第3章:無重力の策略:老獪なる英雄の反撃

 国際宇宙ステーション「ニュー・ホライズン」の中央制御室。ジョン・ハリソンの指先が、ホログラフィック・ディスプレイ上を素早く動き回る。その動きには無駄がなく、長年の経験に裏打ちされた確かな技術が感じられた。


「さて、ここからが本番だ」


 ジョンは静かに呟いた。

 彼の青い瞳に、決意の光が宿る。


 ホログラフィック・ディスプレイには、ステーションの各セクションの状況が詳細に映し出されていた。赤く点滅する点は、スターダストのメンバーたちの位置を示している。彼らは主に研究区画と居住区を中心に動いていた。


 ジョンは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。そして、重力制御システムのメインスイッチに手をかけた。


「申し訳ない、みんな。しばらくの間、不快な思いをさせるかもしれないが……これが最善の策なんだ」


 そう言って、ジョンはスイッチを切った。


 瞬間、ステーション全体が完全な無重力状態となった。

 通常、人工的に生み出されていた地球の3分の1程度の重力が、一瞬にして消失したのだ。


 制御室内のあらゆるものが、ゆっくりと宙に浮き始めた。ペン、データパッド、そして細かな埃の粒子までもが、まるで魔法にかけられたかのように静かに浮遊を始める。


 ジョンは無重力環境下での動き方を30年以上も前から体得していた。彼は優雅に壁を蹴り、ホログラフィック・ディスプレイの前に戻った。その動きには無駄がなく、まるでバレエダンサーのような美しさすらあった。


「さて、君たちはどう対応するかな?」


 ジョンは、モニターに映るスターダストのメンバーたちの様子を観察した。


 研究区画では、黒い宇宙服を着たスターダストの若いメンバーたちが、突然の無重力に戸惑いを隠せない様子だった。彼らの動きは不自然で、しばしば壁にぶつかったり、方向を見失ったりしていた。


 一人の男が慌てて腕を振り回し、それが逆効果となって体が回転し始める。彼は徐々にパニックに陥り、制御不能に陥っていく。


 別の女性メンバーは、壁を蹴ろうとしたものの力加減を誤り、天井に激突。痛みに顔をしかめながら、ゆっくりと反対側の壁に向かって漂っていく。


「ふむ、やはり地上でのシミュレーションだけじゃ、本物の無重力には対応できないようだな」


 ジョンは、冷静に状況を分析した。


 一方、居住区では、アレクサンドラ・フロストが明らかな苛立ちを見せていた。彼女は他のメンバーよりは上手く無重力環境に適応しているように見えたが、それでも動きにはぎこちなさが残っていた。


「くそっ! こんなことで私たちが止められると思っているのか?」


 アレクサンドラの怒声が、通信機を通してジョンの耳に届く。


 ジョンは薄く笑みを浮かべた。


「いいや、止められるとは思っていない。ただ、時間を稼げればいいんだ」


 彼は静かに呟いた。


 ジョンは再びホログラフィック・ディスプレイに向き直り、次の一手を考え始めた。彼の頭の中では、ステーションの構造図が立体的に広がっている。通気口のネットワーク、隠れた通路、そしてそれぞれの区画の特性。全てが彼の長年の経験によって、完璧に把握されていた。


「サラ、聞こえるか?」


 ジョンは通信機を手に取った。


「はい、ジョン! 大丈夫です。でも……この無重力、慣れるのに少し時間がかかりそうです」


 サラの声には、少し緊張が混じっていた。


「心配するな。これは我々に有利に働く。さて、今から指示を出す。よく聞いてくれ」


 ジョンは、冷静沈着な声でサラに詳細な指示を与え始めた。避難中のクルーの安全確保や、重要なデータの保護など、緊急時のプロトコルを一つ一つ確認していく。


 その間も、ステーション内ではスターダストのメンバーたちの混乱が続いていた。アレクサンドラは、部下たちの無様な姿に怒りを爆発させていた。


「このバカ者どもめ! こんな程度の無重力で何をもたもたしている!」


 彼女の叱責の声が、ステーション内に響き渡る。


 ジョンはその様子を冷静に観察しながら、次の一手を練っていた。


「怒りは冷静な判断力を奪う。そして冷静さを失うことは、この環境では致命的だ」


 彼は経験から得た教訓を、静かに呟いた。


 ジョンは再び通信機を手に取った。


「サラ、環境制御システムの準備は整ったか?」


「はい、指示通りに設定しました。いつでも作動させられます」


「よし、私の合図で起動してくれ」


 ジョンは、モニター越しにアレクサンドラの動きを注視した。彼女が居住区から研究区画へ移動しようとしているのが見て取れた。


「今だ!」


 ジョンの指示と同時に、サラが環境制御システムを起動させた。


 突如として、アレクサンドラがいた区画の空気の流れが変化する。

 微妙な気流の変化が、彼女の体を思わぬ方向に押し流す。


「なっ……何だこれは!?」


 アレクサンドラの驚愕の声が響く。


 彼女は必死に姿勢を立て直そうとするが、予想外の気流の変化に翻弄され、壁に激突してしまう。


 ジョンは静かに微笑んだ。


「無重力空間では、小さな変化が大きな結果を生む。それを知り尽くしていることが、時に最大の武器になるんだ」


 彼の言葉には、長年の経験から得た確信が滲んでいた。


 アレクサンドラは、怒りと屈辱に顔を歪めながら、何とか体勢を立て直そうとしていた。しかし、彼女の地上では洗練された動きも、この予想外の環境では思うように機能しない。


 一方、ジョンは依然として冷静さを保っていた。彼は、ステーションのシステムを巧みに操作しながら、スターダストの動きを制限し続けた。


 時折、気流の変化や照明の明滅、そして突然のノイズなど、様々な手段を駆使してスターダストを混乱させる。それらは全て、長年の宇宙滞在で培った経験と、ステーションのシステムに関する深い知識があってこそ可能な戦術だった。


 ジョンは、モニターを通してアレクサンドラの動きを注視していた。彼女は、何とか部下たちを統制しようと努めているが、その試みは徐々に失敗に終わりつつあった。


「経験というのは面白いものだ」


 ジョンは、静かに呟いた。


「それは、時として重荷になることもある。しかし、このような状況では、何物にも代え難い武器になる」


 彼の言葉には、長年の宇宙生活で培った叡智が滲み出ていた。


 突如として、アラームが鳴り響いた。


「ジョン! スターダストが研究室のセキュリティを突破しようとしています!」


 サラの焦った声が、通信機を通して響く。


「落ち着け、サラ」


 ジョンの声は、依然として冷静そのものだった。


「彼らが突破できたとしても、データにアクセスすることはできない。私が既に全てのデータを暗号化し、別のサーバーに移してあるからな」


 サラは安堵の息を吐いた。


「さすがです、ジョン」


 ジョンは微笑んだ。


「経験は裏切らない。さて、彼らの行動を利用して、次の罠を仕掛けよう」


 彼は再び、ホログラフィック・ディスプレイに向き直った。その青い瞳には、静かな炎が燃えていた。


 ジョンの指先が、再び素早く操作パネルの上を舞う。彼は、スターダストが侵入しようとしている研究室の環境制御システムを操作し始めた。


「アレクサンドラ、君はまだ若いからな。若さゆえの過ちを犯すのも無理はない」


 ジョンは、静かに呟いた。


「しかし、この宇宙という舞台では、一つの過ちが命取りになることもある。そのことを、身をもって学んでもらおう」


 彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、研究室内の気圧が急激に変化し始めた。スターダストのメンバーたちは、突然の変化に戸惑い、慌てふためく。


 アレクサンドラの声が、通信機を通して響く。


「何をした、ジョン・ハリソン!」


 怒りと焦りの入り混じった声だった。


 ジョンは冷静に応じた。


「君たちに、宇宙の厳しさを教えているだけだよ。ここでは、一瞬の判断ミスが命取りになる。分かるだろう?」


 研究室内の気圧変動は、スターダストのメンバーたちを混乱に陥れていた。彼らの動きは更に不自然になり、中には呼吸困難に陥る者も出始めていた。


 ジョンは状況を冷静に観察しながら、次の一手を考えていた。


「サラ、避難中のクルーの状況は?」


「全員が安全区画に到達しました、ジョン。あなたの指示通り、生命維持システムの独立運転に切り替えています」


「よくやった」


 ジョンは満足げに頷いた。


 彼は再びモニターに目を向け、スターダストの動きを注視した。アレクサンドラとその部下たちは、明らかに苦戦していた。無重力と予想外の環境変化に、彼らの訓練や経験が全く追いついていないことは明白だった。


「経験の差が、ここまで如実に現れるとはな」


 ジョンは静かに呟いた。彼の表情には、勝利を確信した自信が滲んでいた。


 しかし、ジョンは決して油断することはなかった。彼は次の一手を考え始めていた。スターダストを完全に無力化し、ステーションの安全を確保するまで、この戦いは終わらない。


 ジョンの青い瞳に、決意の光が宿る。彼は再び、ホログラフィック・ディスプレイに向き直った。


「さて、次は何をしてくれるのかな、アレクサンドラのお嬢ちゃん?」


 ジョンの声には、挑戦の色が滲んでいた。彼は、この危機的状況を、まるでチェスの対局のように楽しんでいるかのようだった。


 そして、ステーションの至る所で、スターダストのメンバーたちの混乱が続いていた。彼らの若さと体力は、この予想外の環境では殆ど意味をなさない。一方、ジョンの経験と知恵は、まさにこの状況で真価を発揮していたのだ。

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