14.その出会い、彼方につき

 まだ辺境伯の名を継いだばかりで右も左も分からなかった頃、レナータは、親切そうな顔をしたトルテ伯爵に「エッフェンベルガー辺境伯は交易減税の適用を受けていないのかな?」と持ち掛けられた。

 ヘルブラオ帝国では交易期間に応じた減税があるのだから申し入れておかないと損だと教えられ、辺境伯として未熟な自分は、なにか手続を誤っていたのかもしれないと素直に受け止めた。

 トルテ伯爵は、必要書類だと言って書簡を渡してくれた。その書簡はヘルブラオ帝国の公用語で書かれており、一見するだけでは理解できず、しかし「今日中に手続しないと今月の売上が半分はとんでしまう」と急かされ、慌てて署名をした――それが3%の減税を認める代わりに毎月金2000デュールをトルテ伯爵に献上するものだとは知らず。

 署名後、レナータはよくよく書類を読み、読みなれないヘルブラオ帝国公用語ながら何かがおかしいと気が付いた。しかし当然、トルテ伯爵は「一度署名をしたのだから」と取り合わなかった。

 血の気が引いた。あのときの心情を最も端的に言えばそうなる。ただでさえ、父が死んだ直後で、母も病に倒れ、自分は辺境伯の仕事もろくにこなせず、金が上手く回っていなかった。そんな中で、毎月2000デュールもの大金を捻出しなければならず、しかもそれは3%の減税を遥かに上回る。

 騙されたのだ、そう知った瞬間に自分が恥ずかしくてならなかった。エッフェンベルガー辺境伯と呼ばれて、一人前と認められたような気がして舞い上がって、間に合わないと急かされるがままによく読みもしないで署名をした。なんて愚かなのか。

 その帰り道、雨がぱらつく曇り空の下、顔を青くしているレナータに声をかけた青年がいた。


『もしかして、トルテ伯爵の客人かい?』


 青年はフードを目深にかぶっており、顔は分からなかった。レナータは何も答えずにいたが、驚いたのは伝わってしまったらしく「なんだ、冗談のつもりだったのに」とわずかに見えていた口が笑った。


『トルテ伯爵から書簡をもらっただろう。貸してごらん』


 毎月2000デュールを支払うことを約した書簡など、奪われて困るものではない。レナータが半ば自棄でそれを渡すと、青年は書簡を隅から隅まで読んで、レナータに返した。


『ヘルブラオ帝国法第1389条の82が適用されると言ってごらん。最近施行されたんだ、定額負担を求める契約は成立後7日間は解除が認められる。何か言われたら、宮廷官に相談すると言えばいいよ』


 早口のヘルブラオ語に混乱していると、青年はローザ語で「一緒においで」とレナータの手を引いた。そのままトルテ伯爵のもとに出向き、レナータをトルテ伯爵の家の前で待たせ、問題の署名がされた書簡を取り返して帰ってきた。


『ありがとうございます、私、ヘルブラオ帝国の商取引の法など知らず……』

『あんなのは嘘だよ』


 目を丸くするレナータを前に、青年は口を大きく開けて笑った。


『数千本にものぼる法を、トルテ伯爵ごときが把握しているものか。“ある”と言えば“あるのかもしれない”と思う、一瞬でも勘繰らせればこちらの勝ちだよ』


 そして、書簡さえあれば、後になってはったりだったと判明しても痛くもかゆくもない。レナータの署名がされた書簡を、青年は真っ二つに引き裂き、馬車のランプの火にくべた。


『トルテ伯爵には手を焼いてるんだ、公用語を第一言語としない連中を狙ってこの手の契約をしているからね。こちらもまだ対処が不充分で、迷惑をかけたね』


 2000デュールを騙し取られずに済んだ、そう気づいたレナータは不覚にも泣き出してしまいながら何度もお礼を言った。


『大したものは持っておりませんが、せめてこちらをお持ちください』


 金縁にブルーの宝石をあしらったカフスだった。亡き父が、生前馴染みの職人に依頼していたものの、完成したのは父の死後。形見というには微妙な時期に完成したし、女のレナータには使えず、しかし売り払うには父に悪い気もして、率直にいえば持て余していた。


『父のものを勝手に処分する気にはなれませんでしたが、私を助けてくださった方にお礼として差し上げたと言えば、父も許してくれると思います』


 青年は、手のひらにのせられたカフスをじっと見つめていた。

 ややあって、袖のカフスを外し、レナータからもらったカフスをつけ直した。


『では、ありがたくいただこう』


 そして、自分のものをレナータの掌に載せなおした。


『ただし、今回の件は貸しだ。君が立派になる頃、改めて礼をしてくれ、エッフェンベルガー辺境伯』


 名乗っていなかったはずだが、署名を見たのだろう。レナータはそのくらいしか考えず、しかし貸しだと言われると少々緊張もし、「はい、分かりました」と上擦った声で幼稚な返事をすることしかできなかった。交換されたカフスに、レナータの父のカフスの数倍の価値がありそうな意匠がこらされていると気付いたのは、帰りの馬車の中であった。


 そうして騙されたレナータは一皮むけ、以来、辺境伯として頭角をめきめきと現していった。一方で、その青年には会わないままでいた。しかし、向こうはこちらの名前を知っているのだし、貸しを返してほしいと思えば訪ねてくるだろう。下手に探して妙な輩が釣れても困る、そう思ってレナータから会おうともしなかった。


 ――それを、なぜカールハインツが知っているのか。


「まさか……」

「あのときはお忍びで城下に降りていてね。顔を見せずにいたから仕方ない」


 カールハインツが着るシャツの袖に金縁のカフスが見える。社交場で見たとき、どこかで見覚えがあると引っ掛かっていたが――そうだ、あれは父のカフスだった。


「立派になったね、エッフェンベルガー辺境伯殿」


 5年前の青年は、カールハインツ・レイ・ノイラートだった。

 再会を慈しむ微笑みに見上げられ、レナータは顔を青くした。


「ご冗談を!」

「赤くなるところだろう。なぜ青くなる」

「まさかヘルブラオ帝国の王子殿下に貸しを作ってしまっていただなんて! そんなの誤算どころではありません! ヘルブラオ帝国の王子殿下に払えるほどの財宝なんて、それこそ海洋利権しかないじゃありませんか!」

「だから私は君の利権を目当てにしているんじゃないよ。ただ君に婚姻を申し込んでいる」

「5年前に会ったきりなのにですか!?」

「年数は関係ないよ。大体、なぜ私が五十年戦争の和平に尽力したと思う?」


 なぜここでその話が? レナータが首を傾げていると、カールハインツはとんでもない爆弾発言をかました。


「戦争中では君とおちおち結婚もできないからですよ」

「はい?」


 それはつまり、レナータと結婚するためだけに五十年戦争を終結させたということか? 唖然とするレナータと裏腹に、カールハインツは至極真面目な顔をしていた。


「当然だ。そうでなければ二年も三年もかけて和平協定のために東奔西走するわけがない」

「え、いえいえ、カールハインツ殿下、落ち着いてください。何度も申しますが、私と殿下は5年前にお会いしたきりですし……」

「5年前に会ったきりだったからだよ。一度しか会ってないぽっと出の王子に見初められただけではほいほい結婚してくれまいと思ったから、君の信用を得るために手っ取り早いと考えたんだ」


 同盟国でもなんでもない国のために数年間尽力したと言ったのと同じ口で「手っ取り早い」? レナータにはもはや意味が分からなかった。


「それは……それは、利益率が非常に悪いです!」

「どうして? そうでなければ君と結婚する土台もできないのに?」


 しかし、カールハインツは真剣だ。


「君と話したのは5年前の一度きりだ。でも、君が辺境伯として表に出てくるのは何度も見ていた。可憐な少女が、大貴族相手に立ち回り、どんどん頼もしくなっていき、辺境伯と称えられている。そんな君と、ただの皇子の自分では釣り合わない。そう気づいたときの私の絶望が分かるかい?」


 徹頭徹尾、商取引に換算することしかできないレナータには理解できなかった。理解できるのは、カールハインツの求愛は執着とも呼ぶべきということだけだ。

 呆然としたままのレナータの手を取り直し、指先に口づける。


「たかだか和平協定を結んだだけ、城下を整備しただけ、悪辣な取引を取り締まっただけ……これだけで大きな顔をできないのは分かっている。君が釣り合わないというのならまだ自分を研こう。しかし、これだけは理解してくれ。私は本気で、君に結婚を申し入れている」


 そこまで言われて、レナータはようやく顔を青くするのでなく赤くした。


「……あの、カールハインツ殿下」

「なんだい? 結婚する気になってくれたかな?」

「いえそれはなっていないんですけれども。……あの、殿下のお気持ちは、分かりました」


 眉尻を下げられ、慌てて付け加えた。わざとらしい表情だったが、こちらが申し訳なくなってしまう圧があった。


「……本気には本気でお答えするのがエッフェンベルガー家の流儀です。真面目に検討させていただきます」

「……立派になりすぎるのも考えものだね。君はどこまでも“エッフェンベルガー辺境伯”だ」


 カールハインツは呆れた溜息を吐いた。その立場を脱ぎ捨ててくれるまで、まだまだ時間がかかるだろう。しかし、検討すると言ってくれるだけ一歩前進だ。


「前向きになってくれるのを待ってるよ。でも私は気が長くないほうだから、あんまり待たされるとローザ国を支配下に置いて君主として婚姻を命じるかもしれない」

「あの、私と結婚するために和平協定を結んだ方がそんなことを言うのはやめていただけますか? 冗談に聞こえませんので……」

「それは仕方ないよ、冗談じゃないからね」


 ははは、と明るく笑われたレナータは、もう「御冗談を」とは言えなかった。

 ……と、そこで、レナータはある可能性に気が付いた。


「……殿下」

「婚姻の承諾かな?」

「いえ違います。……殿下は、5年前から私をご存知だったということですよね。しかもいまのお話ですと、この5年間の私もご存知だった……」

「もちろん。条約締結を取りこぼそうとも、愛しい君の日々を見逃すわけにはいかない」

「……自意識過剰であれば謝罪します。が……、例えば、私がナッツのパウンドケーキを好きですとか、食欲がないときはパンと軽いサラダで済ませているですとか……そういうことを、ご存知なのですか……?」


 二度目に会った際、まるで予め指示していたかのように、レナータの好物ばかり取り分けたこと。レナータが馬に慣れていると知っていたこと。絵が下手だと知っていたこと。その他もろもろ、なぜ知っているのだろうと疑問を抱いた場面が、レナータの頭には次々と浮かんできた。

 まさかまさかまさか。レナータが愕然とするのと反比例して、カールハインツの笑みは輝く。


「言っただろう、君のことはなんでも知っているよ。卵の調理はサニーサイドアップ、いつも身に着けているアクセサリーは母君が父君から婚約時に贈られたルビーとダイヤモンドの指輪、この一件以前の悩みは子爵夫婦のカフェで試食でもらったパンデピスがおいしすぎて少しコルセットが苦しくなってしまったこと」

「ぎゃあああぁぁ!!」


 ごく一部の使用人すら知らないはずのことに、レナータは顔を真っ赤にしながら悲鳴を上げた。

 可愛い、愛しい、君自身を好きだから結婚したい――その言葉に、確かに嘘偽りはないようだ。ただ、その愛が、重いとおりこしてあらぬ方向に深すぎるだけで。


「殿下との婚姻なんて、断固、お断りです!」


 恋に無縁に辺境伯として奔走してきたレナータ、恋のためだけに皇子として奔走してきたカールハインツ。2人の物語は、これから始まる。

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その辺境伯の恋には枷がある 縹麓宵 @Anecdote810

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