難波駅前

@kalinkakalinka

第1話

 いつも自分を繕っているから、自分で何を欲しているのかもうわからなくなった。自分に素直になるということがとてもハードルの高いことであった。もう干からびていたのだが、それでも何か大きなものに触れたいという、小物にふさわしくない高望みを持っていた。どれだけ失敗しても、どれだけ冷たい視線を浴びて嘲笑されても、何か諦めきれないものを自分の中に感じた。いつも同じであった。もう自分のプライドなど粉々に砕かれたのだから、何も恐れることはないと思っていながら、実はまだ人生において自分は何も知っていないことを思い知らされる。そうしてまた無残に砕かれる。飽きるほどこれをくり返してきた。同じところを徘徊しているうちに、すでに人生は折り返しを過ぎていた。いや、もしかすると終点はすぐそこなのかもしれない。いっそのこと自分で終わらせるか。


 青年の自殺と中年の自殺は趣が異なるものである。後者は前者のように生のエネルギーが暴発したものとはまた違うものだ。栄養の行き届いた緑に溢れた葉を無理に引きちぎるのと、紅が混じって皺が目立ち始めた葉をそっともみつぶすのでは、何か質的に異なるのだ。青年の自殺は極めて人間的で、情念にあふれており、自然の摂理から逸脱したものを感じさせるが、中年のそれは大いなる循環にどこか組み込まれたような、自然さが備わってしまう。よくわからないことを書いてしまったな。結局お前はなんだかんだ言って死にたくないだけだろう。


 そうだ。まだ今生に未練がある。自殺する勇気もないし、餓死をするほどの怠惰さも持ち合わせていない。この飽食の環境で豊かさを浪費する、家畜にすぎない。それはわかる。寂しい。この世界は寂しい。都会はどこへ行っても人だかり。人の群れの中に自己を溶かして、自己を消し去ることにしかもう救いはない気がする。


 すっかり中年にさしかかって何事に対しても能動的になれないTにとっては、山上に籠って俗世間を眺めるような生き方をすることにも抵抗があった。なんらかの境地に達したいのなら、人ごみの中でもがいて空虚さを噛みしめる方がまだ近道である気がしていた。知らない間にTは電車に乗って、繁華街を歩いていた。今日も大勢の人で賑わっている。難波の高島屋の正門を出たあたりは、子供の頃に比べてオシャレになっていた。どこも表面上はきれいな作りになっていく現象が、この二、三十年継続しているようだ。広場には所々に机と椅子が置いてあり、誰でも座ってよさそうであったが、そうは言ってもTのような風貌の冴えない人間が座ってはいけないという暗黙の掟については、心得ているつもりであった。


 Tは自分の孤独を慰めてくれるところは、街並みの人だかりであることを知っていた。特に用もないのに休日は街に出向いてしまうのは若干哀れであったが、別にそれほど自分を惨めと感じることも最近はなくなってきた。この年になると感受性が鈍ってくるので、あまり何事に対しても心を動かされなくなる。人だかりの中にいれば、とにかく自己と向き合うことを避けられる。青年期を通じて身も心も削がれてきたので、今ではもう何も大したものは残っていないと何か少し悟ったような気になることもあったが、実際のところ常人よりも臆病なだけというのが実態なのだ。確かに感受性は鈍ったが、それは本質的な事柄に関する感受性であり、幾分芸術的な分野と言ってもいいのかもしれない。そういう自身の存在を危うくするようなことに関しては、この年になって囚われるのは危ういという直観が働く。その一方で些末な事柄に関しては、年々敏感になり、卑小で卑怯な自己が強固に完成されていくような気もする。誰からも疎んじられる中年にこうして近づいてきていると感じながらも、もう特に自分を変えるほどのエネルギーをTは持ちあわせていない。


 気づけば商店街を歩いて戎橋あたりまで来ていた。道頓堀を眺めると、外国人を乗せた船が運航していた。なかば嘲るような気持ちでTは眺めていた。グリコの看板の前で写真を撮る人たちがちらほらいた。いつもの光景であった。皆と同じことをしたがる大衆を侮蔑するような気分になったが、俺もあんなことをしてみたいと羨む気持ちもあるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

難波駅前 @kalinkakalinka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る