15.その報せ、致命傷につき
レーガー家当主・レーガー伯爵の来訪を聞き、ディヒラー伯爵は顔に戸惑いの色を浮かべた。
「金はすべて受け取ったが、こんなタイミングで何の用だ?」
「さあ……旦那様に用がとしか聞いておりませんので……」
使用人も心当たりがなさそうに首を傾げる。応接間に入ると、レーガー伯爵は「やあ、ディヒラー伯爵」とその口角を意味ありげに吊り上げた。苦々しい顔をしてしまいそうになるのを、腰かけながら俯いて誤魔化した。
手を組んで長いものの、ディヒラー伯爵はいまだにレーガー伯爵を好いていない。強欲が皮を被ったような顔つきが下品極まりないし、若いのくせに体も態度が大きい。なにより、話していると常に小馬鹿にされているような気がして気に食わない。
とはいえそれを口に出すことはできない。お互い持ちつ持たれつなのだから。
「……なにか御用ですかな。貸金はあれで充分ですが」
「充分ですか。あれでは不足しているのではないかと、心配して参ったのですがね」
レーガー伯爵のその言葉が額面通りであるはずがない。眉をひそめていると、レーガー伯爵は髭のない顎を優雅に撫でた。
「用途は、ベルティーユ海交易利権の一部を譲り受けること、でしたね。いかがですが、エッフェンベルガー辺境伯との交渉は」
「手紙を送ったところですよ、譲受金額を協議すべく、日取りを決めましょうとね。それがなにか」
「辺境伯の返答は?」
「エッフェンベルガー辺境伯領は国の東端、早馬でもまだでしょう」
「そうですか。まだ、であればいいのですが」
持って回った言い方に、ディヒラー伯爵は段々と苛立ってきた。そういうところも、レーガー伯爵の好きになれないところだ。
「どういう意味ですかな。言いたいことがあるならはっきりとおっしゃっていただきたい」
「いえ、小耳にはさみましてね。ディヒラー伯爵は、金策に苦労していらっしゃるとか」
「くだらん噂ですな」
確かに苦しくはあるが、家柄を殊更に重視する連中からの誹謗だろう。そう一蹴した。
「誰がそのような根も葉もないことを」
「根も葉もないですか。それなら、いいのですが」
情報源の硬さを強調するように、レーガー伯爵は下唇を舐めた。
「それで、海洋利権は? 上手くいきそうですか」
「もちろん。あの利権は金の湧く泉のようなもの。先日説明しましたでしょう、利権の共有持ち分を有するとはどういう意味なのか」
レナータから聞いて知ったばかりの知識をひけらかしながら、ディヒラー伯爵は鼻の穴を膨らませた。ただ、レーガー伯爵は蛇のような目で見返しただけだった。
「……ええもちろん。特にベルティーユ海交易には帝国も噛んでいますしね、帝国に顔を利かせることができるようになれば入ってくる情報と金の種類が変わる」
「そうだとも、であれば――」
「だからこそ高い金を貸し付けたのですが、交渉に進捗はない、ですか……」
レーガー伯爵は両手を組み、深い息をつく。その表情には、隠すつもりのない落胆と、なにより侮蔑にも近い見下した感情が現れていた。ちらちらと、瞬きの度に視線も動かし、部屋の仲を物色する。
「……で、結局訪いの理由は。なんですかな」
「……最近、面白い話を聞いたのですよ。ご夫人は大変羽振りよく宝飾品を購入なさったと。なんでもご令嬢がエーリヒ殿下と婚約するのでその祝いだとか」
「そのことですか」
なるほど、どうやら我がディヒラー家が王家の姻族になることに早めに目をつけようとしたらしい。ディヒラー伯爵は鼻の穴を膨らませた。
「相変わらず情報が早いですな。ええ、愚女には言い聞かせておりますがな、幸せとは静かに享受するものであって他人に言いふらすものではないと」
「祝いは王家から贈られるのではなく、ご自身でお買い求めに?」
「王家から祝いはあるでしょうが、それとは別に贈り物をしたいと思うのが親心でしょう」
「私は金の出処の話をしているのですよ、伯爵」
出処だと? 眉を顰めれば、レーガー伯爵の口元は少々下品に歪んだ。
「なんでも、帝国からやってきた宝石商から相当な宝飾類を購入したようですね。それだけではない、帽子にドレス、ブーツまで一新なさったと……。私が貸し付けた金額に等しかったそうですが、それでベルティーユ海交易利権の持ち分を手に入れる算段が本当に立っているのかと思いましてね」
「なんだと!?」
驚きと怒りで立ち上がるが、レーガー伯爵は笑みを浮かべているままだ。伯爵にとっては金が戻ってきさえすれば些末な問題だからだろう。
「今すぐ確認させる。もしその話が事実であれば、今すぐ件の宝石は買わなかったことに――」
「いやいや伯爵、それより先に、貸金契約書をご覧になっていただきたい」
レーガー伯爵は書簡を取り出し、ポンポンと掌の上で叩いてみせた。金を借り受けた際、お互いに一通ずつ持つとして作成した契約書だ。
「第2条、借入金の使途はベルティーユ海交易利権の持ち分を譲り受けるためとし、それ以外は認めない。第18条、以下の条項のいずれかひとつに該当した場合には当然に期限の利益を喪失し、請求日に利息を含む全ての債務を返済しなければならない、その第1項が貸金の使途に偽りがあったとき……まあ、いつもの決まり文句ですから確認するまでもないでしょうが」
つまり、レーガー伯爵から借り入れた金をそっくりそのまま服飾に浪費してしまったことが明らかとなったいま、ディヒラー伯爵は今すぐに耳を揃えて借金と利息を支払わなければならなくなったということだ。
これが他の金貸しならまだ交渉の余地はあったかもしれない。しかしレーガー伯爵がそう甘い相手でないことは誰よりも知っていた。ディヒラー伯爵は動揺のあまりサッと顔を青くしてしまう。
「……まあ、話を聞きたまえ、レーガー伯爵。金に色はついておらんし、なにより金は私が浪費したものではない。となれば――」
「色はついていない、そのとおり。だから私が貸した金がどこかなどと野暮な真似は申しませんよ、伯爵。しかし、伯爵はもうひとつ、第18条の条件に該当しておりましてね」
「もうひとつ?」
「借入れにあたり虚偽の事実を述べた場合ですよ、伯爵。貴殿の領地を買い求めたいと述べたというトーマス・マルトリッツ」
レーガー伯爵は横柄な態度で頬杖をつき、その指でトントンと自分のこめかみを叩く。
「……ああ、マルトリッツ家の次男だ。先の五十年戦争で亡くなった前当主と長兄に代わり現当主となったと――」
「マルトリッツ家は先の五十年戦争で断絶したそうです」
バッサリと言い訳を切るような口ぶりで遮られ、ディヒラー伯爵は凍りついた。
「……何?」
「正確には長女は生きていたようですが、既に嫁ぎ、その家名を継ぐものはいない」
マルトリッツ家が断絶していた? 頭には、上品な態度の青年が浮かぶ。身形だけなら誤魔化しもきくかもしれないが、洗練された所作は幼い頃から名門貴族として育てられた者のそれだった。
「伯爵がおっしゃるトーマス・マルトリッツとは、どちらのマルトリッツですか?」
「それは……それこそ、別のマルトリッツ家の話だろう。貴殿はなにか誤った情報を得たに違いない」
「印章は確認なさったのですか?」
レーガー伯爵は自分の左手の中指を見せる。貴族当主であれば、印章を指輪として相続しているはずだというのだ。
もちろん、契約の際は確認した。しかし、トーマス・マルトリッツは「五十年戦争で父の体と共に焼かれた」と肩を竦めた。有り得なくはない話だったし、なにより印章による本人確認はリスク軽減のために行うものだ。今回は使えない領地を高値で売却するだけ、土地だけ先に譲渡してトーマス・マルトリッツが金を後払いするなら話は別だが、彼は即金を用意した。となれば、契約によって自身が負うリスクはなく、印章で本人確認する必要はないし、むしろそれを理由に取引を渋るほうが損失だと考えた――が。
レーガー伯爵は不遜に鼻を鳴らす。
「領地を売却するのに印章すら確認しなかった? 伯爵、それはおかしな話ですよ。契約書を拝見した限りかなり高額の取引です、それなのに本人確認しないなんてことが常識的に有り得ますかね?」
「しかし、没落したとはいえ相手は名家マルトリッツだ、しつこく印章を求めれば機嫌も損ねよう。大体、あえてマルトリッツを名乗って私を騙す動機がないだろう、痩せた領地を一部買われたところで、こちらに困るところなどないのだから……」
「いいえ伯爵」
必死にそれらしい言い訳を連ねていたのを、レーガー伯爵は手を挙げて制止した。
「私は、あなたが私を騙そうとしたのではないかとお尋ねしているのですよ」
トーマス・マルトリッツなどという者は存在しない。しかし、マルトリッツ家が存在したことも、五十年戦争を経て没落・断絶したのも事実で、なおかつそれは系譜をよく調べねば分かることではない。
そこで、マルトリッツ家の相続権を有する次男トーマス・マルトリッツという架空の存在を作り上げ、あたかも彼が家再興のために領地取引を持ち掛けてきたと装う。印章までは手に入らなくとも、もともと相続権を有しなかった次男だ、亡き父親か長兄が持ったままだったので紛失したということにすればいい。
そうして、トーマス・マルトリッツが高値で領地を買い取った証拠としての契約書を作成する。夫人と娘にも、トーマス・マルトリッツがやってきて他の領地を買い取りたがっていると口裏合わせをさせる。そのうえで、金額の記入された売買契約書を持ってレーガー伯爵のもとに来れば、他の二束三文の領地にも同じ価値があるものとして、これを担保に高額の借り入れが可能になる。
ディヒラー伯爵の領地は痩せ、いくら重税を課そうが領民から搾り取れるものがない。愛人にも金がかかる。屋敷内の高価な家具は秘密裏に売り払った後、もはや金になるものがない。
であれば、価値のないものを価値があると偽るしかない。
「……と考え、策を弄したのではありませんか、伯爵?」
「馬鹿な!」
自分がそんな詐欺師まがいのことをするものか――と言いかけて口を噤んだ。
なにせ、レーガー伯爵とは“詐欺師まがいのこと”を共にやってきた仲だ。
「まあ伯爵、だからといって私は王室裁判所に訴えて出ようと考えているのではないのです。私と貴殿の仲ですからね、長年の信頼関係を傷つけるものではありますが、まあ、目を瞑りましょう」
言いながら、レーガー伯爵は片目を瞑ってみせた。
「契約書のとおり、今すぐ払っていただければそれで結構」
それとも、払えませんか? ねっとりとした口調は、まるで首を絞めつけるかのようだった。
ディヒラー伯爵は下唇を噛む。もちろん、払えない。金策に苦労していたのは本当だし、ため込んだ裏金も、レーガー伯爵から借り入れた額には到底足りず、せいぜい利息分にしかならない。
「まあ……、まあ、待ちたまえ。私と君の仲だろう、そう焦って型どおりの契約どおりにことを進めることはない」
「おや伯爵、これは面白いことをおっしゃる」
ククッと喉の奥から笑い声が聞こえた。
「約束したとおりにものを進めるために作るのが、契約書ですよ」
「あの、旦那様……」
ぐっと押し黙っていると、後ろから申し訳なさそうに声をかけられた。振り向けば、彼女はレーガー伯爵にちらりちらりと視線を送っている。
「なんだ、いま大事な話の最中だぞ」
「いえそれが……その、レーガー伯爵に命じられていらっしゃったという方々が……」
「レーガー伯爵の? 一体何のことだ?」
「いえね、伯爵は金を用意してくださらないと思っていましたし、私も商売人ですので、念入りに事を運ぶタチですし」
ガタガタと足音が聞こえ、「なにをなさるの!」と悲鳴が聞こえた。
「トーマス・マルトリッツが存在しないせいで、伯爵の領地は酷い値しかつきませんでね。私も涙を呑んで売却しました」
レーガー伯爵は、契約に
「利息にもなりませんでしたよ、まったく。しかも、いまはご息女がエッフェンベルガー辺境伯によって訴えられて裁判中とのこと。エッフェンベルガー辺境伯にたんまり慰謝料をとられては、私が取れるものもなくなる」
メラニーにはエーリヒがついている、だから裁判の結論は見えている――という言葉が出てこなかった。レーガー伯爵の動きに、妙な予感がしていた。
マルトリッツ家の系譜を始め、金銭の費消状況等々の情報を、レーガー伯爵は誰から得たのか?
もしかして、自分はあのトーマス・マルトリッツを名乗る青年に嵌められたのではないか?
「宝飾品類はもちろん、家にあるものはすべて、他の者がかぎつける前に差し押さえさせていただきたきますよ、伯爵」
レーガー伯爵とディヒラー伯爵は、共に手を組んで仕事をして久しい。それを知っていたレナータは、レーガー家を訪ね、こう唆した。
「担保となっているディヒラー伯爵領はすべて適切な価格で、私に売ってください。貸付金に見合う価額では購入いたしませんよ、だってすべて無価値な荒地ですもの。その代わり、ディヒラー伯爵に貸した金を、利息ごと即日回収する口実を教えて差し上げましょう。ディヒラー伯爵は、トーマス・マルトリッツを名乗る青年に領地を売却したといいますが、ご存知ですか、マルトリッツ家は断絶し、唯一生き残ったご息女も他家に嫁いでいるのです……つまりトーマス・マルトリッツは存在しない。ええ、辺境伯の私が保証します、ご息女は友人ですしね。では、ディヒラー伯爵は誰に土地を売ったのか? 伯爵はなぜ、それがトーマス・マルトリッツであると考えたのか? その理由は、常識に照らして合理的か? 一考の余地はございますね。なお、これは仮定の話ですけれど、ディヒラー伯爵がレーガー伯爵を騙して金を借りたのであれば、その金は隠匿しやすいように換えているでしょう……例えばご夫人やご息女の衣類や宝飾品ですとか。もちろん、ただの仮定ですよ。ディヒラー伯爵が、虚偽の使途を述べたのでなければね」
信頼ではなく、利害だけで築いてきた関係は、金が切れるといともたやすく切れるもの。レナータは、それをよく知っていたのだ。
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