Before you know it
名暮ゆう
本文
最寄り駅の改札口を後にして右手に進むと、たいそう立派なイチョウが僕を出迎えてくれる。近隣の市町村の中では特に整備されたこの街並みが、僕の十六年間を見守ってきた故郷の姿である。ピーク時は人間の出入りが絶えない殺風景な場所だが、平日の午前中ともなると、高齢者夫婦や動物の散歩がてら訪れた人々が行き交う穏やかな様子をベンチに腰かけながら眺めることができる。
高校生が平日の真っ昼間から学校にも行かず出歩いているなんて、非行少年と勘違いされてしまいそうだが、今日は期末試験の最終日で、思いのほか早く帰宅できたのだ。数日前に発売された新刊を駅前の書店で購入し、テスト明けを満喫してやろう――そんな思案を巡らせながら、まさに物語の世界に飛び込もうとしていた。
すると、見覚えのない制服が視界に入ってくる。
「久しぶり、だね」
……驚きのあまり目を見開く状況とは今のようなことを言うのだろう。何事かと思ってすぐさま顔を上げると、小中時代の友人が俯き気味で立っているではないか。肩ほどまでに伸びた艶のある黒髪と着古したセーラー服が印象的だった。
「お、
「よかったぁ、覚えててくれた……。
乙葉は、右手を鎖骨のあたりにあてながら、安堵を思わせる溜め息を吐いてみせた。
「ビックリしたよ……ていうか、平日の真っ昼間から駅前にいるなんて問題児だね」
「それはこっちのセリフだよ。うちの学校、今日まで期末試験だったから、下校が早いんだっ」
「まじか。うちの学校も今日まで期末試験だったよ」
「そうだったの? すっごい偶然!」
……久しい仲でも言葉は弾むもので、普段なら噛み噛みで相手に何を言っているか訊き返されるところだが、今日はそんなこともなかった。
頭上の木から銀杏の葉が落ちてきたのだろう、頭に何か乗ったような感覚を覚え、左手を回す。
「……すっかり秋になったわね」
「うん。数日前まで夏だったのに」
「本当にそう。高校受験なんて一か月くらい前の話だと思ってたけど、冬を超えたらまた受験期よ?」
心底嫌そうな表情を浮かべながら、乙葉は空を仰いだ。僕もそれにつられて、清廉を思わせる青空をのぞむ。似た眺望をこの目に焼きつけた記憶があるが、いつだったか。
……ああ、時間の経過が恨めしい。乙葉と出会ったのはつい最近のような気がするのに、その実六年もの月日が経過しているのだから。
「それにしても、寒いね……」
すっかり秋に色づいた銀杏の木を背景に、乙葉は縮こまるような素振りを見せる。確かに、寒い。学ランの上に厚手のコートを羽織っている僕ですらそう感じるのだから、素足で上着もない彼女が身震いしないはずがなかった。
風邪を引かせるわけにはいかない。避難できる場所はないだろうか。周囲に目を向けると、駅前の喫茶店チェーンに惹かれる。
「この後って時間ある?」
「……まあ、一時間くらいなら」
なら話は早い。久々の再会でつもる話もあるだろうし。
「じゃあ、あそこでお茶しようよ」
「いいねっ。ちょうど温かいものが飲みたかったの!」
彼女の同意を得て、僕らは移動する。
看板メニューの抹茶ラテは疲労回復とともにリラックス効果があると言われている。特段疲れた日はここへ寄り、抹茶ラテで疲れを癒すのが僕の些細な楽しみでもある。味も確かで、抹茶の苦味とミルクの甘味が程よく混ざり合っていて美味しいのだ。彼女は僕に注文を合わせるとのことで、例に倣ってそれを注文した。
「注文、手慣れてたね。よく来るの?」
「うん。美味しいでしょ、その抹茶ラテ」
彼女は僕の言葉に対して首を縦に振り、肯定の意思を示してくれる。寒いからだろうが、彼女はカップを大事そうに両手で握りながら口へと運ぶ。観葉植物と絵画を背景に心を落ち着かせる彼女は一枚絵のようで、愛おしい。かつて自覚した彼女に対する恋心が脈を打つような気がして可笑しかった。
「……どうしたの? 急に笑い出して」
「いや。昔のことを思い出してね」
「ふぅん?」
……思えば、彼女と本格的に言葉を交わすようになったのも、今日のような秋頃だった。
幼いながらも人間には同世代でも上下関係があることを悟った僕は、できるだけ周囲に合わせようと小学生には身に余るくらいの努力をした。休み時間はさほど興味のないサッカーや野球に参加して、放課後は最寄りの公園で鬼ごっこやかくれんぼにも精を出して、周囲と友情を育んだ。時には愛想笑いも駆使した。集団の中でどうにかしてアイデンティティを確立しようと必死だった。
ただ、僕が悟っていたように、周囲も僕の大げさな行動にやんわりと違和感を覚えていたらしい。ある日突然、面と向かってこんなことを言われた。
「キョ―タローってさ、なんかいつも楽しくなさそう」
なんか、といういかにも感情的な言葉。それも、同じグループに属しながらも他人事であるかのような物言い。核心を突くような一言に、僕は確信した。
――ここは、僕の居場所じゃないんだ。
楽しくなかったと言えば、嘘になる。確かに、遊んでいる時は楽しかったと感じることができた。しかし、それは心の底からやりたいことではなかったのだ。育んできたはずの友情も、結局は育んできたつもりに過ぎず、周囲との距離を詰めるどころか、反対方向に全力疾走していたらしかった。
グループに属することを諦めた僕は休み時間をもっぱら図書館で過ごすようになる。そう、その理由こそが――。
……回顧の途中、ふと彼女に目を向ける。彼女もこちらの視線に気づいたのか、顔を向けて首を傾げた。
「どうしたの?」
「いいや。そういえば、僕らが言葉を交わすようになったのも、今日のような秋口だったかなって」
「……あー、言われてみれば同じくらい寒かったかも。五年生の時だっけ?」
そう、小学校五年生の時。教室に残っていると担任に外で遊べと詰められ、かと言って校庭に出ても寒いだけで、それなら図書室にでも行ってみるか――その程度の心持ちで図書室を何となく歩き回っていると、カウンター席から声を掛けられたのだ。
……口振りから察するに、乙葉もあの日のことを覚えているようで、拳を軽く握って口元に持っていくと、笑みとともに口を開いた。
「図書室になんの用ですか、ってぶっきらぼうに言っちゃってさ、感じ悪かったよね、私」
「……ははは」
笑顔を取り繕うが、当事者でもこれはダメだと感じるくらいには乾いた笑いだった。
さて、当時の僕はヒビの入った硝子の心をどうにかして維持するのに必死で、彼女の言葉ほど純粋に突き刺さったものはなかった。その一方で、あの時彼女が僕に話しかけてくれなければ、心の底からやりたいことは今も見つからないままだったかもしれない。その意味では、気まぐれが運命的な出会いを呼んだと言っても過言ではないだろう。
「……乙葉には感謝してるよ。乙葉のおかげで、僕は読書という心の底からやりたいことに出会えたんだから」
「……そっか」
彼女はギリギリ聞こえる程度の声量で相槌を打つと、カップを口元にあてながら窓の外に視線を逸らした。君のそれを――喜びと悲しみを折半したような面持ちを複雑と表現するなら、あの時、本の感想を交わす時によく見せてくれた微笑みは、喜々に満ちて単純だったのだと思う。
……小学校五年生の時点で本を読む習慣はなかったが、彼女の提案を無下にするのも悪いと思って、オススメの本を一冊借りることにした。タイトルは忘れてしまったが、夏休みに虫取りへ出かけた少年少女が偶然森の中に開けた場所を見つけ、そこに秘密基地を作ることになり、意見の対立で喧嘩になりながらもひと夏の思い出を作っていくという内容の物語だった記憶がある。翌年、今まで億劫で夏休みの最終日までやり残していた読書感想文が真っ先に終わったくらいには読書が好きになった。
読書は今まで知らなかった人間の生き方や考え方を教えてくれた。そして、登場人物には数多くの試練が降りかかり、それを乗り越えるまでの過程が面白かった。結末が絶望と幸福のどちらに傾くか、将又明確な答えが描かれていない時もあって、そのような作品に出会った日は、興奮でなかなか眠りにつけないことが多かった。
「はい、これ。貸したげる」
「……恋愛もの?」
「違う。青春もの!」
「僕、登場人物が冒険に出る物語の方が読みたいよ」
「いいから、読んでみて! 面白さは私が保障するから!」
乙葉はこと読書については強引な部分があり、いかなるジャンルよりも中高生をメインに描く現実準拠の物語を優先してきた。本当は異世界を舞台にした物語を読みたかったが、図書館に通う理由が彼女と本の感想を交わすために変化していた僕は、本心から目を逸らして読書に勤しむようになった。
六年生になると、自ら図書委員へと立候補するくらいには、読書の虜となっていた。……いいや、彼女の虜になっていたのかもしれない。
彼女と過ごす時間は、以前よりも長くなった。それは、以前までは気に留めなかった彼女の人間性を知る機会になった。
「自分が任された仕事は自分でやるべきだと思わない?」
「そうだね。でも、引き受けちゃうんでしょ?」
「それは……そうだけどぉ!」
彼女は根本的にかつての僕と同じだった。集団の中でアイデンティティを確立することに努め、そのためなら無理なお願いでも引き受けてしまうような、まさに周囲にとって都合のいい存在だった。図書委員を選んだのも、枠潰しで喧嘩が起こるならと思って立候補したからで、本当は体育委員会をやってみたかったらしい。
……体育か。できれば思い出したくないことだが、彼女との日々を回顧する以上、避けては通れない思い出だ。
「ねえ、乙葉」
「ん? どうしたの?」
「春本先輩とは上手くやってるの?」
僕の口から、しかもこの場で尋ねられるとは思っていなかったのか、両目を見開く反応が返ってくるも、瞬時に驚きを掻き消して、ぎこちない微笑みを浮かべながら答えてくれる。
「……うん。最近はほとんど会えてないけどね」
「そっか。先輩、受験期だもんね」
「…………実はこの後、久々に会う予定なの」
「あー、なるほど。だから、一時間くらい空いてるって話だったのか」
「……うん」
彼女の口から交際に関する情報を告げられても、何も思わなくなっていた。嫉妬は消え失せ、優先順位が比べものにならないくらい下がっているのが確認できた。
彼女は僕にとって間違いなく思い出の原石だが、それに縋る必要があるほど僕の心は荒んでいなかった。きっとそれは、僕がめげずに続けてきた読書人生が補完してくれているのだと思う。
とは言え、記憶というものは、そう簡単には美化されないようで、僕らの関係性が大きく変化した中学生活には、未だに陰鬱さと後ろめたさが漂っている。
……僕らは読書仲間という関係を維持したまま地元の中学校に進学した。それまで似た者同士として戦線を張っていた僕らだが、実は決定的な違いが一つあった。それは、部活動に所属したか否かである。中学校の部活動は任意参加だったので、僕はどの部活動にも所属しなかった。一方で、彼女は陸上部に所属した。運動好きの一面があった彼女にとっては、最適解だったと言える。
「種目はどうするの? やっぱり短距離?」
「うん。……恭太朗も、入ればよかったのに」
「僕は乙葉ほど速く走れる自信がないから。それに、僕はこうして図書室で本を読んでいる方が似合ってると思わない?」
「……ふふっ、確かに」
図書室は一階にあったので、放課後は部活動に努める生徒の姿が自然と目に留まった。額の汗をタオルで拭い、潤いを求めて水筒を傾ける乙葉も例外ではなかった。
部活動に打ち込む彼女は誰よりも輝いていた。図書室の隅で本に耽る彼女とのギャップが心臓の鼓動をおかしくした。それは、彼女の両面を知る僕だけしか知らない彼女の魅力であり、優越感があった。やがて、教室や廊下で誰かが彼女の話をするようになると、それはいっそう強まっていった。
「霜月先輩、春本先輩とデキてるらしいよ」
「えっ、それマジ?!」
……それは、中学二年に上がった頃の噂だったと思う。乙葉と陸上部の部長が付き合ったという話が学校中に広まったのだ。
「私、今までスタードダッシュが苦手だったんだけど、春本先輩のおかげで速く走れるようになったの」
「……ふぅん」
それまで、口を開けば読書の話題ばかりだった彼女から、陸上の近況ばかり飛び出すようになった。しかも、彼女の口から語られる内容のほとんどが陸上部部長の春本という人物に関することなのだ。興味のない話であれば、作業曲感覚で本を読み進めればいいだろう、しかし、何故か一言一句聞き逃すことができなかった。そして、毎度心臓に負荷がかかるのだ。
やがて、それが嫉妬であると知った。では、何故陸上部の部長なんぞに嫉妬しなければならないのか。
……そうだ、僕は乙葉に恋心を抱いていたからだ。
しかし、それに気づいた時点で僕は負けていた。噂は事実で、夏までには二人の交際が明るみとなり、運動部を代表するカップルとして話題になった。以降、僕は図書室を卒業し、露骨に彼女から避け続けた。
雲一つない青空に手を伸ばしても、届きやしなかった。掴めたとしても、それは秋風に吹かれて飛んできた落ち葉くらいで、欲しいものが手に入るわけではない。
僕は今まで彼女のことを対等な人間だと思って接してきた。しかし、どうだろう。彼女は周囲から注目を浴びるほどの特技を秘めていて、遂にはそれを発揮してどこか遠くへと行ってしまった。
……いいや、最初から遠くの存在だったのだ。似た者同士であるという考え自体が間違いで、僕らは最初から決定的に異なっていたのだ。あれだけ僕を虜にした青春ものにありがちな本音と建前のすれ違いは、現実世界じゃ起こり得ない――そう思い知らされた初恋は、落葉とともに終焉を迎えた。
「……もうそろそろ、行こうかな」
追憶に浸っていたところ、彼女がそれまで閉ざしていた口を開いた。時計を見ると、正午を過ぎていた。頃合いだろう。
「そっか。気をつけてね」
「うん。…………ねえ、恭太朗」
「……うん?」
「…………また、どこかで」
「うん。じゃあね」
乙葉は腹の内を探るような微笑みを浮かべながら右手を左右に軽く振ってみせる。周囲に迷惑が掛からないよう、僕も控えめに挨拶を返して彼女の退店を見守った。
「……はあ」
彼女が去ってからしばらくして、全身にどっと疲れがやってくる。両腕を天井に向けて伸ばし、姿勢を楽にする。
……彼女に教わった青春ものを未だに読み耽っているのは、僕が人生にハッピーエンドを求めているからかもしれない。同時に、それは永遠に訪れないということを、心のどこかで理解している。
僕と彼女の物語は雌雄を決した。思惑はどうあれ、僕らは自ら決断して今日まで生きてきた。そして、そこにお互いを必要としてこなかったのだ。
……それにしても、彼女は変わってしまった。別れ際、彼女の表情にかつての微笑みはなく、愛想を取り繕うように口角を上げていた。それは、僕が周囲との関わりを改める際に決別したものと同じだった。
対する僕は、何も変わっていない。周囲との関わりを避け、現実から目を逸らすように彼女から教わった読書を嗜み、相も変わらず孤独という言葉がもっともらしい日々を送っている。
「……まっ、いっか」
そう吐き捨てて、鞄から本を取り出した。
どのような結論が導かれたとしても、それと直面するのは今日の僕でなくてもいい。彼女がどんな思いで今を生きていようと、親身になって言葉を交わす必要だってない。
退屈な日々だと罵られたっていい。
……目を逸らしていると理解していても。
僕は、今日も自分は幸せだと、信じているのだから。
〈了〉
Before you know it 名暮ゆう @Yu_Nagure
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