沼の中

惣山沙樹

01

 兄の龍一りゅういちは神童と呼ばれていたらしい。幼児の頃には四則計算ができたという。だが中学に入って落ちぶれて「普通の子供」になり、イジメまで受けて結果中卒。それが俺が知っている兄の事情だ。

 ついでに言うと、俺は兄の代わりに期待を託された二人目であろうことは、誰に聞いたわけでもないが把握していた。俺と兄は十四歳離れている。兄に見切りをつけて次に行こうとしたことくらい想像がつく。母にとっては高齢出産になったわけで、産後の肥立ちとやらが悪かったらしく大量に出血して死んだらしい。

 そうして父が取った行動は兄を家政婦にすること。俺は兄が作った料理を食べさせられたし保育園の送り迎えをしてもらっていたし制服のアイロンまでかけてもらっていた。


「ほら、琥珀こはく、お弁当。忘れないで」


 兄の背は高い。百八十センチはあるだろう。俺は百七十センチそこそこだから見上げることになる。兄は長髪を一つに束ねて馬の尻尾みたいに背中に垂らしている。兄の泣きボクロを見る。右に一つ。俺も同じ位置にある。兄はタレ目で俺はツリ目、顔立ちの似ていない兄弟だからそのホクロが唯一の血の繋がりの証のようで気に入っている。


「ありがとう、兄さん」

「今日から授業なんでしょ。頑張って」

「うん」


 俺は湊高校というこの辺りの公立高校ではトップレベルの進学校に合格した。本当は兄と同じように中学受験をさせられたのだが落ちていた。父もそれで諦めてくれればいいのに、まだ俺が一流の大学に進めるとばかり思っているらしい。


「行ってきます」


 兄に玄関で手を振られて家を出た。駅まで歩いて十分。電車で十分。そこからさらに歩いて十分。つまりは着きたい時間の三十分前に出ればいいわけだ。電車の中では小遣いで買ったワイヤレスイヤホンでロックバンド「グレーキャット」の曲をシャッフル再生した。

 曲を聴きながら、考えていたのは兄のことだった。俺は兄がなることができなかった高校生になった。この先も、おそらくどこかの大学へは行けるだろうし、父の望むような官僚にもなれるかもしれない。兄との差はどんどん開いていく。兄はいつまでもあの家に縛られたまま老いていくのだろう。


 ――可哀相だな。


 俺は兄が好きだった。当然だ。仕事ばかりでろくに帰って来ず、顔を見せたと思ったら勉強しろの一点張りだった父とは違い、俺を守ってくれて慈しんでくれて甘やかしてくれた。あの長い髪も揃いの泣きボクロも何もかもが美しい。だからこそ可哀相になる。

 入学オリエンテーションの間に俺は二人のクラスメイトと仲良くなっていて、昼休みはそいつらと弁当を食べることになった。一人はギター、もう一人はベースができるらしく、他のクラスにボーカルとドラムがいて軽音部を作ったらしい。俺も楽器やりたいなんて言えばきっとそいつらは歓迎してくれるだろうが、父に部活は入らず勉強しろと言われているので我慢している。


「琥珀のお弁当、美味しそうだなぁ!」


 ベースの奴が言った。


「ああ……兄さんが作ってくれてるんだ。彩りとかこだわる方でさ」


 今日の弁当箱に入っていたのはハンバーグにソーセージに卵焼きにミニトマトにブロッコリー。俺の好きな物オンパレード。一口サイズのゼリーまで巾着袋の中に入っていた。兄の弁当を褒められることは兄を褒められることである。世間的に見れば兄は中卒の被扶養者にすぎないが俺にとっては兄以上の存在。嬉しくないはずがない。

 高校の授業は退屈だし一年生から早速通わされた塾も気に食わないが、兄の弁当はお守りになったし帰宅すればさらに楽しみがある。


「ただいま兄さん! 今日の夕飯何?」


 そう叫びながらリビングに入りキッチンに立っている兄に近寄る。


「おかえり琥珀。今日は豚の生姜焼きね」


 フライパンの中からいい香り。俺はこの出来立てを食べられる。父の分は取り分けておいて冷蔵庫に入れているということは知っている。どうせ今日も帰りは遅い、父と一緒に夕食をとったのなんて何年前だか思い出せない。

 兄のメシ。音楽。俺の息抜きはそれだけ。

 成績を上げなければならないので俺はとにかく勉強する高校生活を送っていた。

 そして四月が過ぎ五月の連休が終わり中間テスト。俺は総合で学年三位の成績を取ったが父にとってはまだ足りなかったらしい。あと二人抜かせだと。


 ――ふざけんなよ。これ以上どうしろっていうんだよ。


 六月になり早速雨に降られ、陰惨な気持ちで登校して午前の授業を受けていたらたちまち具合が悪くなってきた。昼休みまでなんとか持ちこたえて弁当を開いたのだが箸が全く進まなかった。


「琥珀、顔青いよ。帰った方がいいんじゃない?」


 ギターの奴に言われた。


「そんなにヤバそう?」

「うん、ヤバそう。午後の授業のノートならボクが取っておくからさ。帰りなよ」


 ほとんど手つかずの弁当。これを持って帰れば兄はさぞかし心配するに違いないとは思ったものの、三十分かかる通学路を自力で帰れる自信があるうちにそうした方がいいと決めて荷物をまとめた。

 フラフラになりながら何とか帰りついて二階にある自分の部屋へ。扉を開けようとすると人がいる気配がした。激しい呼吸の音が部屋の中から聞こえてきたのだ。おそらく父ではない、だったら兄。兄は俺の部屋で何をしている?


「兄さん……?」


 扉を開けると目に飛び込んできたのは、ベッドの上で下半身丸出しで何かを尻に突っ込んでいる兄の姿だった。


「えっ……嘘っ……琥珀……?」

「何やってんだよ……!」


 吐きそうなくらいの最悪な体調だが兄の姿はさらに最悪だ。俺は勢いのまま兄の尻を蹴っ飛ばした。


「ぐっ……!」


 兄の尻からヌルヌルになった棒状の物が飛び出てきた。俺は兄を問い詰めることにした。

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