タウ・デプス 水晶の姫君

伏潮朱遺

第1章 水晶の姫君 クリスタルプリンセス


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 帰りが遅くなった。

 また殴られた。

 それはどうでもいい。

 毎日殴られればもうどうでもよくなる。

 すっかり暗くなっている。

 季節は秋に向かっている。

 夜は少し涼しい。

 近道をするためにいつもの公園を横切る。

 なにか、

 聞こえた。

 掠れた声。

 すすり泣く声。

 幽霊?

 虫の音の聞き違い?

 怖くはないが不気味だ。

 足を速める。

 と、思って思い直す。

 違う。

 虫でも聞き違いでもない。

 いる。

 女が泣いている。

 じゃあ幽霊?

 幽霊だとしても泣いている女を放っておけない。

 どこだ?

 公園の遊具を見て回る。

 ここじゃない。

 トイレ?

 誰もいないから女用に踏み込むのを許してもらいたい。

 万一の場合がある。

 怪我してその痛みで泣いているのならすぐに病院に連れて行かないと。

 ざあ、と風が脳天を撫でた。

 いる。

 その木の陰。

「大丈夫すか」怖がらせないように優しい声を心がけた。

 女は小さく縮こまっていた。

「どこか痛いんすか?」

 小さい女だった。少女?

「動けないんだったら、乗ります?」屈んで背を見せた。

 女がゆっくりと顔を上げた。

 暗がりでよく見えないが、涙が光ったように見えた。

 薄い生地のワンピース。

 髪は肩より少し長いくらい。

「どうぞ?」躊躇っているようだったので声をかけた。

 女がゆっくりと白い腕を伸ばし、俺の肩にのせた。

 冷たくて小さな手が俺の首に。

「しっかりつかまっててください」

 軽い。

 やはり少女か?

「あの」耳元で鈴が鳴った。

 少女の声だとわかるのに時間がかかった。

「病院ですよね?」

 21時を回っているが救急なら診てくれるだろう。

「え」

「病院じゃないほうがいいですか」

 頷いたように空気が動いた。

 じゃあ、行くところは一つしかない。

「俺の家、行きます?」


 そのとき拾った女は、曇った俺の視界を晴らしてくれた。

 呪い祓いを生業とする一族の巫女。

 ノウ美舞姫ミブキ

 

 俺の、生涯愛した女。






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  水晶の姫君






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 女は俺の家に着くなりシャワーを浴びた。

 俺は脱ぎ捨てられたワンピースを畳もうかどうしようか、居間と脱衣場を行ったり来たりしながら5回くらい迷ってそのままにした。

 ワンピースには血が付いていた。

 やはり怪我をしていたのか。

 そして、気のせいでなければ、下着がない。

 下着なしでワンピースだけだったのか。

 ワンピース1枚の女を背中に乗せて家まで連れてきてしまったのか。

 誰にも見られていないことを願いながら頭を抱えた。

 脱衣場にバスタオルと俺のTシャツ(サイズ大きめ)をそっと置いて、俺は居間に戻った。

 どうしよう。

 いろいろ終わったかもしれない。

 そういえば、背中にそんな感じの感触が残っているような。

 首を振っても感触は消えない。

 熱くなってきた。

「お風呂、ありがとうございました」女がタオルで髪を拭きながら脱衣場から出てきた。

「ああ、はい」しか言えない。

 ちゃぶ台の周りに置いた座布団に、ゆっくりと女が座る。脚を崩して。

 誰だ白いTシャツなんか渡したアホは。

 俺か。

「怪我は大丈夫ですか」

「あ、えっと」女が恥ずかしそうに俯いた。「大丈夫です」

 これ以上触れるなということだろう。

 やめよう。

「よかったら、服、洗いますか?」

「あの、血が落ちないので」

「捨てますか?」

「いえ、そのまま持って帰ります」

 ということは、俺の服を貸せということか。

 それとも買ってきた方がいいのか。

 22時。

 買うにしても明日か。

 俺の家は2階建。両親は別の家に住んでて、兄弟もいないので独り暮らし。

 ただっ広い家に一人。

 だったけど、今夜は違う。

 今更緊張してきた。

 女なんか家に呼んだことない。

「お顔、大丈夫ですか」女が俺の顔をじっと見る。

 親父に殴られた頬を心配してくれている。

「いや、これはいつもだから」

「痛くないですか」

「痛いなら、そっちこそ」

 女の顔が赤くなる。

 しまった。

「ごめん」

 首から下を見ないように気を付けながら。

「えっと、俺、岐蘇キソって言うんだけど、名前聞いていい?」

「岐蘇不動産の?」

「あ、うん。まあ、そう」

 女の名は、ノウ美舞姫ミブキ

 名字に聞き覚えがあった。

「納って、あの」

「はい、あの納です」

 呪いを祓うと称して毎夜男の家に通うという。

「本当に呪いを祓っていると思いますか」

「そもそも呪いってのがよくわからないですよね」

 美舞姫は困ったような顔をした。

「信じてないわけじゃないすけど」

「信じてもらわなくてもいいです」

 しまった。怒らせたか。

 眼が合わない。

「気に触ったならごめん」

 まずい。

 美舞姫が泣きそうだ。

「あの」

「誰も信じてくれないんです」美舞姫が震える声で言う。「誰も信じてくれなくて、それで」

「わかった。わかったよ。俺は信じる」

「そんなに簡単に言われても」

 よく言われる。

 言葉が軽いって。

「家の人は信じてるんだろ?」

「信じてたら毎日毎日あんなこと」

 どうゆうことだ?

 気分転換に麦茶を持ってきた。

 美舞姫はゆっくり口に運ぶ。

 そしてゆっくり教えてくれた。

 確かに納家の女――巫女は、呪いを祓う力がある。

 でもその呪い自体を“客”側はおろか納家の人間も信じていない。

 なのでその行為だけが残って。

「呪いを祓うためにその、客と」

 身体を重ねている。

 今夜はとうとう客のところから逃げてきたという。

「もう耐えられないんです。なんで私が」

 血が出ていた場所はもしかして。

 やっぱり触れないほうが良さそうだった。

「しばらくここに置いてもらえませんか」美舞姫が言う。真剣な眼差しで。

「それは俺の優しさにつけ込んでる? それとも俺にメリットがあるようなことをしてくれるの?」

「黙ってましたが、この家は呪われています」

「だろうな。親父たちが俺をここに閉じ込めてるわけだから」

「そうじゃありません」美舞姫がゆっくり立ち上がって周囲を見回す。「ここ、います」

 いるって。

 何が?

「幽霊とは違うんです。透明な、おりのような、そう、長年こびりついた悪意。それが家じゅうを満たしていて。あなたにも侵蝕してきています」

「へえ、そりゃ困ったな」

「本気にしてませんね」美舞姫が俺を見下ろす。「私ならそれを祓えます」

「そりゃいい。やってくれよ」

「やったらしばらく置いてくれますか」

「いいよ。呪いってのが本当にあるんなら祓ってく」

 れよ、が美舞姫の口の中に消えた。

 ああそうか。

 そうゆうことか。

 そうやって呪いとやらを祓うのか。

 好きにさせよう。

 ちなみに、初めてだけどどうでもいいか。

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