第三回 0903 結果→3410文字/83分19秒
七美伯母さんが帰ってきて、二週間が経った。もうすぐ帰るよ、と昨晩言っていたけれど、そんな気配はまるでない。今日も昼過ぎに起きてきて、ボサボサの髪を掻きながら、大きなあくびを一つした。
「あっ、あああぁっ~」
とても二十代女性とは思えない豪快さで伸びをする。タンクトップの裾が持ち上がって、へそに開いたピアスが見えた。その輝きを見るたび、あたしは心に切り込みを入れられるような気持ちになる。
「ちょっと寝過ぎたなあ、いま何時?」
「ちょっとじゃないでしょ。もう十三時だよ? 実家だからってだらだらしてたらダメだよ」
「かーちゃんみたいなこと言うなよなあ」
伯母さんはぼやいて、ごく自然な仕草で後ろから抱きついてきた。クーラーのきれた部屋で寝ていたせいだろう、さらされた肌はしっとりと湿っていた。
でもまったく不快じゃなかった。小麦色の肌から異国の香りがした。
「なぎ、なんで起こしてくれなかったの?」
甘えた声で、髪をぐしゃぐしゃにされる。いつもなら手を払いのけるけど、今日はされるがままになっていた。ここだけの話、伯母さんにそうやって可愛がられるのは嫌じゃなかった。もう照れ隠しなんていらなかった。
「今日はえらく素直だな~。かわいいぞ~」
伯母さんはうりうりと私の髪で弄ぶ。さっきシャワーを浴びたばかりだから、まだしっとりと濡れていた。
あたしはされるがままで、伯母さんのやわらかさを背に感じていた。薄い身体をしているのに、こんなにも柔らかで温かいことが不思議に感じられた。
「七ちゃん、海外はいっつもひとりだよね。どうやって起きてるの?」
「海外は日本ほど時間に厳しくないんだよ。みんな太陽の動きで時間を視るんだ」
「ふうん、それって困らないの?」
「困らないさ。みんながそれで動いてるんだから。むしろ日本にいる気で時間を気にしている方が困るね」
十分前集合、五分前行動を強いられているあたしからしたら、羨ましいことだった。
「まあ結局のところ人はみんな、時間じゃななく、周りに縛られてるってことだな。もしかしたら人が死ぬときも、同年代が死んでいくから、空気を読んでいるのかもしれない。寿命ってひととの繋がりが切れたって意味なのかもな」
七美伯母さんには、こういうところがあった。持論をぶつというか、人の話を連想して、哲学的な帰結に持っていくところが。
お母さんはそういう伯母さんの話し方を苦手に思っているようだけど、あたしは結構好きだった。煙に巻くのが大人の流儀であると、あえて演じている風流なところが。
「りっちゃんはどこいったの?」
「さあ、出かけてるんじゃない」
りっちゃんとは七美伯母さんの妹――つまり、あたしの母のことだった。思ったよりも素っ気ない言い方になってしまい、慌てて付け加えた。
「昨日、卵と牛乳を切らしてるって言ってたから、それじゃない?」
「へえ、そっか」
伯母さんは特に疑わなかったみたいだ。あたしから離れると、洗面台に行って、歯ブラシを咥えて戻ってきた。
「……なぎ、学校はまだ休み?」
「うん。明日まで」
今日は八月三十日。夏休みももうすぐ終わる。
「じゃあ今日はどっか連れてってやるか。どこがいい?」
「ほんとに!?」
あたしは前のめりになった。こちらから誘おうと思っていたから、手間が省けた。伯母さんは少しだけ目を大きくして、
「なんだ、そんなに行きたかったのか。言ってくれたらこの七ちゃんのドライブテクでどこまでも連れてってやったのに」
「だって、宿題終わってなかったから」
嘘だったがぼそぼそ言うと、伯母さんは口を開けて笑った。
「はは。なぎ、案外不真面目だな」
「七ちゃんもどうせ終わりがけにやってたでしょ?」
「私くらいになるとやらなかったからな。休みはフルで遊んでたよ」
「怒られないの?」
「怒られるけど、しばらく放っておいたら言われなくなるからな。休み明けはテストもあったし、戦略的撤退だな」
最悪だ。先生もきっと手を焼いただろう。
「でも、絵日記だけはちゃんとつけてたな」
伯母さんは未だに日記を毎日、欠かさずつけている。継続が苦手なあたしからすれば凄い特技だった。
「そうだ、そのときのやつ見せてやるよ。けっこう私の日記面白いんだぞ。たしかりっちゃんの部屋に……」
伯母さんが行こうとするのを、あたしはさりげなく制した。
「その前に、歯ブラシ置いてね。あと顔も洗って、シャワーも浴びてきたら?」
「え、もしかしてくさい?」
「くさくないけど、汗掻いたでしょ?」
「クーラーが壊れてたんだよ。つけて寝たはずなのに、朝起きたら暑くてさあ」
それはきっと、昨晩停電が起きたせいだ。あえて言いはしなかった。
「それに、今日はデートに連れて行ってくれるんでしょ? シャワー出たらお化粧もしてね」
「わがままな女になったなあ」
伯母さんは肩を竦めた。海外暮らしが長いからか、生来の洒落っ気か、普通の人がしたら不相応な仕草にも、わざとらしさや嫌らしさは少しもなかった。
「だめかな?」
「逆だよ。わがままな女はいい女って相場は決まってるんだ。なぎ、学校でモテるだろ」
「ちょっとね」
あたしは人差し指と親指で隙間をつくった。伯母さんはまた大口を開けて笑った。
「じゃあ支度するからいい子で待ってろ」
伯母さんがシャワーに入ったのを確認してから、あたしは母の部屋に向かった。昨晩、停電が復旧する前に出てしまったから、今一度、どうなっているか確認しなくてはならない。
「なぎー、シャンプーどれー?」
風呂場から伯母さんの声が響いてくる。掃除好きの母はいつも見えないところに物を置きたがったから、大抵の物は目に入らないところにある。
「シャワーの下が引き出しになってるよ!」
あたしは短く答えて、今度こそ母の部屋に入った。
蒸し暑かった。母の性格を映すような、生活感をかけらも残していない部屋なのに、何がこんなにもこの部屋を蒸しているのか不思議だった。もう腐敗が始まってるのか、据えた臭いが漂っていた。電気をつけると、ベッド脇に目を見開いた母が転がっていた。思わず目を背けた。自分でやったことだと信じられなかった。
「あたしは、悪くない……」
息を吸っているはずなのに、腐臭の漂うこの部屋では酸素が足りていないような錯覚を起こした。
スマホを開いて、もう一度メッセージを送る。相手はクラスの端でいつも文庫本を開いている男子だった。
〉鍵は開いてるから。
〉失敗したら、ゆるさない
返信はなかったが、きっと大丈夫だろう。これであの日のことは帳消しになるのだ。きっと彼は従ってくれる。
それに、あたしはちょっとモテるのだ。
あたしにつながる証拠が残っていないことを確認し、部屋を出ようとしたところで、
「なぎ、何やってるの」
伯母さんが入ってきた。パッド入りのタンクトップにパンツという格好で、やはりその肌からは上品な異国の香りがした。
「りっちゃん……?」
伯母さんはさすがに面食らっていた。でも取り乱すことはなかった。あたしの顔を見て、母の顔を見て、それから深い息を吐いた。
「これ、なぎがやったの?」
いつものおちゃらけた声ではなかった。硬質で、平坦な声だった。伯母さんのこんな声は久しぶりに聞いた。
あたしは頷いた。
「昨日の夜、揉めて、それで……」
言葉は少なかったが、大体の事情は察してくれたらしい。
「どうするつもりだったの? 処理とか」
あたしが男子に頼んでいたのも処理だったが、改めて言葉にされるとばつが悪かった。あたしは死体処理を頼んだときのトークを開き、スマホを渡した。
伯母さんは無表情で目を通すと、
「悪手だね」
とすげなく言った。
「でも。じゃあ。どうしたら……」
母を殺したから刑務所行きというのは嫌だった。少なくとも来年までは待って欲しかった。今年は最後の年だ。それなのに伯母さんと会えなくなるのは嫌だった。
「伯母さんももう長くないのに……」
余命について、はっきりと口にしたのは初めてだった。
「なぎ、ちゃんと頼りなよ」
肩に手を置かれる。おそるおそる見上げると、伯母さんは小さな歯を見せるつけるように笑っていた。
「言っただろう。七ちゃんのドライブテクでどこまでも連れてってやるって。本当はアウトレットでも行こうと持ってたけど、デート先は山に変更だ。海もいいな。りっちゃんと三人で、どこでも行こう」
あたしはいつの間にか笑っていた。きっとこの人なら殺人すらも肯定する話をしてくれるだろう。やっぱりこの女性が、あたしは好きだ。改めてそう思った。
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