第11話 動力



数年前。




俺は家で一冊の本を読んでいた。


アダム・エデンソン作、『我々はタイムトラベルができない』。






その本には、こう書かれていた。






**『タイムトラベルが不可能である理由について、多くの人は科学的な制約を挙げる。例えば、人間が光の速度を超えられないことや、時空間を自由に移動できないことが原因であると考えがちだ。しかし、これらの理由は表面的なものであり、より根本的な問題は「時間」という概念そのものにある。




我々は、人間が年を重ねることや、岩に苔がむすことを「時間の経過」として理解している。しかし、ここで考えるべきは、実際に「時間」というものが存在しているのかという問いである。現象として観察されるのは、老いていく人間や、変化する自然環境だけであり、時間という実体がそこにあるわけではない。時間とは、我々が生存と生活のために生み出した概念に過ぎず、実際には存在しないのだ。




このように考えると、タイムトラベルという発想自体が、実体のない時間という概念に基づくものであり、根本的に誤りであることが分かる。もし仮に、過去や未来を体験したいと考えるのであれば、単に「時間」を遡るのではなく、世界中のすべての生物や物質の分子を制御し、過去の状態に再現するしかない。しかし、これは事実上不可能であり、タイムトラベルという夢は科学の限界以上に、我々の時間に対する誤った認識によって阻まれているのである。』**






何と夢のない文章だろうか。






俺はこの本が大嫌いだった。






それでも読むのをやめられなかった。






何故なら、この本の持ち主である父親のことを理解したかったからだ。






父は研究職で、家にはほとんど帰ってこなかった。


母が亡くなってからも、研究に没頭している。


具体的に何の研究をしているのか、俺は知らない。






「…頭が痛い」






十分に読み進めたところで、本を閉じた。


気分転換にテレビでも見るかと思い、リビングに移動する。






そこには妹のカルタが、窓の外をじっと見つめていた。


あまりにも熱心に見つめているので、俺は声をかけた。






「カルタ、何か見えるのか?」




気になって俺も窓の外を確認する。


しかし、そこには何も見えない。






「…何も見えない」




カルタが背後から言った。






「じゃあ、何を…」




振り返った俺は、言葉を失った。






カルタの目から血の涙が流れていた。






「カルタッ!? どうした!?」






「…何も見えないの」






すかさず、俺はカルタを背負い、家を飛び出した。






「すぐに病院に連れて行ってやる」






俺はハイランドの中央病院を目指し、ひたすら走った。


息が切れるのも構わず、冷たい空気が肺を刺す。


冬だったのか、家にこもっていて季節の変化に気づかなかった。








ようやく病院に到着し、息を切らしながら受付に駆け込む。




「どうしました?」




看護師が声をかけてくる。






「妹が…目から…血を…」




息も絶え絶えに伝えると、看護師は立ち上がり、俺の背中の妹を確認した。


血がまぶたをこじ開けるように流れている。






「ドクター! イブ先生!」




彼女の声に応じて、女医が駆けつけ、カルタの容体を確認する。






「…異常な症状だ。すぐに処置を始める。ナース、止血剤とバイタル、MRIの準備を!」




そう言って、彼女は俺の背中からカルタを抱き上げた。






「あの…」






「俺の妹はキネシスなんです」






事態の深刻さを考え、女医に伝えた。






「ありがとう、わかった」






それだけ言って、彼女は小走りに立ち去った。


俺は近くの椅子に力なく腰を下ろす。


病院にたどり着き、あの女医の顔を見たことで、少し安心した。




ひどく眠い。




背中にはカルタの血が冷たく感じる。




濡れた背中を感じながら、まぶたが重く閉じた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



「ゲホッ!ゲホケホッ…おえっ…」








目が覚めると、肺いっぱいに支配された水を吐き出した。




まるで一体どれだけ飲み込んだのかと思うほどだ。






俺は橋から飛び降り、川で溺れていた。




辺りを見回すと、別の橋の下にいた。




そこはゴミを川から排除するためのコンクリートの凹凸があり、水深は浅い。




海まで流されずに助かった。






ふと、背中が軽いことに気づく。




そうだ、ミハイルの娘はどこだ。






「けほっ…」






近くで苦しそうに咳をする音が聞こえた。




その方を見ると、意識を取り戻したキネシスの少女がいた。






「…あなた、どなたですか?」




彼女は俺を怪しげな目で見つめ、尋ねた。






「俺はティアゴ。君の身元引受人だ」




「身元引受人?」




「今はしばらくの間、ミハイルに君を預かるよう頼まれてるんだ。何か覚えてないか?」






俺はミハイルの名前を出して、信頼を得ようとする。






「家で出された飲み物を飲んで…それから…覚えてません」






仮死薬を含んだ飲み物だったのだろうか。




彼女の記憶はそこから途切れているようだ。






「その喪服姿。君は仮死薬を飲んで、お葬式を開催、火葬場で葬られるところだったんだ」






「か、仮死薬!?私、そんなフィクションみたいな薬で死ぬところだったんですか!?」






彼女は自分の黒いドレスを見て驚く。






「幸運にも、川に溺れて君は目覚めた。胃の中に仮死薬があって、吐いたからか、それとも淡水に溺れて体内の薬の濃度が下がったからか…理由はわからないが、今は病院に行くべきだ」




俺は彼女に諭すように言った。






「わ、わかりました」




彼女は混乱しながらも、納得したようだ。






「ん?」




俺は背中を見せて屈んだ。






「いえ…歩けます」




「いや、君、靴履いてないじゃん」




「あ…じゃ、じゃあ。甘えさせてもらいます…」




拒否する彼女を諭すように再度言うと、彼女は少し躊躇しながらも俺の背に乗った。




俺は彼女を背負い、歩き出す。








川沿いのスロープを上がり、再び道に出る。




しばらく辺りを歩くと、見覚えのあるビルが立ち並ぶ通りに出た。




(病院までもう少しだったのに、遠回りしてしまった…)




うんざりしながらも歩を進める。










しばらく無言で歩いていると、彼女がぽつりと話し出した。






「…私の先祖の国のお葬式では、故人に靴を履かせないことがあるんです」






「ふーん、なんでだ?」




突然の話題に俺は少し驚きながらも、興味を持って質問する。






「その理由は、故人が肉体という束縛から離れるという、物質的な解放を象徴しているからだと言われています」




「…私の格好を考えると、本当に死んじゃうところだったんですね…」




彼女は悲しげに呟いた。






…なんだか気まずい。






「まぁ、生きてるんだし、今は喜ぶべきじゃないか?数日したらミハイルにも会えるだろうし」




「…慰めてくださってありがとうございます」




会話が途切れ、再び沈黙が訪れた。




しかし、彼女は再び口を開いた。






「貴方も喪服ですが…私の葬式に参列なさったのですか?」




「いや、俺は君が生きてることを知ってる人から、葬式から連れ出すよう依頼されたんだ…まぁ、仕事人みたいなもんだ」




強盗がどうとか言うとややこしくなるので、悪い印象を与えかねないため控えた。






「そうなんですか…助けていただいて、ありがとうございます」




彼女は状況が掴めないながらも、丁寧に礼を言う。








「ありがとうございます…か、はぁ…」




突然、虚しさが込み上げ、ため息が出た。








「どうしたんですか?」






「いや…ここまでの道のりで色々頑張ったのに、結局お金を一円も貰えてないなって思ってさ…」






「そうなんですか…お金は大事ですよね…」






彼女は慰めるように共感してくれた。










「あっ!降ろしてください!」




突発的に彼女が言ったので、驚いてすぐに降ろすと、彼女はビルの壁に埋め込まれたATMに駆け寄って行った。




俺も慌てて追いかける。






「離れて、見ててください」




彼女は妙に自信ありげに言った。






そして、両手の平を合わせ、懸命に擦り始めた。




「何をしてるんだ?」と疑問に思って見つめていると、辺りに異変が生じた。




服の袖に触れると、バチっと静電気が走った。




不思議に思い、再び彼女に目をやると、その原因が彼女自身であることに気づいた。






彼女が両手の平を合わせて擦り始めてから、周囲の空気が変わった。




まるで大気そのものが彼女の周りに集まってきたかのように、重く圧迫感が増していく。




俺は無意識に一歩後ずさった。




手のひらの間から、次第に小さな青白い光が生まれた。




それはほんのかすかな光だったが、瞬く間に力を増していき、まるで生き物のように形を変えながら、彼女の手から周囲に放電し始めた。




バチバチと鋭い音を立てながら、その光は彼女の手から肩へ、そして全身へと広がっていく。




彼女の髪の毛は逆立ち、頭上で舞い踊るように揺れていた。






電気はやがて、青白いオーラとなって彼女を包み込んだ。




その光は眩しく、目を凝らしても直視することができないほどだった。




彼女の手から発せられる電気の流れは、まるで生きた蛇が空中を泳ぐかのように、螺旋を描きながら次々と放出されていく。






「よし!」






彼女が鋭く叫ぶと同時に、その全ての電気が一つの大きな閃光となって、彼女の両手に集中した。




その瞬間、空気がピリピリと震え、静電気の音が耳鳴りのように響く。




そして、彼女はその手をATMの頭部に叩きつけた。






轟音とともに、まるで雷が直撃したかのような閃光がATMを包み込んだ。




機械の内部からバチバチという火花が飛び散り、金属の匂いが辺りに漂った。




衝撃で俺は思わず腰を抜かし、その場に座り込んだ。






ATMは唸り声を上げながら稼働を始め、ディスプレイにエラーの文字が表示されるかと思ったが、それとは逆に、機械は静かに命令に従ったようだった。




そして次の瞬間、機械は急に現金を吐き出し始めた。






それはまるで無限に続くかのように、紙幣が次々と吐き出され、地面にばら撒かれていく。




何万、何十万、何百万という額が、まるで紙くずのように散らばっていく。








「ほら! お給料出てきましたよ!」








彼女は満足げに言った。




その顔には、まるで電気の神のような圧倒的な自信と力が宿っていた。






俺は、今までに見たことのない力を目の当たりにし、再び彼女が単なる少女ではなく、キネシスであり、そしてミハイルの娘であることを痛感した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る