第34話
文化祭でピアノを演奏すること事になった翌日、僕と彼女は音楽の先生から音楽室の鍵を借りて放課後にピアノの練習をしていた。
案の定彼女が決めた演奏曲は難易度が高すぎて、練習以前の問題だった。
まずは指の練習に以前に片手で弾いたきらきら星を両手で弾けるようにするのが今週の課題だ。
左右どちらも片手では詰まらずに弾けるようになったけどそれを左右同時に弾くとなると話が違ってくる。
同じように両手を使うパソコンのタイピングとは勝手が違って両手が別々の動きをする事に脳が混乱して片手ずつだと上手く出来る事も両手ですると自分では思ってもいなかった動きをする。
結局、放課後まで両手奏の練習だけで終わってしまった。
週末になると朝から彼女の家へと向かう。
週末になると学校の音楽室が使えず他に練習場所がないのだ。
一応岡山駅の地下には所謂街角ピアノかあるけど、あんな人の往来の多い場所で練習する度胸は僕には無かった。
記憶を頼りに彼女の家に辿り着くと、緊張しながらインターホンを押した。
平日にお邪魔する事はあっても休日にお邪魔するのは初めてでインターホンが鳴って応答するまでの数秒でも彼女以外の家族が出てきたらどうしようと不安になる。
どっちにしても家にお邪魔した時点で挨拶は必要になるけど、それとこれとは話が別だ。
幸いな事にすぐに彼女が出て来てくれて気まずい思いはせずに済んだ。
一度リビングへ行って彼女の母親に挨拶をする。
彼女の母親は見た目的には白人系で夏織さんをそのまま大人にして普段の気の強い感じを無くしたらこんな感じになるだろうといった感じだ。
彼女の苗字は姫柊なのでお父さんの方が日本人なのかと思いつつ会話もそこそこに彼女の部屋へと上がる。
学校でやった通りに両手奏できらきら星を練習するが、両手で別々に演奏すると指が上手く動かず似たような所で躓く。
それを何度か繰り返していると控えめに部屋の扉がノックされた。
ドアを開けると予想通りリビングにいた筈の夏織さんがドアの前に仁王立ちしている。
「朝から来たと思ったらピアノなんて弾いて、きらきら星ってお遊戯会の練習ですか?」
休日の朝から来たのが気に入らないのか、それとも下手くそなきらきら星を聞いてイライラしているのか普段より数段不機嫌な声で珍しく皮肉ってくる。
それに申し訳なく思いつつ苦笑しながら返す。
「当たらずも遠からずかな。やるのは文化祭だけど」
「きらきら星って小学生の低学年が演奏する曲ですよ。それを文化祭で披露するのは辞めた方がいいと思います」
僕の答えを聞いた夏織さんは不機嫌な態度から一転して今度は気の毒そうな、若干の同情を含んだ声で諭すように言ってくる。
そこに夏織さんの姉である彼女が自信満々に答える。
「大丈夫。本番では回想ソナタと眠りの森の美女のワルツをやるから」
それを聞いた夏織さんは唖然とした表情で驚いている。
さっきから不機嫌になったり気の毒そうにしたり、驚いたりと表情の変化が忙しそうだ。
「冗談でしょ? 眠りの森の美女のワルツは中学生程度の曲だけど、回想ソナタは音大でやるような曲だよ」
夏織さんの言葉を聞いて僕も夏織さんと同じ気持ちだった。
両方とも難しそうだとは思っていたけど眠りの森の美女のワルツは中学生程度の曲で回想ソナタに関しては音大レベルでやる曲だと聞いて素人の僕もやっとどれだけ無茶な事をやろうとしているのかがわかった。
「それを学校の文化祭で素人がやるって完全に公開処刑になるし、恥をかく前に辞めた方がいいよ」
姉に非難するように言う夏織さんを内心で応援しながら僕はそのまま成り行きを見守る。
「曲の難易度に関しては目安でしょう? もっと小さい子どもでも弾ける人はいるし。それにせっかくなら難しい事にチャレンジしないと成長しないままだよ」
「それでも限度があるでしょ。お姉ちゃんは回想ソナタを中学生の頃には弾いていたけど、普通の人には無理だって」
「普通って何?」
そう問いかける彼女の声は今まで聞いた事がないくらい硬い声だった。
「それは…」
普通とは何かそう問われて夏織さんは何も言い返さない。
何を基準として普通とするのか、それはとても難しい。
「出来ないって決めつけるの? そう言って線引きしたらもうそれ以上何も出来ないでしょ」
彼女の考え方自体は素晴らしい事だと思う。
今までもその考え方を実践して色々な事に挑戦していたのだろう。
僕自身も彼女のそんな前向きな姿には自分もそうなりたいと憧れを抱いていた。
けれど僕は初めて見る彼女の姿に今までは見えなかった彼女の歪みを垣間見た気がした。
多分彼女には自分に出来る事は他人にも努力すれば出来ると思っているのだろう。
恐らく一定のレベルまではその考え方で正しい。
肉体的なハンデが無ければ適性が無くても大概の事は一定レベルまで習得する事が出来る。
ただそのレベルを超えて専門的なレベルになれば適切な指導や才能が必要になると僕は思っている。
この程度の事は料理を教えてくれた時の事を考えても彼女も当然理解しているだろう。
では何故今回はそんなに頑なになったのか。
事情を知っていそうな夏織さんは姉の蛮行を知るとこちらを気の毒そうな目で見た後に姉に責めるような視線を送ってからそのまま出て行ってしまった。
「ごめん。私も少し頭を冷やしてくるね」
そう言うと彼女も部屋を出て一階へ降りて行ってしまう。
そのまま重苦しい空気になってしまった部屋で黙って待っていると、少しして部屋をノックする音がした。
ドアを開けると夏織さんがキーボードを抱えていた。
「良ければ、古いですけど家での練習に使って下さい」
「良いの?」
「はい。本番までに学校とうちで練習するだけだと間に合いませんから」
「ありがとう」
僕の事を嫌っている割にはこういう所で元々の人の良さを感じてほっこりとしてしまう。
「それから両手奏を練習する時は、まずゆっくりでいいので、自分が出来る速度で弾いて段々と早く弾けるように繰り返し練習して下さい」
言われた通りに自分が混乱せずに動かせる速度でゆっくりながらも弾いてみると、ぎこちないながらもどうにか両手で弾く事が出来た。
その様子を確認した夏織さんは練習に付き合ってくれるようで部屋の椅子を持って来てピアノの横に座った。
「眠りの森の美女のワルツをまずは練習して下さい。本来は順番に難しい曲を課題にするのが一般的ですが時間が無いので、きらきら星を中断してこの曲を両手で弾けるように練習しましょう」
「まずは、私が一度お手本で弾いてみますからよく見ておいて下さい」
ここで聞いてと言わないあたり指の動きを見て感覚を掴んでおいて欲しいのだろう。
それこそ聞くだけならCD音源で事足りるし、聞いて学べる程の技術も知識も僕にはない。
「それと、素人が楽譜を見ながら弾くとどうしても指の速度が追いつかなくなるので最低限全部暗譜して弾けるようにして下さい」
「そんな無茶な流石に暗譜するのは難しいよ」
「そもそも楽譜が読めるんですか?」
「音楽の授業で習った程度なら」
中学程度でやる曲なら授業の範疇だと甘く見積もっていた僕に夏織さんは無情な事実を突きつける。
「中学程度でやる曲って言うのは、幼少からピアノを習った人間が中学生くらいで弾く曲ですよ。当然楽譜も学校の授業でやる曲より複雑で音楽記号も学校で習う範囲を超えてます」
「それを今から覚えたら暗譜しなくても平気じゃないの?」
「両手奏で弾きながら慣れない楽譜をスムーズに読めると思いますか?」
そう問われてしまえば出来ると言える自信は僕にはない。
「無理かな。楽譜を読もうとしたら手が止まると思う」
「だと思います。それなら愚直に練習して体で覚える方がまだ可能性があります」
「前途多難が過ぎる」
「そうですね。あんまり不安にさせるのも可哀想なので貴方の長所も教えてあげます」
「そんなのあるの?」
「その腕と指の長さならピアノの鍵盤が普通の人より届く範囲が広いので指の移動がかなり余裕あると思います」
そう言って夏織さんは自分の手を見せてくれる。
確かに性別や年齢を考慮しても夏織さんと比べると改めて自分の利点を認識する。
「今から弾いてみますから、指の移動とか見ていて下さい」
夏織さんはピアノの前に座ると慣れた動作でピアノを弾き始める。
正直、僕の耳では彼女のピアノとの違いはあまりよくわからない。
なので結局言われた通りに指の動きを確認する。
夏織さんは鍵盤の端から端まで縦横無尽に指を動かして弾いている。
ただ自分から遠い鍵盤になると指がギリギリ届くくらいで手首の動きも使って弾いている。
次の鍵盤の位置が反対側になると物凄い速さで戻らないといけず後半になるとかなり大変そうに見えた。
そうして一曲弾き終えた夏織さんは一息ついて聞いてくる。
「これで自分の利点がわかりましたか?」
「うん。夏織さんの言う通り僕の指の長さの可動域の広さは武器になる」
これなら僕の腕と指の長さや可動域の広さは大きな利点として経験の無さや技術不足を補う事が出来る。
勿論、技術的な未熟さを補えるだけでそれを活かす為には暗譜や最低限弾けるようになる為の努力が必要になる。
それでも挑戦出来るだけでそれはとても幸運な事だと知っている。
世の中には挑戦する事も出来ずに諦めないといけない人間が沢山いる。
それに比べたら物事の可否以前に挑戦する権利を得られるだけで僕には望外の幸運と思える。
僕から色々な望みを諦めさせた忌み嫌っている病気のお陰で挑戦する権利を得られているのだ。
それはなんとも皮肉な話だった。
僕がもしも健康な普通のどこにでもいる人間だったなら普通に一カ月努力した所で可能性なんてものはない。
それは夏織さんが実際に弾いて実演してくれて証明してくれた通りだ。
多分彼女がこの無理難題を僕に押し付けたのは夏織さんと同じ部分に目を付けていたからだ。
思えば夏休みの旅行の時に服を買った時にもスタイルが良いのに勿体無いと言ってくれていた。
だからこそ今回それを活かす機会を無理矢理にでも作ったのか、その答えは彼女以外は知り得ない。
それでも彼女が僕に何を期待していたのか少しだけわかった気がした。
彼女はきっと自分と同じ立場で同じように出来る人が欲しかったんだ。
彼女を特別だからと線を引かずにその場所まで辿り着ける人を自分と同じ立場で競える人を、それは図らずも僕が初めて病院で彼女に抱いた気持ちと少し似ていた。
それは夏織さんにも出来ない事で僕だけが彼女に可能性を示す事が出来る。
十数年ピアノを弾き続けている人間に一カ月程度で越えられるとも並べるとも思っていない。
そんな風に思っては彼女にもピアノにも失礼だ。
それでも不可能ではないと示すだけなら僕にも出来る事だ。
その為の手段なら僕にもある。
改めて自分の手を見る。
人より長い腕から伸びる手はサイズは人並みながらもアンバランスなくらい長い指と人より可動域の広い関節それも全て難病で得た才能だ。
これらを総動員すれば不可能にも届く気がした。
闘病から共病に自分の中で本当の意味で病気を受け入れる。
もしこの病気に意味が生まれるとしたら彼女に独りにしない為に神様から貰ったギフトだ。
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