大好きな婚約者に「距離を置こう」と言われました
ミズメ
第1話 距離を置こう
とある王国の王城。
煌びやかな装飾が施された室内、焼き菓子と紅茶の香りに包まれたとある一室でのことだ。
「すまないが、しばらく君と距離を置かせてもらってもいいだろうか」
この国の王太子であるアーサーが、離れたところから唐突にそう言い放った。
濡れ羽色の黒髪に、神秘的な紫の瞳。
鍛えられた体躯と洗練された気品を持ち合わせた見目麗しい王太子のアーサーは、侯爵令嬢であるフェリシアの婚約者だ。
その彼が、苦悶に満ちた表情でそう言ったのは、お茶会が始まってすぐのことだった。
フェリシアはいつものように先に部屋に通され、彼の到着を待っていた。
いつもより少しだけ待たされて不思議に思っていたところにアーサーが到着し、それに喜んで席を立とうとした瞬間のことだった。
(距離を、置くって……?)
扉の前から動こうとしないアーサーとテーブルのそばで固まってしまったフェリシアとの間には、三メートル以上の間隔が空いている。
突然のことに、フェリシアは思考が全く追いつかない。
「え、あの、殿下……?」
一体、どうして。そんな思いが去来する。
氷鉄令嬢と呼ばれているフェリシアの顔は、一層こわばって無表情になっているに違いない。
見目麗しく優しいアーサーの婚約者に選ばれたことを、フェリシアはとても嬉しく思っていた。幼い頃からの初恋の人でもあるのだ。
七歳の時に出会ってから今日で十年、フェリシアは十七歳になった。
努力を積んで、彼の隣に相応しい女性になれるべく努力をしてきたつもりだ。厳しい妃教育に向き合って真摯に取り組んできたし、見目にも気を使ってきた。
腰まで流れる銀髪は絹糸のように美しく、肌は絹のように滑らかであるように。青い瞳は少々意志が強そうな猫目ではあるが、それを縁取るまつ毛は華やかに。
――ただ一点、ものすごく無表情であることを除けば、フェリシアは完璧な令嬢だった。
どれだけ努力しても、どうにも表情筋が仕事をしない。
にっこりと微笑んだつもりでも相手を怯えさせてしまうし、会話をしているつもりでも相手が萎縮してそそくさと去っていってしまう。
そんな事が重なり、フェリシアは陰で『氷鉄令嬢』『鉄仮面』などと揶揄されている。
もちろんそのことはフェリシアの耳にも入り、なんとかしようとマッサージなども励んだけれど、結果的にはうる艶なお肌が完成した。
(それでも、殿下は笑ってくださっていたはず。そのままでかまわないと)
皆に怯えられるフェリシアにも、アーサーは昔と変わらず優しく接してくれた。
正式な婚約式は先月済ませたばかり。
国をあげての結婚式は一年後に執り行われる予定となっている。
国の伝統に則りそうした手順を踏むはずで、今日は細かい打ち合わせという名目で大好きな殿下とつかの間のおしゃべりを楽しむはずだった。
婚約式の前後から今日まで忙しく過ごしていたため、フェリシアにとって今日はとても待ち遠しい日だったのだ。
「アーサー殿下。どういうことでしょうか」
震える足を叱咤しながら、フェリシアは大好きな婚約者の名を呼んだ。
悲しいかな、こんなに驚いているというのに、顔色ひとつ変わらない。
(わっ、わたくしに何か落ち度があったのでしょうか……っ。いえもちろん、落ち度ばかりとは分かっていますけれど……!)
フェリシアの心の中は大変に荒れ狂っているというのに、感情を外に出すことはできない。
常に凛とすべきとされている王妃教育の賜物で、自分の気持ちを言葉にすることもすっかり苦手になってしまった。
せめて理由だけでも、と思ったフェリシアが勇気を出して足を一歩前に踏み出すと、離れたところにいるアーサーが、同じように一歩後ろへと下がった。
フェリシアがもう一歩進めば、彼もまたもう一歩下がる。
「あの……?」
どういうことだろう。
一向に二人の距離が縮まらない。
むしろ彼のほうが足が長く大股である分、その差は開くばかりだ。
「っ、フェリシア。先ほど述べたとおりだ。すまないが、これからしばらく会うことはできない。打ち合わせについては後日に予定を延期させてくれ」
「殿下、どうしてですか? しばらくとはいつまででしょう?」
フェリシアが言い募ると、アーサーは困ったように眉尻を下げた。
「……それは、分からないんだ。問題がなくなれば、私の方から手紙で連絡する。ああそうだ。このせいで明後日の夜会は欠席することになるだろう。こちらの都合で申し訳ない。侯爵には今日中に私の方から話しておくから」
いつも楽しくおしゃべりをしていたはずなのに――向こうがどうだったのか、今となっては分からないけれど、少なくともフェリシアはとても楽しかった。
傍から見れば無表情だったから、つまらなく見えたかもしれないけれど、毎回ドキドキソワソワとしていたのだ。
だというのに、こうして物理的にもずっと距離を置かれたままなのは堪える。
「アーサー殿下。あの、どこか具合でも悪いのですか」
こんなに距離を置くということは、もしかしたら感染症の類を気にされているのでは。
そう思ったフェリシアはそう尋ねてみた。
見た目には顔色もいいけれど、いつもは冷静沈着で穏やかな殿下の顔色がどこか平常通りではない気がする。そう思って尋ねたけれど、彼は慌てて顔を背けてしまった。
「病気……ではないのだが……きっと時間が経てば解決するはずだ。本当にすまない。ではな、フェリシア。気をつけて帰ってくれ」
「殿下、あの……」
結局、ふたりの距離は縮まらないまま、アーサー殿下は「それでは」と焦ったように部屋を飛び出していった。
残されたのは、唖然としたまま立ちすくんでしまったフェリシアただひとりだ。
(本当に、一体何があったのでしょう……?)
よく分からず、フェリシアはすとんと椅子に腰を下ろす。放心したままぼんやりと虚空を見つめていると、扉をノックする音がした。
「フェリシア様っ! 先程王太子殿下が退出されておりましたが、もうお茶会は終わられたのでしょうか」
フェリシアの元に駆け寄って来たのは、侯爵家から連れて来ていた馴染みの侍女だった。
外に控えていた彼女は、束ねた茶色の髪を揺らしながら困惑した様子でフェリシアのそばにやって来る。
殿下と二人で会う時、最近は侍女や従者を下がらせることが多かったため、例に漏れず、彼女も部屋の外にいたのだった。
少し前に入室したと思った王太子が、数分もしない内に退出していったことが不思議でならないのだろう。
同感だ。意味がわからないのはフェリシアも同じなのだから。
胃のあたりにきゅうとした痛みを感じながら、フェリシアは笑顔を作る。もちろん、相手からは無表情に見えている。
「殿下は用事があるようなので、今日はもう帰ることになったわ」
「そうなのですね。確かにお忙しそうに見えました。小走りで駆けていかれしたし」
「あら、お見かけしたの?」
「はい、ちらりとですが。執務室の方へ急いでおりました」
そんなに急ぐような用事があるなんて話は事前に聞いてはいない。
もちろん婚約者だからといって、王太子である彼の全てをフェリシアが知っていなければならないなんてことはない。
急務が入ることだってもちろんある。
それでも、ああして少しの接近も許されなかったのは初めてだった。それに。
(……アーサー殿下、今日はわたくしを見ても何も言ってくださらなかった)
フェリシアはしょんぼりとした気持ちで、自らの装いに視線を落とした。
彼に会うために、朝から早起きをしてたくさん準備をしたのだ。頭のてっぺんから足の先まで完璧に磨きあげてきた。
ドレスも華美になり過ぎないように注意しながら、それでもアーサーの瞳の色である紫を基調としたものにした。
いつだってそうしている。
『今日も美しいね、フェリシア』
『私のためだけに空から舞い降りた女神のようだ』
いつもならば、殿下はフェリシアに溢れるばかりの賛辞をくれる。
優しい笑みをたたえながら手を取って、指先に唇を落として、それから髪を撫でて、またそこに唇を落として――
そんな淡い期待に胸をときめかせていただけに、ほんの一瞬で終わってしまった逢瀬はとてつもなく衝撃だった。
□
「距離を置く、とはどういうことなのかしら」
ほとんどとんぼ返りのような行程になってしまったことを皆に不思議がられながら、フェリシアはレアード侯爵家に戻り、自室のベッドに伏せながらそう溢した。
フェリシアが今日この日のために気合いを入れていたことは、家中の誰もが知っている。
あのドレスから部屋着へと着替える時も、呆然としたままのフェリシアに深く話を聞く事はせず、侍女たちは淡々と作業をし、部屋を去っていった。
フェリシアの表情筋が仕事をしないことも、幼い頃から一緒にいた使用人たちはよく知っている。
初めこそ、全く微笑まない侯爵令嬢にビクビクとしていたものだが、普段の発言や振る舞いから滲み出る優しさに『氷鉄』が外見の問題であることに気付いたのだ。
「しばらくお会いできないのよね……」
フェリシアが目を瞑ると、アーサー殿下の顔が浮かんでくる。
『フェリシア。今日も美しいね』
頭の中のアーサーは、とろけるような眼差しをフェリシア向けてくれて、ぴたりと寄り添って歓談をしている。
(……アーサー殿下。どうしてなのですか?)
朝早くから入念な手入れをしていたフェリシアは、とっても寝不足だ。
目をつぶって考え事をしていると、フェリシアは知らず知らずのうちにそのまま眠りについてしまったのだった。
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