桃色バスケット〜放物線の向こうに君を見ていた〜
Y.Itoda
1章
第1話 プロローグ
*
私には、ずっと忘れられない人がいる。
スマホのLINEの画面は、あのときのままで『明日お互い頑張ろう!』と、私が送った文章を最後に
いつまでも既読が付かない液晶に向かって、『何かあったの? 大丈夫?』などと何回も打ち直したメールは、いまだに送れないでいた。
どことなく、しんみりとしたおぼろげな月を見るたびに、泣きたくなるのもそれが理由だ。
二年前。
「いってきまーすっ」
練習着に身を包み、リビングにいる家族に向かって声をかけてから、軽快に家を出た。
まだ眠りから覚めきらない街は静まり返り、マンションの外階段を降りる足音だけが響く。階段の壁に映った自分の小さな影が、少しずつ昇っていく太陽と一緒に目覚めていくかのようで、ちょっとだけ照れくさかった。
エントランスの外に一歩踏み出すと、新緑の香りが漂う冷たい空気が頬を撫で、一瞬立ち止まる。爽やかな朝の光に気付いて、深呼吸をする。
清々しい青い空の下では、都会のど真ん中にいるのにもかかわらず人影はほとんどなかった。遠くから聞こえる鳥のさえずりと、気持ちの良い青い空は、何だか、日常の喧騒から解放させてくれるような気がして、頬をゆるませた。
私は、目黒川沿いの木々の間を渡る風を、少しだけ駆け足で切っていく。
公園からボールをつく音が聞こえてくる。私は、小気味のよいリズムを追いかけるように足を急がせる。
バスケットゴールのある広場では、先に来ていた彼がシュートの練習をしていた。リングのネットに触れた音がして、きちんと整備されたアスファルトのコートの地面に、ボールが落ちる。
私の存在に気がついた彼がボールをつきながら、目の前にやってくる。その心地の良い笑みは、まるでこの世界には歪んだ争い事なんて存在しないのだと、思わせるくらいに眩しく見えて、ちょっぴりこそばゆくもある。
「おはよ」
「おはよーっ」
私は恥ずかしさを隠すために、少しだけ割って入る感じに駆け寄った。急いで背負っていたリュックサックからボールを取り出す。
「いよいよだねっ」
「だねっー」
そう優しく言い、軽快な足で嬉しそうに歩き出した彼と、並ぶようにして、私も一緒にボールをつきながら、着いていく。
彼の放ったボールはきれいな放物線を描くとネットを揺らす。その引き締まった大きな背中から放たれる教科書のお手本のような美しいシュートフォームに、私はいつも見とれてしまう。
手からボールが離れた瞬間、時間が止まる。そしてゴールへと吸い込まれてから、耳の奥の方で乾いた音と、地面に落ちた音が響くと、はっと現実世界に戻ってくるのだ。
「今日も調子良さそうだねっ」
微笑みかけてから、私もゴールに向かってシュートをしたけど、豪快にリングに弾かれる。すると彼が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「力み過ぎ、力み過ぎ、
私は、はいはい、と受け流してから、ボールを取りにいき、再びシュートをした。
でも、聞こえたのはリングに弾かれた音だけ。
「大丈夫ー? 試合。今日から地区予選だよ?」
からかい半分の彼に向かって、おまえがキラキラしてるせいだよ変に力が入って軌道が乱れてるのは、とはもちろん言えず、私は転がったボールを拾いにいく。その間にも、ネットに触れる音が響く。
「もー、プレッシャーかけないでよー。私は
ごめんごめん、と笑いながら、彼は私の側にきた。
「ほら、ループ、ループ。もっと意識してっ」
私は、はいはい、と、ため息を溢しながら言った。げんなりと。
「わかってますよぉ~」
ループとは、ボールが描く放物線のことで、バスケの理想的なシュート条件は、すでに世界的に解明済みで、最もゴールに入る角度は四十五度なのだと、耳にタコができるほど彼から聞かされていた。あと、ループをかける意義として、入射角と反射角の問題があることも。物理の苦手な私には、ちんぷんかんぷんな話で、いつも聞いているフリをしている。
「体をリングに対して真っ直ぐに向ける。シュートは全身で。手だけじゃなく下半身も使ってボールに力を伝えるっ」
ほんと基本的なことだけど、言われて、意識してシュートすると……
私はもう一度ボールを放つ。
ほらね。
不思議と、スパッときれいにゴールに吸い込まれるのだ。
「それ、それっ」
自分のことのように喜ぶ彼の表情が愛おしい。
「絶対、勝とうね!」
駆け寄って、私がそう大きく声をかけると、彼は溢れんばかりの興奮を抑えるようにして口を開く。
「勝って、絶対、全国に行こうっ」
……ん?
暗い。
部屋の中。
——あ、
バスケットボールが床に響く音で、一気に、中学三年生から高校二年生へと、夢から覚めたのだと気づく。
まだ朝ではないことはわかった。スマホのアラームは鳴っていない。画面には、バスケの試合の映像が流れている。寝る前に、撮影した自分の学校の試合を見返していたものだ。
ぼんやりと光る液晶を眺めていると、何だか急に、この世界に独りぼっちのような気がして、孤独感に押しつぶされそうになり、ふと、思った。
最近の悩み。
それはバスケをする人間にとっては受け入れ難いことだった。
私は——
ボールをつく音が嫌いだ。
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