第1話 病室



床の上で目を覚ました。




見渡すと、ここは病院の入院棟の一室だった。


目の前のベッドには、そっぽを向いて眠る女性が横たわっている。


その姿は、どこか母親に似ている気がした。




俺はおもむろに立ち上がり、彼女に近づいた。


長すぎてベッドから垂れ下がった髪を、床につかないようそっと持ち上げる。


髪は一本一本が細く、手に取ると透き通るような水色を帯びている。




ふと、子供の頃の母との会話が頭をよぎった。




「どうして僕の髪は水色じゃないの?」




幼い俺は、自分の黒い髪が気に入らなかった。




「どうしてそんなことを聞くの?」と、母は不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。




「お母さんの髪の方が綺麗だから…」




母はふふっと笑って言った。


「ありがとう。でも、私はティアゴの髪の方が好きだな。」




「どうして?」




「それはね…」






母がなぜ俺の髪を好きだと言ったのか、その理由はもう思い出せなかった。




「母さん…」




懐かしい記憶に目頭が熱くなる。


涙がこぼれそうになり、思わず掴んでいた髪で拭いそうになって焦った。




そんな俺の様子に気づいたのか、彼女があくびをしながらこちらに振り返った。






彼女は俺の妹、カルタだった。






「ん?」




カルタは丸い目で俺を見つめる。


自分の髪に何かゴミでもついていたのかと勘違いしたのか、上体を起こして髪を櫛で整え始めた。




「…何かついてた?」カルタは不安そうにこちらを伺う。


俺の目に涙が浮かんでいるのを見て、彼女の顔色が青ざめた。




「えぇ!?泣くほどスパイシーな臭いしてる!?私!?」




「ちっ、違う。これは…」




これは兄としての威厳、そして妹の尊厳に関わる問題だ。


しっかりと返答しなければならない。






「水分調節だ。」






焦ったせいで、意味不明な答えが口から出た。




「はは!ティアゴ、何だそれ!」




突如、背後から女性のツッコミが飛んできた。


振り返ると、病室の入り口にもたれ掛かっている女医のイブ先生がいた。


毎朝の回診に来たのだろう。


目が合うと、彼女は持っていたカルテを掲げて「おっす」と軽く挨拶をした。




「先生!ノックくらいしてよー。」カルタが不満げに言う。




「すまんすまん。ティアゴが妹にエロいことしようとしてたから、こっそりと…」






「え”」






カルタはこちらに不気味な視線を送ってきた。




「…」




心の中で「そんなわけないだろ」と思いつつ、言葉をかけた。






「カルタ、お前はやっぱりスパイシーだ。」




「酷いッ!」






俺は思った。この元気…こいつは本当に病人なのか、と。






その時、ポケットの中で携帯電話が振動した。


電話に出るため、カルタの病室を一度出た。




通話ボタンを押し、耳に当てる。




「ハロー?」




「よう。あんた、ティアゴっつー人?」




どうやら仕事の依頼らしい。


電話の相手は、だらしなさそうな話し方の男だった。




「そうです。ティアゴです。」




「派遣会社からの斡旋で、キミを紹介された。キミ、若いんだって?割のいい仕事があるんだが...」




「やりたい!やります!やらせてください!」




我がやる気の三段活用。


仕事を逃すまいと、勢いよく返事をしてしまった。




「いいねぇ。一時間後にエメラルド・ポートまで来れるかい?」




「その港なら近いです。行きます。」




「わかった。仕事の概要は現場で説明する、ダメそうならパスでいい。じゃあな。」




港での仕事の依頼だ。


重労働だろうが、割は良さそうで腕が鳴る。


基本的に仕事は選ばない。


生きていくために金が必要だからだ。




俺はカルタと共に、この島で最も高度な医療技術を持つ中央病院で暮らしている。


カルタは現代病「アレルギー」に侵され、定期的に医者の診察を受けなければならないのだ。




カルタの入院費は馬鹿にならない。


それに、彼女のアレルギーは原因が解明されておらず、治療と研究を兼ねた長期の通院が必要だった。少しでも生活費を確保するため、俺たちは病室で一緒に暮らしている。




電話を終えて病室に戻ると、イブ先生がカルタの腹部に聴診器を当てていた。


カルタは俺を見ると、先ほどの不気味な視線を再び向けつつ、上着を少し下げた。






…さっきの話を真に受けたのだろうか。






「仕事かい?」イブ先生が聞いてくる。




「幸運にも、良さそうな仕事が来ました。」




俺は床に置いていた、お気に入りの上着とリュックを拾い上げた。




「早速、行ってきます。」




「いってらっしゃい。」




病室とは思えない和やかな会話が心地よい。


俺はイブ先生とカルタに声をかけて、病室を出ようとした。






「お兄ちゃん。」カルタが呼び止める。






「私が言うのもあれだけど…悪いことはしちゃダメだよ?」






自分が養われている引け目を感じているのだろうか、控えめに釘を刺してくる。






「アリの子一匹、殺さないよ。」






そう言って、俺は病室を後にした。

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