第二話 はじめての約束
いつものように『まだこんな遅くまで仕事してるのか』とひととおり説教され、有無を言わさず家まで送ってもらう流れだ。
アーベルは俺の半歩後ろから、追うようについてくる。道すがら話すことは思いつかず、当然はずむ話題もなく、だからといって気まずくもない、不可解な空気が漂っていた。
「……ところで、あのプディングだが」
その言葉に振り返ったが、なぜかアーベルは視線を合わせようとしない。
「人気があるって、本当か?」
「本当かって?」
何を言いたいのかわからず、ただ言われた言葉をくり返したら、次に耳を疑うようなことを言われた。
「プディングなら、もっとうまいものを食べたことがある」
「は?」
アーベルは相変わらず視線を合わせようとせず、まっすぐ前を向いている。俺は困惑しながらも、恐る恐る口を開いた。
「俺はうちの店の味、けっこう好きなんだけど……」
「お前が、好きなだけか?」
「いや、俺だけじゃなくってさ、ホントあのプディングは人気なんだよ。毎日いっぱい注文入るから、閉店前には完売しちゃうこともしょっちゅうだぜ?」
「……そうか」
(なんだよ、その嫌味な言い方……気分わりぃ)
それきり俺は口を閉ざすと、心持ち歩調を早めた。とっとと家に帰ってふて寝したい。
しばらくお互い無言で歩いていたが、あとひとつ角を曲がれば家に着く、というタイミングでアーベルが沈黙を破った。
「では、他のものと比べたことはあるのか」
最初、何のことを言われたのかわからなかった。だがアーベルはしつこく、今度ははっきりと別の言いかたで質問をくり返した。
「他のプディングと比べたことがあるのか」
俺は仕方なく、ない、と正直にこたえた。
「では、比較のしようがないだろう」
一体この男は何を言いたいのだろう。話の着地点が見えず、無言のまま早足に歩き続け、ようやく自宅アパートが見えたときは、ようやく解放されるとホッとした。
扉の前で、ポケットの中にあるはずの鍵を探っていると、なぜか後ろに立って待っているアーベルが唐突に話題を変えた。
「次の休みはいつだ」
「……なんであんたに、そんなこと教えなきゃいけないんだよ」
また労働時間がどうのとか、同じ説教をするのかとうんざりして言い返すと、アーベルは腕を組んだまま気難しい表情を浮かべた。
「……労働基準に従って、きちんと休日を取っているのか確認したいからだ」
「あっそ。あさってだよ」
俺はもはや口ごたえする気も失せ、そっけなくそう答えると、玄関の扉をやや乱暴に開けた。そのまま振り返ることもなく中へ入ろうとしたら、背中から大きな声が響いて、文字通り飛びあがった。
「では、あさっての正午に迎えに来るからな」
「急に大声出すなよ、びっくりするだろ! それに迎えに来るって、どういうつもりだよ」
「比較してもらう。もっとうまいプディングを食べてもらう」
ここでどうしてプディングが出てくるのだろう。困惑する俺に対し、アーベルはいつもの冷たい、事務的な口調で淡々と続けた。
「明後日の正午、馬車で迎えに来る。時間になったら玄関まで降りてくるように。二時間程度で帰宅できるよう、帰りの馬車も手配しておく」
「ちょっと待て、なに勝手に話を進めてんだよ」
「二時間では不満か。では一時間半、いや一時間以内に終わらせる」
「そういう問題じゃなくって……ああ、もう! わかったよ、正午だな?」
半分やけになって怒鳴るように承諾すると、アーベルは少し驚いたように瞬きをし、それからフワリと微笑んだので、俺は腰を抜かしそうになった。
「……アーベルさんってさ……」
「なんだ」
彼の頬が赤い。いや、これって実はデートの誘いか? そうなんだな……なんて、なんて。
(わかりにくい!)
俺は赤面の思いでうつむくと、指先を手持ち無沙汰に動かした。すると黒い手袋の指先が伸びてきたので、あわてて両手を背中にかくす。
「な、なんだよ?」
「いや……寒いのか」
「別に。ちょっとあかぎれが、かゆくなっただけだよ」
「あかぎれ?」
毎日長時間皿洗いすれば、両手があかぎれだらけになって当然で、いわば職業病みたいなもんだ。特に冬場は水が冷たく、空気が乾燥しているから、一年でもっともひどい有様となる。夜シャワーを浴びるときなんて、ぬるま湯すら染みて地味につらい。
「手を見せてみろ」
「な、なんでだよ……やだよ」
「いいから見せろ」
強引に手を取られ、穴のあいた手袋を外されてしまった。冷たい外気がひび割れた皮膚に突き刺さり、俺は痛みをこらえてぐっと奥歯を噛みしめる。
「こんなになるまで、なぜ放っておいてたんだ……」
アーベルの息を飲む様子に、なんともばつの悪い思いでそっぽを向いた。
「こんなの普通だって。水仕事してんだから当たり前だよ」
「だが、ここまで悪化する前に、医者に見せるべきだ」
「医者って……あかぎれ程度で何言ってんの?」
俺はわり本気だったが、アーベルはえらい剣幕で怒り出した。
「ふざけるな! これは普通のあかぎれではない、とうに怪我の域に達してる!」
「お、おい、夜中なのに、近所迷惑だろ……」
アーベルは俺の手首をつかんだまま、何かをこらえるような表情で唇を噛みしめていた。
「アーベルさん……そんな心配すんなよ」
「……」
「これ、見た目ほどひどくないんだ」
「駄目だ。たえられるはずがない……絶対に」
「いや、慣れちゃえばたいして痛くも……うわっ」
アーベルは俺の手をつかんだまま、引きずるようにして玄関から通りへと逆戻りしはじめた。
「ちょ、どこ行くんだよ!? もう夜中だってば……俺、早く帰って寝たいんだよ、明日も仕事なんだからさ」
強引に歩かされ、足をもつれさせながらも必死に抗議する。するとアーベルは、とんでもないことを言い出した。
「今夜はこのまま、うちの屋敷へ連れていく。間に合わせでも、なにか薬があるはずだ。明日は朝一番で医者にみせる」
「はあ!? だから明日も仕事あるんだってば! 勝手に休めないし、休むと給料から差っ引かれるし、困るよ!」
「店には、私から連絡を入れておく。明日の分の給金は、私が支払えば文句ないだろう?」
その勝手で傲慢な物言いに、俺はついカッとなって乱暴に手を振りほどいた。
「なんだよそれ、ふざけんじゃねーよ!」
対峙するアーベルの強い視線が、容赦なく突き刺さる。だが俺も負けてはいなかった。
「なんでも自分の思い通りになると思うなよ!」
そんな捨て台詞を残して踵を返すと、俺は振り返らずにアパートの建物に飛びこんで、一気に階段を駆け上がった。
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