遍在と偏在
吹井賢(ふくいけん)
遍在と偏在
例えば、「あなたは『チェーザレ・ロンブローゾ』という人物を知っているか」と問われた際、「知っている」「聞いたことがある」と答えられる人間は、まず間違いなく少数であろうし、少数ではなくとも集団における少数派であろうが、だが、「犯罪者には共通する身体的、あるいは精神的特徴がある」や「犯罪に走りやすい人間は遺伝的に決定している」という考え方は、一定の支持を得られるのではないだろうか。
その説が正しいか、間違っているかはさておいて、だが。
ロンブローゾは十九世紀の精神科医である。『犯罪学の父』とも呼ばれ、『生来性犯罪者説』、つまりは、「遺伝的に犯罪を行いやすい人間が存在し、また、その人間は身体的特徴から判別できる」という学説を唱えた男だ。彼は、このような、生来的な犯罪者を『ホモ・デリンクエンス(犯罪人)』と呼んだ。
この考え方が正しいかどうかは、俺には分からない。犯罪学的にも、精神医学的にも、社会学的にも下火の説だ、と言及するに留めておこう。この話題について正確に語るとなると、多方面からの、しかも、かなり込み入った説明が必要となるからだ。
俺、即ち椥辻霖雨が、ロンブローゾという隣接科学の人物を想起したのには、明瞭な理由がある。『悪』について連想し、そこから連鎖的に生来性犯罪者説、ロンブローゾと思い至ったのだ。
俺は、彼と話す際、いつも言い知れぬ拒否感のようなものを感じる。
反りが合わない、と言ってしまえば単純だが、そういうわけでもないのだ。むしろ話は合う。だから、そうではなく、言葉に困るが、彼と対面すると、自らの原始的な部分が危険信号を発しているような気がしてくるのだ。
何の説明にもなっていない説明で混乱するばかりだから、端的に状況だけ語ろう。
俺の斜向かいに、鳥辺野弦一郎が腰掛けたのだ。
そして俺は彼を見る度に、『悪』を連想する。
●
ある夏の、私立R大学の大阪キャンパスだった。
七月上旬のある日、俺はC棟の一階に設けられた生協食堂で食事を摂っていた。先輩教授から、「教え子の修士論文を読んで、助言を与えてやってほしい」と頼まれたのが一週間ほど前のこと。論文の第一稿を読み、指摘点を纏めたのが二日前。そして、その先輩教授と教え子に会い、意見を伝えたのが、今日の午前中のことだった。
なお、そちらの方は大した内容ではなかった。論文ではなく、俺の助言がだ。修士論文としては概ね問題がなかった為、俺からの指摘は二、三で済んだ。このまま完成度を上げていけば恙なく修了できるだろう。俺の助言も助力も必要はない。
さて、折角、大阪まで来たのだ、新築のキャンパスを見て回ろうかと考えるも、「見て回ったところで何になるんだ?」という疑問も頭に浮かぶ。生来の出不精なのだ、俺は。
少し早いが、とりあえず昼食にしよう。
そう思い、適当なメニューを注文し、講義中の為だろうか、ガラガラの食堂の中のテーブル席の一角に腰掛けた。丼物を食べ始め、暫くした後、セルフサービスの麦茶を注ぎに向かった。
そうして、席に戻ると、彼がいた。
斜向かいの席だった。否、俺の正面の椅子から左に三つもズレた位置なので、「斜向かい」と表現するのもおかしいかもしれない。知り合いといえども、話し掛けるかどうか、迷う距離だ。空いていることもあり、声は問題なく届くが、世間話に花を咲かせるには不自然な位置取りだ。
かと言って、彼の目の前に移動するのも、気が進まなかった。もう八割程食べ終わっているし、何より俺は、彼のことが苦手だったからだ。
だが、社会人として、すぐ近くに同僚がいるというのに、挨拶をしないことも無礼だろう。そう思い、俺は声を掛けることにした。
「鳥辺野
男は顔を上げ、こちらを見ると、ああ、と声を漏らし、
「くく、お久しぶりです、椥辻
と、挨拶を返した。
鳥辺野弦一郎。
私立R大学大学院人間科学研究科の准教授だ。つまりは、俺の同僚だった。
同じ大学の准教授、しかも同じく、社会学を学ぶ者ながら、俺と鳥辺野准教授の接点は、かなり少なかった。理由は幾つかある。普段過ごしているキャンパスが違うことがそうだし、二人共が社会学の概論を受け持っているので、少なくとも大学生レベルの講義では、片方がいれば他方は必要ない、という事情もそうだった。
だからだろう。
俺は彼を見ると、いつも、異様に感じる。
良くないモノを感じる。
『悪』を、連想してしまうのである。
人を見かけで判断してはいけないと、そう心に決めているはずなのに、だ。
年は、俺と同じくらいだっただろうか。しかし、どういうわけか、その髪は真っ白く染まっている。ひょろりと長い背に、端正な顔立ち。白いシャツに白衣姿。如何にも大学教授然とした出で立ちなのに、まるで大学教授と思えない。
纏う雰囲気が、異常だった。
極端な例になるが、仮に彼から「椥辻准教授、あなただけに教えるが、実のところ、私はぬらりひょんなんだ」と言われたら、なるほど、そうだったのか、と膝を打つだろう。それくらいに、人間に見えない。同じ人間だと、全く思えないのだ。
……そも、同じ人間など一人もいないし、こんな考え、鳥辺野准教授からすれば謂れなき誹謗中傷でしかないのだが、感じる心は、止めようがない。
俺は多分、鳥辺野弦一郎のことが、苦手なのだと思う。
「くくく。椥辻准教授」
とりあえず挨拶という最低限の礼儀は果たしたし、さっさと食べ終わって退散することにしよう、と考えていたところ、豈図らんや、彼から声を掛けられた。
俺は箸を止め、「なんでしょう」と応じる。
彼は言った。
「先日の社会論集、読みましたよ。興味深い内容でした」
「……ありがとうございます」
何を寄稿したのだったか。全く思い出せない。
この人、世間話とかするのか、と思うばかりである。
口の中がやけに乾いて、俺は残っていた麦茶を一気に飲み干した。
「椥辻准教授は、やはり、人の悪性を、社会的なものだと考えるのですね」
「……悪性、と言いますと、仏教的な善悪のことでしょうか?」
「くく。いえ、失礼。『悪』と呼称される概念一般についてです」
「なるほど……。少しばかり、難しいですね」
おかしなことであるのだが、俺は彼のことが苦手だというのに、恐らく、その苦手意識を誤魔化す為に「異常な雰囲気」だとか「『悪』を感じる」だとか、無意識的に認識を歪曲させているのに、彼と話す行為自体には楽しさを感じるのである。
鳥辺野弦一郎は聡明な男であり、それ故に、話す内容は興味深い男だった。
「椥辻准教授は『普遍的な悪』はないと考えていらっしゃる」
「そうですね。全ての価値が相対的なものである以上、全ての悪は相対的なものであり、『普遍的な悪』は存在し得ない」
「全ては、『エルサレムのアイヒマン』……。悪は常に陳腐である、と」
「エルサレムの……? 少しお待ちください。……ああ、思い出しました。アイヒマン裁判の。仰る通りです。論文そのものを諸手を挙げて賛成するわけではありませんが、悪とは往々にして、陳腐なもの、凡庸な人間が為す、即ち、僕達と変わらない人間が為すものだと思います」
絶対悪はない、と彼は問う。
絶対悪はありませんね、あるのは『純粋悪の神話』です、と俺は返す。
「椥辻准教授は、『創世記』の原罪について、どう考えられます?」
原罪、か……。
普遍的な罪。罪業。即ちは、『悪』のこと。
キリスト教において、まず連想される悪とは、『原罪』のことだろう。
遥か昔、アダムとイヴは楽園に暮らしていた。アダムとイヴは、神より、「この地のあらゆる果実を食べても良い」と伝えられたが、同時に「知恵の実だけは食してはならない」と命じられた。しかし、蛇に唆されたアダムとイヴは、その実を食べてしまい……。というのが、『創世記』で語られる原罪、『失楽園』である。
社会学においては、というよりも、俺の研究分野においては、原罪のような概念は扱わない。無論、「原罪の思想が人にどう影響するか」は、興味深くはあるが。
「……門外漢の戯れ言になりますが……。楽園の蛇を、悪魔だと捉える考え方はありますが、僕としては、むしろ、その後が重要だと感じますね」
「その後……ですか」
頷き、続ける。
「正確な文言は記憶していませんが、確か、蛇は知恵の実を食べるように唆したんでしょう? だとすれば、罪が、即ち悪が、何処に大きなウエイトがあるかと言えば、人間の側じゃないですかね?」
唆すこと。誘うこと。誑かすこと。
それは命令とも、強制とも違う。
殺人教唆は罪であるが。
殺人そのものは、当然、それよりも重い罪だ。
「結局は、人は弱い、ってことだと思いますよ。弱いから、抗えなかった。人は弱さ故に、悪に走るのかもしれませんね。……と、これは性弱説になってしまいますが」
「弱さ故に―――」
何を思ったのだろうか。
鳥辺野弦一郎は、くくく、とおかしそうに声を漏らした。
思わぬ長話になったが、昼食は食べ終わった。そろそろお暇することにしよう。
「それでは、鳥辺野准教授、僕はこの辺りで失礼します」
「ああ。椥辻准教授、また機会があれば」
この日の会話は、それで終わりだった。
あるいは、決定的な部分が、終わりを迎えたのかもしれなかった。
そんな気がして、ならなかった。
了
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