第9話 ふたつの声が聞こえます

「――!」

「……かし、そうは……!」


 床に散乱した書類を前に落ち込んでいたフェリシアだったが、その耳に人の話し声が聞こえてきて三角耳をピンと立てた。


 その声はどんどんと大きくなり、こちらに向かってくる。


 殿下が部屋に戻ったのかもしれない。フェリシアは急いで椅子の上に乗り、こっそり様子を窺うことにした。


「……だからその話は、もう議題にはならないと言っただろう。少なくとも、廊下でする話ではないよ」


 扉が開くと共に、苛立ったようなアーサーの声がした。足音は複数。誰か別の人物もこの部屋に入ってきたようだ。



「しかし……! ノヴォグ国と縁を結ぶことは我が国にとっても必要なことと言えます」


 アーサーに食い下がるのは、年嵩の男の声だ。その声にフェリシアも聞き覚えがある。


 首を伸ばしてちらりとそちらを見れば、白髪混じりの茶髪を後ろになでつけた貴族の男がそこに立っていた。


(やっぱり……バリアーニ侯爵でしたか)


 バリアーニ侯爵は、フェリシアのレアード侯爵家と並ぶ三大侯爵家のひとつだ。


 だが、昔からレアード侯爵家を目の敵にしているらしく、普段は温厚な父からもこの家門に対してはいい話を聞かない。


「せっかく、あちらにも年頃の王女がいらっしゃるのですから! 私がお渡しした釣り書は見ていただけたでしょう?」


 どうやら、先程の釣り書を用意したのはこの人だったようだ。対峙するアーサーは苛立ちを隠しもせず、大きなため息をつく。


「バリアーニ卿。確かに諸国と国交を結ぶことは大切だ。しかし、フェリシアとの婚約は昔から定められたものだ。それを覆してまで繋ぐ縁なのか?」


「それは……! しかし、フェリシア嬢は表情に乏しく、王とともに外交を行う王妃としての資質を疑問視する声が上がっているのもまた事実かと。それに確かに姿かたちは美しいですが、彼女の有する魔力は正直王家に嫁ぐには足りない――」



 バリアーニ卿がそこまで話したところで、部屋の温度がぐっと下がった気がした。


 息が詰まるような圧迫感まである。


(どうしたのかしら――急に部屋が冷たくなって)


 猫の姿のフェリシアも、思わずふるりと震えてしまう。



「言いたいことは、それだけか?」


 地を這うような声だ。普段の優しいアーサーのそれとは全く違う。ビリビリとした緊張が部屋を満たし、ますます凍えるほどの寒さになる。



「バリアーニ卿に、いかにフェリシアが素晴らしいかを説いてあげたいが……それも勿体ないな。彼女の素晴らしさが分からないものに、王妃の資質を問う資格はないだろう」

「ひっ……」


 バリアーニ卿の、酷く怯えた声がする。


 アーサーの背中しか見えないフェリシアは、彼がどんな表情をしているのか窺い知ることができない。


「し、しかし殿下、先日の夜会では他の令嬢を連れていたではありませんか」


、ね……。それで卿が慌てて隣国の間者と連絡を取ったことはすでに調べがついている。その娘について嗅ぎ回って、刺客を差し向けようとしていたことも。何も見つからなかっただろう?」


 バリアーニはひゅっと喉を鳴らす。

 アーサーという人物は、いつも朗らかな優男だと思っていた。それでいつか、出し抜けると。


「な、なんのことだか分かりませんね。しかし殿下が見知らぬ女性を連れていれば、老婆心ながらに調べてしまうのが家臣というもので」


「ふむ……ではこれまで、フェリシアの悪評を流し続けていたのも家臣だから仕方ないと? お茶会などで、しきりに周囲に噂話を吹き込んでいた娘は、バリアーニ卿の依頼だと認めましたよ」


 アーサーがそう言うと、部屋はますます寒くなる。

 空気が重くまとわりつくようで、フェリシアはまた身震いをする。


(わたくしの悪評をバリアーニ侯爵が……?)


 知らないことだらけだ。

 お茶会にそのような令嬢がいたことも気付いていなかった。


 そして、例の金髪の令嬢についてのアーサーの言葉も引っかかる。「見つからない令嬢」とはどういうことなのか。


 フェリシアの頭の中は疑問がいっぱいだ。


「見知らぬ令嬢と夜会で数分親しげに話しただけで、随分と尾ヒレや背びれを付けてくれたものだ。エスコートやダンスをした覚えはないのだが」


「殿下がレアード侯爵令嬢以外と親しげにしているのが珍しかったのでしょう。人の噂とはそういうものでしょうからな、はは……」


 焦りながら頭を搔くバリアーニ卿に、アーサーはにっこりとした笑顔を向けている。ようやく見えたアーサーの表情は、笑顔なのに冷たい。


「今更シラを切っても同じだよ。次の議会で、バリアーニ卿と某国の癒着についての話をしようと思っているから。心しておくことだ」


「なっ、そ、それはどういうことで」


「この話はおしまいだ。私の可愛い子猫が風邪を引いてしまうからね。――去りなさい」

「――! ――!」


 そこから、バリアーニ卿の声は声にならないようだった。喉元を抑えたまま不自然に回れ右をし、弾かれるように部屋の外へと飛ばされる。


 一体何が起きているのだろう。まるで分からないフェリシアだったが、寒さに耐えかねて「くちゅん」と小さなクシャミをしてしまった。


 途端に、部屋が一気にあたたかくなった。ギュッとしていた圧迫感もなくなる。


(なんだったのかしら……?)


 フェリシアが戸惑っていると、アーサーが慌てて駆け寄ってきた。


「ああすまない、可愛い子猫ちゃん。寒かっただろう。ああして愚かにも私に進言に来るなんて……ああ、その書類で遊んでしまったのかい? かわいいね」

 《書類に埋もれてどこに行ったか分からなくなっていたが、そこにあったのか。用件も済んだしフェリシアが見てしまう前に早急に処分しなければ》


 アーサーに抱き上げられると、またふたつの声がした。どちらもアーサーだが、前者は優しく甘やかで後者は凍えるほどに冷徹だ。


 先程、声が二重に聞こえていたのは聞き間違いではなかった。それにしても一体これはなんなのだろう。


「はあ……癒されるな……」

 《これは浮気には入らないよな? フェリシア一筋ではあるが、ネコチャンは抗いがたい魅力がある》


 首元に顔を埋められ、すぅと吸われる。アーサーは猫吸いを堪能しているようだが、そうされているのはフェリシアだ。耐え難い羞恥に息も絶え絶えになる。



 そうしていると、また扉がノックされた。


「俺だけど」


 その声はルーカスだ。フェリシアを迎えに来てくれたのだろう。

 この潜入により、アーサーが隣国の王女との縁談を勧められていることは分かった。そして、それをきっぱりと断っていることも。


(そんなことより、恥ずかしくて耐えられません……っ!)


 今はもう、金髪令嬢のことを追及するより、大好きな婚約者に吸われてしまっている現状から逃れたいフェリシアである。


 だが、ルーカスが部屋に入ってきても、アーサーは猫のフェリシアをきつく抱きしめたままだ。



「いやあの、アーサー。その猫……そろそろ返してくれない?」

「……いやだ」


 ルーカスの言葉に、アーサーは駄々っ子のように答えると、ますますフェリシアをぎゅうと腕の中に閉じ込める。


 フェリシアが縋るような瞳でルーカスを見たが、彼は首を振っていた。お手上げだと瞳が訴えている。


 先程、あの貴族と対峙した時に感じた重たく仄暗い冷たい力は、アーサーの魔力だったのだと今初めて気が付いた。

 フェリシアと一緒の時にはまるで感じたことが無い。


 ちっぽけな力しかないフェリシアでも分かる。アーサーのあの力は、かなり強大だと。



「えーと、でもほら、その猫ちゃんの飼い主が見つかったっぽいからさ」


「交渉して、譲ってもらう」


「おいおい、一国の王太子がそんな私利私欲に塗れたこと言っていいの?」


「だって、フェリシアと同じ匂いがする」


「ええ~……」


 ルーカスの説得にも応じないアーサーは、まるで幼子のようだった。そして、『フェリシアと同じ匂い』とは何事だ。


 そしてアーサーがそう言ったとき、もうひとつのアーサーの声は《この匂い、最高……》とうっとりしていた。


 思いもよらない展開すぎて、フェリシアは混乱してしまう。この猫が実はフェリシアだったと分かった時にはとんでもない事になるのではないだろうか。


 膠着状態の部屋にまた来訪者があった。


 ノックと同時に勢いよく扉が開けられる。思わずびくりと背筋が伸びたが、アーサーにしっかりと抱きしめられているから大丈夫だった。



「アーサー、やっほ~。どう、治った?」


 ケラケラと笑っているのは、真っ黒なローブを身に纏う赤髪の令嬢――ルーカスの双子の姉であるアリスだった。彼女もルーカスと並び、いやそれ以上に力のある国家魔術師だ。


 そのまま彼女がスタスタとアーサーに近づき、彼に触れる。


「残念ながら、まだだ」

《……チッ》

 

 舌打ちがどこかから聞こえた。そしてそれはアリスにも伝わったようで、「わあ……」と呆れた顔をしていた。


「じゃあまだ、フェリシアに会えないんだ?」


「そうだ」


「ひえ、悲惨……」


「それを君が言うのか」


「本当に悪かったとは思ってるよ! まさか魔法事故であんな事が起きるなんて。だから今必死に解呪の方法を探してるから」


 アリスとアーサーは訳知り顔で会話をしている。その最中にも、もうひとつの声は《フェリシアに会いたい》《あの子のどこが無表情だと言うんだ。あの狸親父め、思い出したらまた腹が立ってきた》と騒がしくしている。


 アーサーとアリスとルーカスとアーサーのもうひとつの声と……フェリシアは正直いっぱいいっぱいだ。何が起きているのだかまるで見当もつかない。


「殿下ってば、逆にもう禁断症状みたいになっちゃってんじゃん。そんなフェリシア色の猫なんて抱いちゃってさ。……って、あれ?」


 アリスの翠の目がフェリシアの顔を覗き込む。深く吸い込まれるようなそれに、フェリシアは目が離せなくなった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る