503号室

入月純

第1話


「私、人を殺しました」


 ゴールデンウィークも終盤に差し掛かった五月二日、小鳥さえずる早朝に、女子高生は開口一番罪を告白した。


「でも、ではないんです」

「……はぁ」


 曖昧に頷いた私は、右手に握っていたゴミ袋をドアの脇に起き、扉に鍵をかける。


 そう、私は六階建てマンションの一室から、出勤しようと部屋を出た途端に声をかけられたのだ。

 そして今、目の前の女子高生は、自分の言っている意味をいまいち理解できていない私に対し、非難がましい視線を送っている。


「はぁ、じゃなくて」


 彼女の癖なのか、口元をあまり動かさずに話すため、声が聞きとり難い上、棘のある不機嫌な印象を受けてしまう。


「いや、ごめん。よく意味が分からないんだけど……」


 またぞろ、子供達の間で流行っているゲームの類なのだろうと察しをつけた私は、きっと友人との賭け事に負け、『近所の人に人を殺しましたと言わなくてはならない』というルールを守り、こうして私に物騒な告白を仕掛けてきたのであろうと看做みなし、さてどうリアクションをしたものかと思案していると、女子高生は半眼で私をめ付ける。


「意味はわかります。人を殺したと言ったんです。松岡まつおかさん、日本語知ってますよね?」

「……人並には」


 目の前の少女は、何故か怒りを増していっている気がする。

 批難される言われも睨まれる筋合いもないつもりなのだけれど。

 とはいえ、彼女が私の名を知っているように、私も彼女の名を知っている。

 確か、中須なかす……なんだったか。下の名前は忘れてしまったが、二軒隣の501号室に住んでいる中須家の一人娘だったと記憶している。


「だったら早く話を進展させてください。私、困ってるんですから」


 困っているのは明らかにこちらも同じなのだが、彼女は私の困惑は意にも介さず、私の部屋の玄関ドアを見遣みやり、子供らしい小さな手の人差し指を伸ばし、行動先を差し示す。


「中、入れてもらっていいですか?」


 臆面もなく、恥じらいもなく、そして、ひと欠片のてらいもなく、彼女はそう言った。


「えっと……ごめん、これから出勤しなくちゃいけないんだよね。話はまた夜にでも――」

「私も学校に行かなければいけないんです。それでも相談しなければいけないことがあるからこうして頼んでいるんですけど」


 実にふてぶてしい態度で、無表情のまま「さっさと決断しろ」と言わんばかりに私を見上げている。


「……俺じゃなきゃ駄目なのかな? その、人殺し? に関しての相談って」

「はぁ……他の人でもいいなら、とっくに他の人のところに行ってます。松岡さん、察しが悪いって言われません?」


 心底呆れたような口振りで、溜め息交じりに私を罵倒する。

 それでもほとんど表情を変えないのはある意味凄いと思った。


「……じゃあ、五分くらいなら」

「五分で納得させられる自信があるんですか? 相当相談慣れしているんですね。カウンセラーの資格でも持ってるんですか?」


「いや、ごめん。ほんとに時間がないから、次から次へと飛び込んでくる悪口あっこうに付き合ってはいられないんだよ。話があるなら聞くから、今ここで――」


「おはようございます~」


 背後から挨拶をされ、反射的に、必要以上に勢いよく振り向いてしまった。

 別段、やましいことがあるわけではないが、朝から女子校生と不穏な空気を醸しながら口論している様を見られては、ご近所で噂になり兼ねないのだ、焦ってしまうのも無理からぬことである。


「あ、お、おはようございます」

「あら、香奈かなちゃんもいたの、おはよう」

「……おはようございます」


 私の影に隠れて後ろからでは見えなかったのか、すれ違いざまに中須香奈かなにも挨拶をして、お隣さん――菱崎けんびしさんの奥さんは、鼻歌まじりに階段を軽快に降りていく。

 そうか、フルネームは中須香奈だった。


「――ここだと色々目立つと思いますけど?」


 それでもここで話しますか? と、どこか挑発的に問う中須香奈に、若干の苛立ちを覚えなくもなかったが、ここでこれ以上問答していも仕方ないと、腕時計をチラリと見遣り、最悪、後十分程度であれば出るのが遅れても間に合いそうだと計算し、「――わかった。じゃあ入って」と、玄関の鍵を開ける。


「お邪魔します」


 家主である私よりも先に入室する図々しさは子供故なのか、まぁ、いちいち腹を立てる程のことではないが、今時の子の常識力にはいささか驚かされる。


「時間がないからおもてなしはできないけど……で、話っていうのは」

「せめて座らせてもらえませんか? 立ち話では落ち着きません」

「……どうぞ」


 室内奥へと通す。私は現在一人で暮らしているのだけれど、恐らく中須家と同様である2LDKの間取りでは広過ぎると感じるくらいに物が少ない。――いや、501号室は確か二部屋分のスペースがあるはず。ファミリーサイズというか、少なくともうちよりは確実に広いはずだ。


 八畳のリビングには、壁際のテレビと、それを置く台、そして小さなテーブルと、座椅子。あとは一メートル程の高さしかない棚がひとつあるだけで、その上に小物が多少置かれているだけだ。


 座布団を用意しようとする前に、彼女はなんの躊躇ためらいもなく座椅子に腰かけ、キョロキョロ室内を見回した後、ふぅ、と、溜め息を吐く。


「……で、話って?」


 テーブルの反対側に、向かい合う形で座ることにした私がそう切り出すと、彼女は無言のまま俯き、視線をテーブルの角に落としたまま固まってしまう。


「……おーい。大丈夫? あんまり時間がないから――」

「時間時間って。社会人様は他人の命よりも自分の時間の方が大事なんですか? さぞかし立派な信条を持って世の中に貢献しているんでしょうね」

「いや、君のその皮肉だかなんだか分からない批難に反論する気もないし、正直、俺を嫌いでもなんでも構わないんだ。ただ、話があるっていうからこうして時間を作ってるんだよ。言いたくなければ言わなくてもいいよ。俺は仕事に行くから」


 気持ち早口でそうまくし立て、膝に手を置き立ち上がろうとすると、「あっ……」と、小さな声で動揺を吐き出す中須香奈。


「……どうする? あと――三分くらいしかないけど」

「……………………」


 長い沈黙。この間だけで三十秒は経っていた気もするけれど、彼女がなにかに思い悩んでいるのは嘘ではないんだろうなと、この時確信した。


 下唇を噛み締め、思い詰めたように両手をギュッと握り締める中須香奈は、ゆっくりと顔を上げ「私、人を殺しました」と、第一声と同じ文言を口にした。

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