第8話 深愛
「ユリアは、ランゼルのことを恨んでいるかい?」
その問いの答えは用意してあった。
それをカゼル様に伝えることに、躊躇いがなかったと言ったら嘘になる。けれど、正直に答えるべきだと思って、素直な思いを口にした。
「ずっと…恨む気持ちが消えないんです」
うん、とカゼル様はただ柔らかく相槌を打って、それから同じトーンで問いを口にした。
「なら、出会わなければよかった?」
「それは…」
ランゼルに出会わなければ、どうなっていただろう。
少なくとも、騎士を目指すことは絶対になかった。そして騎士学校に行くこともなかったのなら、あんな思いをすることもきっとなかった————けれど。
「…分かりません」
僕の独白のような言葉を、カゼル様は優しい眼差しで聞いてくれた。
「許せないって、全部あいつのせいだって、そう思っているのに…あの日に戻れたとして、ランゼルに声を掛けないのかと言われると…そうも、言い切れなくて」
僕は、この生き方しか知らない。この未来しか知らない。
ランゼルの居ない人生は、今とは全く異なるものになるだろう。苦しいことも少なくて、もっと平穏な生活を送れていたかもしれない。けれどそれは、果たして今よりも幸せな人生だったのだろうか。
「家族と暮らして、自分のやりたいことを見つけて、友人と遊んで…そういうことを、人はきっと幸せと呼ぶのだと思います」
でもこれは一般論的な話で、僕にとってはあまりに馴染みのない常識だった。
その常識が分からないこと自体が、もしかしたら不幸なのかもしれない。でも、分からないものはもうどうしようもないから。
「何が一番幸せに生きられる道なのか分からないので、僕は、もう…」
言葉が途切れると、カゼル様は、意地悪な質問をしてごめんね、と眉を下げて笑った。
「結局、自分の在り方によって幸せも形を変える。だから、もしもの話をしてもそこに答えは無いんだろうね」
まるで、子供に物語を読み聞かせるような優しい声色。
「選ばなかった、あるいは選べなかった方の道がどうだったかなんて、誰にも分からないのだから。でも、そうやって考えることで、確信を得られることもあるかもしれないと思ったんだ」
「確信を…」
時を戻せたとしても、同じ道を選んでしまうかもしれないというこの答えは、一体何の確信に繋がるのだろう。
「仮定の話はさておき————ユリアは今、幸せだと思う?」
じっと瞳を覗き込まれる。
幸せと聞いて浮かぶのは、この間のことだった。
「…一昨日の誕生日、とても楽しかったんです」
思い返すだけで、胸が温かくなる。
「ランゼルから花をもらって…少しでも長く咲いていてくれたらいいなと思って」
この気持ちが、幸せというものなのかもしれないと思った。
ランゼルが選んでくれた花を見ているだけで頬が緩む。あの日の思い出をずっと心に留めておきたいと願ってしまう。
それは、ランゼルの気持ちが嬉しかったからだ。あんなふうに、自分を想って————自分を愛してくれる人が居る僕は、間違いなく幸せ者だとそう確信を持って言えた。
「僕は幸せです、きっと」
カゼル様のエメラルド色の瞳が柔らかく細められる。こうして見ると、その目元はランゼルとよく似ていた。
「その花、プリザーブドフラワーにするのはどうかな? お願いすれば、花屋に送る手続きをしてもらえると思うよ」
「!」
あのまま残しておけるのならそうしたい。
幸せだと言い切れたこの思い出を胸に飾っておけたら、いつかはランゼルのことを許せる日も来るかもしれないから————。
そこまで考えて、はっとした。
「ユリアがそんなに喜んでくれたと知ったら、ランゼルもとても喜ぶだろうね」
「…そう、ですね」
ああ、そうか。
僕は、ランゼルのことを許したいんだ。
許して、差し伸べてくれるその手を取って、心置きなくその優しくて甘い愛情を受け取りたい。
あとは、僕次第だ。僕が、過去の恨みを捨てることさえ出来れば————。
「ユリア!!」
バン、と勢いよく訓練場のドアが開いた。驚いて振り返ると、そこにはなぜか息を切らしたランゼルが立っていて。
「話がしたいんだ」
「え…今?」
大股で歩いて来ると、そのまま僕の手を掴む。
「うん、今」
まるで拒否権などない。ここまで強引なのも珍しい。
「シャワー浴びて、部屋に帰ってからじゃダメなの」
「ごめん、でも、今がいいんだ」
強張った顔と、その必死な様子に、ただならぬものを感じた。何か理由があるのなら、仕方がない。
分かった、と頷くと、ランゼルはようやく少しだけ表情を緩ませた。
連れて来られたのは中庭だった。もう夜なので人気は無く、足元灯しかないから辺りも暗い。
手が解ける。ランゼルは背を向けたまま動かない。
「なに、話って」
尋ねると、ようやくランゼルはこっちを向いた。
その目は、とても真剣で。僅かに緊張が走った時だった。
「ユリアのことが好き」
シンプルな言葉が、胸の中心を貫く。
「っ…」
紅い瞳は、一つの揺らぎもなく僕を見ていた。
「特別で居たいし、大切にしたいし、幸せにしたい」
あまりに真っ直ぐな、飾り気のない言葉。胸がぎゅっと苦しくなって、自分の顔が歪んだのが分かった。
ランゼルはそんな僕を見て、それでも愛おしげに微笑んで。
「愛してるんだ、ずっと」
目の前の景色が、きらきらと光る。
心が弾んで、身体は熱を帯びて、心地良い息苦しさに見舞われて。
この気持ちを受け取れたら、きっと幸せになれる。
恨みなんて捨ててしまえと囁く自分の声。彼の日の泣き声が、どんどん遠ざかって————。
「…その上で、ちゃんと伝えておきたいことがあるんだ」
ランゼルの纏う雰囲気が、変わった。
その顔から笑みは消え、辛そうに眉を寄せる。そこに浮かんだ感情が何なのか、すぐには分からなかった。
「ずっと謝らなきゃって思ってて、でも謝られるのも嫌だろうなって勝手に思って…言えなかった」
どくん、と心臓が嫌な音を立てる。
聞きたくない、と反射的に思った。でも耳を塞ぐ方法はなくて、ただその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
ランゼルは、一つ息を吐いて————そして、恐れていたことを口にする。
「ごめん、ユリア」
謝罪の言葉に、胸が不穏に騒ついた。
「ユリアと話もせず勝手に花騎士に指名して…結果、あんな辛い道を歩ませることになって、本当にごめん」
「————っ」
捨てようとした記憶は、一瞬にして鮮やかに蘇った。
苦しくて、寂しくて、一人泣きながら過ごした幾つもの夜。全部投げ出して逃げてしまいたいと何度も思って、その度に震える心に鞭を打って、重い身体を無理やり動かして学校へ向かった。食事が喉を通らなくても、眠れなくても、誰かに傷つけられても、毎日、毎日、花騎士になるという未来のために必死に前に進んだ。
泥沼を掻き分けて進むような、重苦しい人生の記憶。思い出すだけで、負の感情に支配されるほどの力を持った過去。
あの仕打ちを、どうして忘れられるなどと思ったのだろう。
「ちゃんと謝らせてほしい。本当にごめん、ユリア」
ランゼルは、深く頭を下げた。
「っ…」
謝るな。
謝られたって、僕は。
「…許せないから、謝らなくていい」
低い声が漏れた。
「え…」
ランゼルは顔を上げる。そこには、純粋なショックが浮かんでいた。
その表情にも怒りが募る。謝れば許されるとでも思っていたのか。いつか全部水に流してもらえるとでも思っていたのか。
僕の八年間の苦しみは、そんな程度のものじゃない。
きっと、お前には、一生分からない。
「…そう、だよね」
まるで自分も傷ついているみたいに痛々しく笑う顔が、今はどうしても憎くて。
ずっと胸の中で燻って、こびりついて離れなかった激情が、爆ぜた。
「許せる日なんて来るわけないだろ…っ!」
そうだ、許せるわけがない。
許せるわけ、なかったんだ。
「苦しめられた過去は変わらない、傷つけられた記憶も消えない、僕がお前に奪われたものは二度と帰っては来ない!!」
腹の中で長い時間煮えて真っ黒になった感情を吐き出す。歯止めは効かなかった。
「恨んでるよ、あの日から、ずっと」
心に灯った烈火が消えたことはなかった。
消せるものなら、消したかった。
だって、その方が楽に生きられるから。過去の痛みを忘れてしまえたら、もう辛い思いをする必要もない。終わったことだと割り切れるなら、僕だってそうしたかった。
でも、ずっと出来なかったんだ。
それが、僕の答えだ。
「許せないんだよ…お前のこと」
苦しくて、胸元をぎゅっと掴んだ。
この苦しさの原因が、ようやく分かった。
許せないのに、許したいと思ってしまうから苦しいんだ。
ランゼルは、僕の方へ手を差し出そうとして、けれど躊躇いに阻まれて動きを止めた。その瞳には、僕を案ずる色だけがあって。
涙が溢れた。ストッパーの壊れた心は、感情をそのまま全て言葉にしてしまう。
「でも僕は…お前に愛されない人生を知らない。だから、それがなくなったらと思うと…とても、怖くて」
ただランゼルを憎いと思うだけならばよかったのに。
大切にされる度に、愛情を感じる度に、それが僕の幸福だと思ってしまうから。
「もうずっと、ぐちゃぐちゃなんだ…」
お前がいなければ。
お前がいたから。
どちらも同じくらいの思いがあって。
相反するそれらのどちらかを選ばなければならないのに、それが出来ないから、ずっと、ずっと苦しい。
「…っ…」
崩れ落ちてしまいそうな身体を抱き締めるように、強く自分の両腕を掴んだ。
地面に視線を落としてどうにかそこに立っていると、静かな声で問いかけられた。
「ユリアは…俺に愛されると幸せ?」
幸せだ。
それが、辛い。
「…」
顔を上げないまま、ただ、頷きを返した。
俯いた視界に、ランゼルの足が入ってくる。そのまま触れられるくらいの距離まで来ると、強張った僕の手に、手がそっと重ねられた。
「なら恨んだままでいい、許さなくていい。全部そのまま…今のユリアのまま、愛させて」
優しい囁き。でも、何を言っているのか分からない。
「意味、分かんない…」
だって今のままじゃ、ランゼルの気持ちは受け取れない。
そう言いたいけれど、エネルギーを使い切った心ではそれを言葉にするのすら億劫で何も言えなかった。
「ユリアの中にある傷も、苦しみも、なかったことにしちゃダメなものだと思うから」
ランゼルの手が、背中に置かれた。そして疲れてしまった僕を慰めるように、とんとんと優しく撫でてくれる。
「何も捨てなくていい。捨てないままで、俺の愛も受け取って」
「そんなこと…できるの」
「できるよ」
ゆっくりと抱き締められる。
「感情なんて、意図して生まれるものじゃないんだから。どうしてそんなことを思うのか、理由が説明出来なくたって、その感情を否定する必要はきっとない」
だから、俺を恨む理由に悩む必要だってないよ、とランゼルは穏やかな声で言った。
「ユリアの気持ちは、全部ユリアにとって必要なものだと俺は思うから」
ランゼルの腕に力がこもって、身体がきゅっと密着した。
「だから…ユリアが望んでくれるのなら、そのまま愛させてよ」
耳元に響く、甘くて優しい声。
「…」
息を吸うと、いつもの花の匂いがした。
ぬくい体温が心地良くて、目を閉じる。
安心する。ランゼルからの愛を感じると、とても安心する。
「このままで、いいの」
「いいよ。そのままのユリアでいて」
何も捨てなくていい、か。
ランゼルへの負の感情も、無理に消さなくていいんだ。
これから先、どれだけ花騎士として素晴らしい人生を歩むことが出来たって、あの頃のことが良い思い出として昇華されることはないだろう。苦しかったという記憶は、形を変えずそこに在り続ける。それでも、あれは確かに僕の軌跡で、今の僕を作り上げたものの一つだから。
「…ユリア」
「なに」
「好き」
短い言葉に込められた強い感情に、ほうっと息が漏れた。
「愛してる」
頭に、優しくキスを落とされる。
「…うん」
ずっとこの腕の中に居たい。この安心感を肯定していいんだ。愛されることを、嬉しいと思っていいんだ。
抱擁が解かれる。少しだけ高いところにあるランゼルの顔を見上げた。
紅い瞳が糸のように細められる。この目が、本当は好きだった。僕のことが、愛おしくて仕方がないって目が。
頬をなぞる手に瞼を閉じると、唇が重なった。
「ん…」
甘やかすように、何度も触れるだけのキスをされる。それだけなのに、次第に身体が熱くなってきて、頭もぼうっとして。
舌先で唇をつつかれたので口を開くと、ぬるりと舌が差し込まれて、その慣れない感触に背筋が震えた。
くすぐったい。あと、ちょっと生々しくて恥ずかしい。でも気持ち良くて、このままこのぬるま湯に浸かっていたいと思っていたのに————不意に、身体を剥がされた。
「っ、ユリア…」
熱っぽく囁かれた自分の名前に、思わず息を呑んだ。
見たことない顔。熱と、焦りと、あと。
「部屋、帰ろ」
僕の手を少し雑に掴むと、ランゼルはふいっと顔を背けてそのまま歩き出す。
どうしよう。
部屋に帰って、それから、もしかしたら。
ずんずん進んでいくランゼルの背中を見つめる。どうしよう。頭が、熱のせいで上手く働かない。
ランゼルの部屋にたどり着く。手は解かれないまま、二人で部屋に入って。
「っ」
ドアに押し付けられるようにして、また唇を塞がれた。
切羽詰まったような、荒々しいキス。魔力を移譲された時と同じ、無遠慮で少し乱暴なキスだけれど、あの時よりもずっと感情が伝わってくる。
本当に、そういう意味で好きなんだな、と他人事のように思った。
友人の域なんてとうに通り越している。知らなかったわけじゃないけれど、実際こうして深く求められると、少しだけ不思議な気持ちになった。
そして、それを全然嫌だと思わない自分も不思議だった。愛されていると感じられることが幸せで、それ以外になかった。
「ん、っ…」
口の中を舐める舌が熱い。唾液が甘く染みる。また、だんだんと頭がぼんやりしてきて————。
服の中に、手が差し込まれた。
「ま、まって」
慌ててランゼルの胸に手をついて顔を背け、唇を離す。後ろはドアだから距離は空かない。
「シャワー、浴び、たい…」
訓練場からそのまま来てしまったので、汗もかいていた。だから先に身体を綺麗にしたいと、思ったのだけれど。
「…それって」
するりと髪を撫でる手。
「この先も、いいってこと?」
「え…」
顔を上げる。
欲を孕んだ瞳に、どくんと心臓が音を立てた。
身体が熱い。思考もあまり上手く回らなくて、でも。
「…うん」
それをランゼルが求めてくれるのなら、断る理由はないと、思ってしまった。
「じゃあ、ここで待ってるから」
囁き声。ようやく熱が離れていく。もうランゼルの顔も見れなくて、僕は半ば逃げるように自分の部屋に入った。
洗面所に直行し、服を脱いで、シャワールームに入って、体を洗う。
「…」
どうしよう。
この先って、そういうことだ。
知識としては持っているけれど、もちろん経験なんてない。
「どう、しよう…」
シャワーヘッドをぎゅっと握る。
本当に、するんだろうか。
恥じらいはあるけれど、嫌じゃない。でもあまりに早急で、現実味がないのも事実で————。
いや、距離を置いたし、少し時間も空いてしまったから、今頃ランゼルの熱も冷めているかもしれない。あの場の雰囲気ももう霧散している。もしかしたら、いつも通りに戻っているかも。
泡を流し、シャワールームを出て身体を拭く。これからドライヤーで髪を乾かして、それからようやくランゼルの部屋に行くのだと思うと、やはりさっきのような熱はもう落ち着いているように思えた。
「…ふぅ」
息を吐いて、ドライヤーの電源を切る。
鏡の中に映る自分は、何とも言えない顔をしていた。
どことなくだらしない気がしてちょっと嫌だ。頬が緩んでいるのだろうか。自分の頬をつまみながら、鏡を睨む。
「…でも、仕方ないかな…」
ずっと苦しかった気持ちから解放された。
ランゼルのことを許さなくていい。
その上で、ランゼルの愛を受け取ってもいい。
息をするのが、とても楽になった。これも全部、ランゼルのおかげだ。
「ありがとうって、言わないと…」
ぼやいて、鏡を振り切った。
隣の部屋に戻る。ランゼルもシャワーを浴びたようで、長い黒髪は下ろされていた。
「ユリア」
ベッドに腰掛けていたランゼルが僕の方を振り返る。
そして、両手を広げて。
「おいで」
「っ…」
その目で分かってしまう。熱は少しも冷めていないのだと。
再び、心臓が早鐘を打つ。緊張が走った。自分でも、歩み寄る足取りがぎこちないのが分かる。
「ふふ」
ランゼルは小さく笑って僕の手を絡め取ると、そのままゆっくり自分の方へ引いて、背中からベッドに倒れた。
「!」
ランゼルに覆い被さり、見下ろす形になる。
にこにこと笑う顔はいつも通り優しいのに、何かが違う。目の色、だろうか。見つめられるだけでじわじわと身体が熱くなって落ち着かない。
腰を抱かれる。寝返りを打つようにひっくり返されて、今度はランゼルに見下ろされた。
そのまま優しく唇を塞がれ、服の上から腰のあたりを撫でられる。この先のことを意識させられる触れ方に、身体が強張った。
僕は、本当にこのまま————。
「今日は、やめとく?」
柔らかな問い掛け。僕の顔を覗き込んで微笑んだランゼルのその表情は、どこまでも優しい。
「…」
正直、不安はある。
どうすればいいのか分からないことばかりだし、戸惑いもまだある。
「ユリアが嫌ならしない」
髪を撫でる手。
「でも…許してくれたら嬉しい」
嬉しい、か。
ここで断ったら、きっと逃がしてくれる。そうだよね、ごめんね————そんなことを言いながら、熱も欲も仕舞い込んで、いつも通りを装う姿は、想像に容易かった。
それは、なんだか惜しい。
だってこれは、ランゼルが自分だけに向けてくれる熱だ。それを受け取れることは、僕にとっても、嬉しいことだから。
「…いいよ」
これから何が起こるのか、どうなってしまうのか、予想もつかないから、不安は拭えないけれど。でも、相手はランゼルだから、そんなに臆する必要もない。
ありがとう、と小さく囁く声。安堵と、喜びと、興奮の入り混じったその声色が愛おしくて、了承して正解だったともう思えた。
ランゼルの手が、シャツのボタンを外していく。
「…」
これは、されるがままでいいのだろうか。それとも自分でやるべき? こういう時、どうするのが正解なのだろう。
「ユリアって、自分で慰めたりするの?」
不意の問いに、意識を戻される。
「……最低限は」
パフォーマンスに影響が出ないように、というだけだった。だから、そういう感覚とかも、正直あまり分からなくて————。
と、そこまで考えてはたと思い出す。
「ランゼル」
「ん?」
「薬のせいで、その…感度も、鈍ってて」
痛覚を抑える薬には、性感を鈍らせる効果もあった。だから自慰というのは僕にとって、気持ちよさとは程遠い、面倒な作業でしかなかったのだ。
ランゼルは、そっか、とだけ言った。そして、首元に顔を埋めると、そこにちゅっと音を立ててキスをする。
「っ…」
「頑張るけど、気持ちよくなかったら教えて」
吐息が、首の薄い皮膚を撫でる。身体がむずむずして落ち着かない。
「いい、別に、気持ちよくなくて」
「俺がやだよ」
ランゼルは僕を見下ろす体勢に戻り、優しく微笑んだ。
その気持ちは嬉しいけれど、そんな簡単には上手くいかない気がする。それに、そんなことを気にしていたら、きっとランゼルの好きなようには出来ない。
僕はただ、ランゼルが求めてくれるものを差し出したいだけで、愛されたいだけで————だから、快楽が伴わなくても、何なら苦しいだけでも、痛みが伴っても、別によかった。
言うか言わないか迷ったけれど、これからすることを考えれば伝えておいた方がいいだろうと思い、意を決して言葉にする。
「…愛してほしいだけ、だから…本当に気にしなくていい」
小さく、ランゼルが息を飲んだ。とんでもないことを言った自覚はあるので、少し気まずくて視線を逸らす。
ランゼルは細く長く息を吐き出して、それからぎこちない笑みを浮かべた。
「なんか今日、たくさんお喋りしてくれるね、ユリア」
「…なにそれ」
お喋りって。子供に言うみたいな言い方で気に入らない。
ランゼルは、まぁまぁ、と今度はあやすような口調で言って、僕の頭を撫でた。
「でも、そんな心配することないと思う」
「?」
性感の話だろうか。ランゼルは口を閉ざしたので、わざわざ聞くこともないかと思って、追及はしなかった。
そこからは、非現実的な時間が過ぎていった。
キスをしたり、身体を撫でられたりしているうちに、気付けば服を脱がされていて、あっという間にあられもない姿にされて。性器に触れられた時は、恥ずかしくてどうしようかと思った。ちゃんと反応してる、なんて要らないことを言うランゼルを力なく叩くと、くすくすと笑われた。そのまま一度精を吐き出して、久々の倦怠感にぼうっとしていたら、他人になんか絶対触らせないであろう場所に、指が伸ばされた。
身体の中に触れられるという未知の感覚。正直に言うと少しだけ気持ち悪くて、でも結局は甘やかす指に絆されてしまった。
傷つけたくないから、と言って、ランゼルはなかなかそこから先に進まなかった。行為に至るために事前準備が必要なのは分かっているけれど、どうしても恥じらいに耐えきれず、何度も制止の声も上げた。
その度に甘く宥められて、いっぱいの愛情で包み込まれる。キスも、甘ったるい言葉も、この時ばかりは全部安心に繋がった。
思考はだんだんと溶けていって、まるで夢みたいだと思うのに、感覚はあまりに生々しい。チグハグで、なんだか不思議で————そんな時間を過ごして、どれくらい経っただろうか。ようやく指が引き抜かれ、代わりに熱いものが当てられた。
「力抜いて」
「ん…」
息を吐いて、身体の力を抜く。
それが、ぐっと押し付けられた。割り開かれる感覚を予想して、その時を待ったのだけれど。
「力、抜ける?」
「え…?」
抜いているつもりだった。これ以上は、どうしたらいいか分からない。
戸惑っていると、ランゼルが小さな声で呟いた。
「もう少し解した方がいいかな…」
「っ」
恐ろしい言葉に、反射的に首を振る。
「も、やだ…むりやりでいいから、いれて…っ」
指で触られるのが嫌なわけではないけれど、もう色々と限界だった。恥ずかしいし、ずっとおなかの中に溜まった熱がぐるぐるしている。この先へ進めば解放されるものなのかは分からないけれど、少なくともこのままここで停滞するのは苦しい。
「ううん…と…」
僕の我儘に、ランゼルは困った顔をした。眉をぎゅっと寄せて、辛そうにすら見える顔で、しばらく黙り込んで。
「…じゃあ、ちょっと手伝わせて」
そう言って、僕の額に一つキスをした。
手伝うとはどういうことだろう。ぼんやりランゼルを見上げていると、その手が、右腕に————刻印の上に、そっと置かれた。
「ひぁっ…」
びくりと身体が勝手に跳ねる。
身体に熱が巡って、これまでとは違う息苦しさに見舞われた。
「ユリア」
は、と熱い吐息が漏れる。
全ての神経が、刻印に触れる手のひらに集まっているようだった。
紅い瞳から目が離せない。自分が今、完全に主人の支配下にあるのが分かる。
「力、抜いて」
囁かれた瞬間、全身から力が抜けた。
「っ————」
ベッドに沈む身体。指の一本にも力が入らない。
ランゼルはそんな僕を見てくすりと笑い、頭を撫でた。
痛かったら教えてね、そう言って、ようやくそれが、少しずつ中に入ってくる。
身体の中が広げられる感覚。圧迫感がすごくて、息が詰まる。
「っは…痛く、ない?」
当たり前だけれど、これは命に関わる痛みではないのだろう。ただ強い違和感があるだけで、痛みは全くなかった。
頷きたいけれど、身体に力が入らなくて首も動かせない。ランゼルもそれに気付いたのか、探るように僕の表情をじっと見つめて、痛みはないと分かってくれた。
そして、ついに。
「はいった…」
ランゼルは深く息を吐き出す。
「大丈夫?」
「ん…平気」
手が重ねられ、絡められる。いつの間にか力が入るようになっていて、僕もその手をぎゅっと握った。
ゆっくり、腰が動く。押して、引いて、身体の奥に火を灯されるような、そんな感覚が続く。
「…は、…っん」
口から勝手に吐息が漏れた。
強く揺さぶられると、吐き出す息に勝手に喘ぎ声が混ざってしまう。恥じらいがないと言うと嘘になるけれど、声を上げるとランゼルが甘く笑ってくれるのが嬉しかった。
「かわいい、ユリア」
何度もランゼルはそう繰り返した。今の自分の有様なんて考えたくもないけれど、可愛いという表現とはかけ離れている状態なのは分かる。でも、今発せられるその言葉は、愛おしいにとても近いんだって、ランゼルの顔や声で分かったから、嫌な気はしなかった。
「————ッ、あ」
何かが、迫り上がってくる。声が出なくなって、おなかの奥がきゅっと切なく疼いて————耐えきれず、また精を吐き出した。
ぶるりと身体が震える。
こんな、だったっけ。瞬きをすれば、涙がつうっと流れて視界がクリアになった。
「はぁ…ほんとかわいいね、ユリア」
ランゼルは熱っぽく囁くと、唇を塞いだ。唾液を交換し合うような深いキスに、境界線が曖昧になって、思考もどんどん溶けていく。
呼吸も落ち着かないうちに再び抽挿が始まって、待って、と反射的に声を上げようとしたのだけれど、まだ固さを保ったままのそれに気付いてやめた。ランゼルが気持ちよくなれるようにしてほしい。僕を愛して欲を満たす様が、見たかった。
緩やかな刺激が続く。達したせいか、僕の頭はふわふわしたままで、与えられる刺激にただ小さく声を上げることしか出来なかった。
「きもちいい?」
問いかけたランゼルの顔を、ぼうっと見つめる。
分からないな。
変な声がずっと出ているし、出すものも出しているから、たぶん、気持ちいいんだろうけれど。
でも、気持ちいいと言うよりは。
「あんしん、する…」
その首に腕を巻きつけて、自分の方へ引き寄せた。ぴたりと密着する素肌。その体温が、香る花の匂いが、心地良い。
全身を愛に浸されているような感覚だった。息苦しいほどに、溺れそうなほどに愛を注がれて、それがとても安心する。
「…ふは、そっか」
細められた瞳からも、胸焼けしそうなほど甘い愛情を感じた。
好きだよ、と囁く声。もっとと求めるように、奥へ押し付けられる熱。身体の奥が疼いて、息苦しさに吐息が漏れる。
幸せかもしれないと、とそんなことを思いながら、その唇に唇を重ねた。
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