。父さんに変なこと吹き込んだの〟、〝私は事実を伝えただけよ〟

 A子さんとB子さんの口論はそのことだったのか。

「A子さんはどうして反対したんですか?」

「興信所にT氏のことを調べさせた結果、研究資金なんて真っ赤な嘘、本当はギャンブルで作った多額の借金の返済に充てようとしていることを突き止めたからだそうだ」

「で、一千万円は見つかったんですか?」

「まだだ」と網野警部は言ってから、もうすっかり冷めてしまったコーヒーで喉を潤した。「現場から逃走した焦げ茶色のコートの人物だが、現場に近い公園にいたホームレスを容疑者として身柄確保した。名前はS氏としておこう。S氏が身につけていた焦げ茶色のコートには被害者の血が付着していた。しかし、S氏本人は、その日の朝、水飲み場で水を飲んでいたら、背後から誰かに襲われて、服を奪われたという。それが夕方になって、水飲み場のそばに置いてあった、と。アリバイだが、午後3時は昼寝をしていたという。それを裏付ける人は皆無。金のことは何も知らない、とも。現在、S氏のいた公園の周囲を中心に失くなった一千万円の捜索を行っているが、発見にはまだ至っていない。以上だ」

「どう思う?」と若月さんが僕に訊いた。

「もう一度、さっきの写真を見せてくれますか?」

 僕はじっくり写真を見て、

「この置き時計、正面を向いてますね。これだとカウンターにいる人にしか見えない。ちょっと不自然な気がしません? あからさまに、アリバイ工作の気がします」

「うんうん」若月さんが肯いた。

「時間が2時半を指していたのは、T氏が針を動かしたからだと思います。そして、また戻した。その結果、T氏とマスターで話が食い違った」

「そりゃあ無理だよ」と網野警部が異を唱えた。「前面カバーがあるから、針を動かすとしたら、背面のつまみを回さないといけない。マスターや他の客がいるのにそんなことしたらしたら怪しまれる」

「そうですね」

 そこに若月さんが助け舟を出した。「針を動かすのは手間がかかるけど、そっとすり替えるのなら簡単にできる」

「すり替えるって?」

「もう一つ同じ置き時計を用意するんだ」

「どこでそんなもの手に入れるんです?」

「ネットで探すのさ。警察もネットで探してみて、見つかったら、それを扱っているネットショップに協力をお願いして、販売履歴を調べてたらいい」

「なるほど。さっそくそうしてみます」と網野警部は手帳にメモしだした。

「でも、なんでT氏はこんなことしたんでしょうね」と僕は言った。「しなくてもいい余計なアリバイなのに」


                              (つづく)

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