君之青果 ( きみのせいか )
あんりけ
プロローグ
嵐で暗い高速道路を、一台の蛍光イエローのタクシーが走り続けていた。
激しい雨が降りしきる中、その異質な色は闇に浮かび上がり、車内には不気味な静寂が漂っていた。
後部座席には一人の女性と少年、そして無機質なロボット運転手が座っている。
機械的にハンドルを握るロボットの存在が、その静けさを一層際立たせている。
窓に叩きつけられる大粒の雨は、滝のように流れ落ち、タクシー内に響くのは、タイヤが水をかき分ける音とエンジンの低い唸り声だけだった。
車内には、言葉にできない緊張感が満ちており、誰一人として口を開かない。
その張り詰めた沈黙に起こされるように、少年がゆっくりと目を開けた。
彼の視線は虚ろで、しばらく周囲を見回す。
その視線が足元に落ちた時、彼は目を見開く。
左足は既に存在せず、右足も膝から下が失われていた。
生々しい傷跡が彼の視界に広がる。
「この先1kmにて警察の検問が行われています。減速します。」
運転手が無機質な声で告げる。
「Uターンして。」
女性が冷たい口調で命じる。
「拒否します。」
運転手の答えは機械的で感情の欠片もない。
「…」
女性は不満そうに眉間に皺を寄せ、窓の外を見つめる。
その表情には、焦りと苛立ちが混じっていた。
タクシーは徐々に減速し、インターチェンジに近づく。
前方には車の列が続き、進行が止まっている。
タクシーが完全に停車した瞬間、外から強烈なサーチライトが車内を照らした。
驚いた女性は反射的に座席に身を潜める。
「私たちを狙い撃ちするための検問…。空港に向かっていることがバレている。」
彼女は目を瞑り、深く息を吐いた。
少年はその言葉に反応し、何かを感じ取るが、彼女の真意を理解するには至らない。
ただ、彼の胸の中に不安が広がっていくのを感じる。
「あっ…」女性がふいに呟いた。
「空港に行くのはサプライズだったのに…言っちゃった。」
彼女は自嘲気味に笑い、少年の顔を見つめた。
「前にアメリカに行きたかったって言ってたよね。妹さんのアレルギーを治すために…。まだ遅くない、向こうでやり直せるよ。」
「たとえすべてを忘れたとしても。」
そう言いながら、彼女は少年の頬に手を伸ばし、優しくその輪郭をなぞる。その手の温かさに、少年は一瞬、彼女に寄り添いたい衝動に駆られるが、同時に湧き上がる不安が彼を引き戻す。
「…運転手、ここで降ろしてくれる?」彼女はドアノブを引くが、ドアはびくともしない。
「拒否します。高速道路での途中下車は禁止されています。」
「拒否しかできないの? あなた。」
「否定します。」運転手の答えは淡々としている。
女性は怒りに満ちた表情を見せるが、すぐにそれを抑え込み、冷静さを取り戻す。
「…私、密室アレルギーなの。昔、テロに巻き込まれて閉じ込められたせいで。」
「理解しました。ドアを解錠し、空調を強化します。」
「どうも。」彼女は短く答えた後、足元に転がっていた刀を手に取り、狭い車内で素早く一振りした。
刃はまるで紙のように薄く、車窓と外装を透き通るように切り裂いた。
運転手の首がゆっくりと落ち、その断面には斜めの切り口が残された。
奇妙なことに、車窓には傷ひとつついていない。
ドアが音を立てて開き、雨音が車内に流れ込む。
女性は少年を抱き上げ、外へと連れ出した。
「このまま車列の下を這って進む。高速の端にある非常階段まで行ければ、バレずに抜けられるはず。」
彼女は匍匐前進を始め、少年もカルガモのように感覚的に続いた。
両手と残された片膝を使い、懸命に前進する。
少年の心の中で、全てを言語化しきれない不安が渦巻く。
なぜ逃げているのか、そしてこの女性を信じて良いのか、
自身は誰なのか、ここはどこなのか、そんな疑問が頭を離れない。
ふと、彼は隣のビルの大型モニターに目を奪われた。
車の下から拝めるほど大きくて立派なモニターだ。
画面には小太りの年配の男が映り、何かを熱弁している。
「ー最近のアレルギーやイゾンショーの増加は異常だ。かつてこんなことはなかった。今の時代、嫌なことはやらなくていいし、好きなことは気が済むまで出来てしまう。技術と福祉の進歩が人間の免疫を奪っているんだ!!」
男は激情を込めて訴えていた。
映像が切り替わり、別の専門家が冷静な口調で話し始める。
「これらの現象は技術の進歩を反映しています。今の社会、技術で補えることは補って楽にしていく。そんなあたかも若者が怠惰であるかの様に決めつけるのは誤りです。」
「なんだと!?」
「新人類"キネシス”の話題も言わば技術進歩の証です。ニュース、ご覧になられてます?」
「クソ野郎!元"ローランダー”のくせに!」
画面の中で最初の男が激昂し、相手に殴りかかろうとする。
その瞬間、耳を劈くようなクラクションが少年の頭上で鳴り響いた。
驚いた少年は思わず頭を車底にぶつけた。
その衝撃で何やら小さな車の部品が落ちて転がったが、
構わず上からは怒号が聞こえてくる。
「いつまで待たせるんだ!全然進んでないじゃないか!検問アレルギーにでもなったらどうするんだ!」
その声に車の下で、女性は小声で呟く。
「…彼らも私たちを捕まえるために無茶をしているみたいね。」
怒り狂った男が車外に身を乗り出すと、警察のスポットライトが彼を捉えた。
「車外には出ないでください。順番に対応しています。」
「もう言うことなんか聞けるか!歩いてでも帰るぞ!」
「おい、動くなッ!!!」
男が挑発的に動いた瞬間、警察の銃口が一斉に彼に向けられた。
次の瞬間、耳をつんざく銃声が何発も響き、男は地面に崩れ落ちた。
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”ぁ”ぁ”ぁ”あ”」
弾丸が彼の肌に触れた瞬間、それは銀色に輝き、すぐに溶けてしまった。液体金属だ。
しかし、痛みは残るようで、男は唸り声を上げながら倒れ込んだ。
倒れ込んだ男の視線が少年と交わる。
「な”…な”に”し”て”ん”だ”…てめえ…」
「危険を予測したため発砲しました。死にはしませんよ。…移送します。」
その返事が車の下の人間に投げかけられているとはつゆ知らず、警官は淡々と説明した。
「く”...くる”ま”に...」
「はいはい。」
警察は話を流し、男を担架に乗せて運び去った。
女と少年は息を潜め、その光景を見守った。
担架が視界から消えると、二人は再び動き出す。
そのすぐあと、一人の警官が無線機で何かを話しながら、車列の後方から駆け寄ってきた。
「無人のタクシーを確認。乗り捨てだ。付近を捜索しろ。」
「コピー。」
「車の下だ!そこにいたらしい!」
担架を運び終わった警官が叫び、こちらに向かって走り出す。
しかし、すべての車の下を確認する頃には、少年と女性の姿はすでに消えていた。
彼らは警官の声を聞くや否や、女性が素早く少年を背負い、偶然停まっていた別のタクシーに乗り込んだ。
今度の運転手は人間だった。
彼女は息を整えながら、運転手に話しかける。
「すみません、営業中ですか?」
運転手は穏やかな口調で答えた。
「やってますよ。」
女性は安堵の息を吐き、タクシーは営業を始める。
捜索が進む中、警察は状況を確認し、検問を取りやめることを決定した。
高速道路は再び開放され、車列が動き出す。
タクシーの中で、女性はほっとした表情を浮かべた。
しばらくして、運転手が口を開いた。
「二人とも愛の逃避行かい?警察から逃げてるようだ。」
女性は苦笑し、答えた。
「すみません、厄介ごとに巻き込んでしまって。」
「気にしないで。最近は物騒な事件ばかりだからね。もうどの企業も信用できないし、困った時はお互い様だ。」
運転手は年老いた男性で、どこか親しみを感じさせる話し方をしていた。
「私も元移民でね。海面上昇で早々に街がやられちまって、妻と一緒にこの高地に逃げてきたんだ。密入国でね。警備隊に追われたこともあったよ。君たちの今の状況と似てるさ。」
女性は共感の表情を浮かべながら応じる。
「大変だったんですね。」
「でも、今では移民だらけだ。みんな同じような境遇でここにたどり着いている。元々の住人には申し訳ないが、住みやすくなったとは思うよ。」
その時、タクシーの窓を叩きつけるような音が聞こえ、ヘリコプターが通り過ぎた。
ヘリには「自動警察」の文字が大きく描かれていた。
「...ラジオ、ありますか?」
女性が突然尋ねた。
運転手は了承し、ラジオをつけた。
ニュースの声が車内に響く。
「ーこちらスパイア空港前では、警官企業と空港企業の間で攻防が続いています。現在、懸賞金がかけられた容疑者2名が逃亡中とされ、自動警察がエアラインの封鎖を要請していますが、スパイアエアライン側は自社利益を著しく損なうとしてこれを拒否し、事態は膠着状態にあります。」
女性は顎に手を当て、考え込んだ。
「包囲網を抜けて空港に入れさえすれば、この島を出られるかもしれない…。」
少年は彼女の横顔を静かに見つめていた。
彼の中で何かが揺れ動く。
信じて良いのか、疑問が消えないまま、彼女の行動に身を委ねるしかない。
タクシーが高速道路の非常階段前、広めの路肩に到着した。
「やつらに見つかる前に、早く。」
運転者は優しく急かした。
女性は素早くタクシーを降り、運転手に感謝の言葉を告げた。
「ありがとうございます。」
女性は少年を背負い、タクシーを降りた。
タクシーは再び走り去り、冷たい雨音だけが残された。
非常階段を降りると、彼女は雨に打たれながら深呼吸し、少年に声をかけた。
「もう少しだから…あと少し…。」
少年を背負ったまま、彼女は暗い道を駆け出した。人気はない。
彼の心の中で、謎めいた声が響く。
「君は…それでいいのか。」
少年は驚いて後ろを振り返った。
そこには、一人の男が立っていた。
彼はまるで鏡に映る自分自身のように、少年と同じ姿をしている。
「君は前に言っていたね…復讐だけが、自分を生かしていると。」
頭の良い動物が鏡を理解するように、少年は直感的に理解した。
この男は自分自身なのだと。
彼の胸の奥で、何かが崩れ、何かが蘇り始める。
「それが今の君の生きる意味なら、僕が君を助ける。」
その男は穏やかな口調で語りかけた。
「僕は君だ。」
少年は言葉を失った。
頭の中で何かが崩れ、そして新たな感情が芽生える。
自身が抱えているものは何なのか、その答えを見つける必要があると感じた。
「誰かいるの?」
女性が振り返り、少年が後ろを見ていることに気づいた。
しかし、そこには誰もいなかった。
「…気のせい?」
その後、少年は強い頭痛に襲われ、彼女の背で目を閉じた。
次に目を開けた時、彼らは磨りガラスで覆われた半透明の建物の前にいた。
新しそうな建物だった。
自動ドアが開き、二人は中に入った。
温かい空気が冷え切った体を包み込み、少し安心感が広がる。
中には木々が茂り、広大な奥行きが広がっていた。
そこは何かの栽培施設のようだった。
「空港まで、もう少し。」
女性は再びそう言い、エレベーターに乗り込んだ。
彼女の行動には迷いがない。
屋上のボタンを押す指にも、決意が感じられた。
エレベーターが最上階に到達し、扉が開くと、外の景色が一瞬で広がった。
そこには首のない成人男性の体格をした人型の化け物が立っていた。
首の断面は機械的で、無機質な光を放っている。
その姿を見た瞬間、女性と少年は悟った。
その化け物が、彼女が首を刎ねたタクシードライバーであることを。
ドライバーは存在しない首でこちらを見つめるかのようだった。
「こんにちは、急がなくても次のフライトはありませんよ。」
ドライバーは穏やかだが冷淡な声で言った。
そして、後ろを指し示した。
奥には小型のセスナ機が止まっている。
広い果樹園の屋上が、まるで滑走路のように整備され、木々が整然と並んでいる。
セスナの進むべき方向を示しているかのようだ。
「デブリドマン、なぜここにいる?」
女性が鋭く問いかけた。
「空港に向かうと逐一嘯かなくたって、全てお見通しです。」
ドライバーは冷静に答える。
「あなたが私たちをタクシーで送ったの?」
女性は疑念を込めて尋ねる。
デブリドマンは笑うように、存在しない鼻をすする仕草を見せた。
「いいえ、この体は借りただけです。」
デブリドマンはセスナを指し示した。
「太陽光発電付きのセスナとは素晴らしいですね。途中で充電することなくアメリカまで飛べるでしょう。果樹園を滑走路として利用するとは、実に巧妙です。」
「素晴らしいついでに、もう行かせてくれる?」
女性は鋭い視線をデブリドマンに向けた。
「駄目だ。」
デブリドマンの声が急に冷たくなり、彼の態度も変わった。
「その少年にはやるべきことがある。彼の信念を歪めることは許さない。」
「信念?操られた考え方をそうは呼ばないんじゃないの?」
女性は冷ややかに笑った。
「あなたの信念が本物でないように…可哀想な人。」
「可哀想?誰が?私が?何故?」
デブリドマンはその言葉に一瞬動揺したのか、存在しない顎を撫でて考え込んだ。
その隙に、女性は少年をエレベーター前にもたれさせ、デブリドマンから目を離さないようにした。
「そもそも可哀想とは、何だったか…忘れてしまった。しかし、長年の経験がそれを忘れさせたのなら、それは無用なものでしょう。」
すかさず女性は腰から拳銃を抜き、デブリドマンに向けて発砲した。
デブリドマンは両腕で全ての弾丸を防ぐ。
彼の腕は液体金属に侵食され、ボロボロと崩れていく。
「“我々”を殺すためだけに作られた弾丸。...いつか忌み嫌う我々に感謝する日が来るでしょう。」
女性はすかさず距離を詰め、刀を振るった。
右に、左に、突きに、次々と攻撃を加えるが、デブリドマンは全てを受け流し、女性を木々の方へと誘い込んだ。
彼の足元に履物はなく、素足で音もない機敏な動きを見せた。
女性は木越しに斬撃を放つが、デブリドマンはそれを見越して、木の枝に足をかけ高く飛び上がった。
そして空中で、刀を両足で挟み込み、強引に二つに折り曲げた。
それは人間離れした動きだった。
木を擦り抜けるはずだった刀は、もはや音もなく、切れ味を失っていた。
「切れない、振れない、戦えない。勝ち目はない。諦めてください。」
女性は最後の力を振り絞り、体術に切り替えてデブリドマンに攻撃を加えた。
しかし、彼の体はまったく動じない。
彼女は蹴りを繰り出し、殴りかかるが、デブリドマンは一歩ずつ彼女に迫ってくる。
気がつけば、女性は屋上の端まで追い詰められていた。
デブリドマンが彼女の左腕を絡め取り、肘の関節をボキリと折る。
鈍い音が響き、女性は息を飲んだ。
「う…ッ。」
デブリドマンは無表情のまま、女性を屋上から突き出そうとした。
「この世界は繰り返す。痛みはそのうちの一瞬だけだ。」
女性は必死に抵抗しようとするが、重力には逆らえず、彼の手から滑り落ちた。
彼女の体が宙を舞い、屋上から下へと落ちていった。
その瞬間、通りすがりの二名が彼女を取り囲み、二発の銃声が響いた。
デブリドマンはその音を確認し、存在しない目を閉じて深呼吸をした。
そしてセスナが待つ場所へ戻り、エレベーターの扉にもたれかかっている少年と目が合った。
「あの女性は亡くなりました。」
少年は無言でデブリドマンを見つめた。
彼の心の中で何かが動き始める。
彼女が語った言葉が、少年の中でこだまのように響く。
「銃声が鳴ったことですし、話を進めましょう。」
デブリドマンは少年の前にあぐらを描いて座り、ゆっくりと話し始めた。
「君は今、脳に何者かの操作を受けて、障害を引き起こしています。幻覚を見たことはありますか?たとえば…もう一人の自分とか。」
少年は答えない。
デブリドマンは一瞬考え込み、再び口を開いた。
「何も話さない。…発音方法は覚えていますか?言語は?」
少年は依然として黙り込んでいる。
デブリドマンは彼の様子を見て、静かに息を吐き、何かを思い出すように存在しない頭を軽く揺らした。
「記憶障害があるようです。いい物がありますよ。」
デブリドマンは器用に右足でベストから注射器を取り出した。
「君は思い出すべきだ。自分が何をしてきたかを。」
少年はその言葉を聞いて、ここまで一緒にいた女性のことを思い返した。
自分にとって何か、大きな存在だったはずの彼女。
殺されてしまった彼女の事を思い返すことはひどく冷酷に感じられたが、少年はそうしたかった。
そう考えた彼はデブリドマンと近づく注射器を、受け入れた。
デブリドマンは少年のまぶたを左足の指で挟んで持ち上げ、右足で注射器をまぶたの奥に刺し、冷たい液体をゆっくりと送り込む。
「そして君は再び始めるべきだ。自分のしていたことを。」
少年は頭の中に液体が流れ込む感覚を覚えた。
それは薄く広がり、やがて熱を帯び始めた。
彼の額が次第に熱くなり、呼吸が荒くなる。
吐息もまた熱を帯び、体が重く感じられる。
耐えきれず、少年は横に倒れ込んだ。
その瞬間、忘れていた記憶が一気に蘇り、過去の映像が彼の頭の中で再生される。
涙が溢れ、まぶたをこじ開けるように流れ続けた。
物語は、約四年前に遡る。
プロローグ 終
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