第53話  それはいつかの……バカ

 卯花礼。珍しい名前だなぁと思った。第一印象はなんとも取っ付きにくい男子。皆一様にそんな風に思っていた。


「卯花」


 夕方のテニスコート。茉利理は、サーブ練習をする礼の隣に立っていた。


「なに?」


 敬語も使えない、テニスサークルに入ったくせにこれまで一度としてラケットを握ったことのない変な初心者。


「聞いたぞ? また部長と揉めたんだってな」


「そりゃ、俺はあいつ嫌いだし」


 トスを上げて、引いた腕をしならせる。

 ラケットの中心に当たったボールは回転を浴びて、向こう側のコートに着弾する。


「ちっ、外れか」


「嫌いって……お前さぁ」

 

 当時のテニスサークルは非認可サークルというやつで、大会にも出られなければ、他校との練習試合を組むのも簡単じゃないような謂わば、不真面目なサークルだった。


「もうちょっと歩み寄るとか」

「そんなのなんの意味がある? どうせ、人間なんて、すぐ裏切るんだから」


「……むぅ」


 言い切られてしまえば、とりつく島もなかった。


…………

……


 卯花礼が練習を始めるのは、いつだってサークルの連中が引き上げた後。

 つまりは、夕方の六時ごろだった。


「卯花?」


 その日はほとんど日も落ちていて、真っ暗な日だった。


「安斉……なんできた?」


「先輩をつけろバカ」


 知らんぷり。何か言っても、答える気はないらしい。


「そろそろ止めろよ?」


「なんで?」


「いや、もう皆んな帰っただろ?」


「だから来た」


「え、ええ?」


 やはり、なんとも掴みどころのない奴だ。何故、自分はこんな奴を好きになってしまったのか、よく分からないくらい。


………

……


「ちょっといいかしら」


 クロワッサンを千切っていた紫苑が言ってくる。


「ん。なんだ?」


「その前の部長? と礼君が喧嘩したって話よね?」


「あー、そうなんだ。よし、その辺りから話すとするよ」


 こほんと茉利理は咳払いを打ってから話を紡いだ。


………

……


 何から話すべきか。少し悩むが、やはり去年の大事件。

 サークル戦争からだろう。


 全ての元凶は、元テニスサークルの部長。

 そいつは所謂、ヤリチンというやつで、サークル内外の女子に声を掛けては、取っ替え引っ替えしているクソ野郎だった。


「なあ、安斉。今日とかさ、二人で飲み行こうぜ?」


 そんな風によく部室にいれば声を掛けられた。


「え、えーと今日はその用事があるので」


 無論、このヤリチンにとって、茉利理も例外ではなかったのだろう。何度も誘われては、理由をつけては断る。そんなことが何度かあった。

 その度に。


「安斉……先輩。テニス教えてくれ」


「あ? 何、お前? お前如きが、安斉に教えてもらってんの?」


「だったらなんだよ、あんたみたいなクズには関係ないだろ?」


 礼は毎度毎度、理由になってくれた。


「いやいや、俺が先に誘ってんじゃん? なのに、後からそうやって誘うのどうよ?」


「はあ? 俺は元々安斉先輩に頼んでんだよ。後から声かけてんのは、あんただろ」


「ま、まあ、落ち着けって卯花。な? 練習するんだろ?」


 どうにか、場を紛らわせる。そうして、二人逃げるようにテニスコートに向かった。

 そうして、一ヶ月が経つ頃には、卯花はグングンと上手くなっていた。

 スポンジのように教えたことを吸収して、伸びる。これなら、大会に出ればそこそこ良いところまで行けそうだ。そんな風に思えるくらいには。


「随分、上手くなってきたな」


「まあ、スポーツ自体は好きだしな。割と運動はできる」


「そのくせ、敬語はまだ使えないか」


「ふ、誰にでも敬語使うような馬鹿になりたくないだけだし」


「それが礼儀ってもんだぞ?」


「知るか」


 仲良くなれた。というよりは、やっと心を開いてくれた。

 そんな感じ。それが嬉しくて、徐々に茉利理自身も放課後のこの時間が楽しみだった。


 けれど。


 とある日、茉利理がテニスコートに向かうと、いつもは一つの人影が二つあった。


「なあ、卯花。お前、調子乗りすぎじゃね?」


 耳を立てれば、そんな言葉が聞こえてくる。


「はあ?」


「敬語も使えねぇ、テニスもできねぇ。なんでお前がこんなとこいるわけ? さっさと辞めろよ」


「あんたには関係ねぇだろ。それに、俺はもうあんたなんかよりテニス出来る。あんたこそさっさと辞めて、女相手に尻尾振ってろ」


「てめぇ!」


 礼は胸ぐらを掴まれ、今にも殴られそうだった。しかし。


「殴ってみるか? あ? やれよ。だが、覚悟しろ。そんときゃ、見るも耐えない顔になるまで、殴り返してやる」


 鋭い目だった。まるで、鋭利なナイフ。いや、刀のような。


「っ! ……てめぇ、覚えとけよ」


「お前が覚えてりゃいいだろ、タコ」


 礼が努力すればするほど、茉利理と共にいる時間が増えれば増えるほど、部長との折り合いは悪くなっていった。

 そして。


「おい、卯花。シングルスで試合しようや」


「あ? 喧嘩しねぇのかよ。腰抜け」


 とある日、礼と部長が試合をすることになったのだ。


 全ての始まり。ある意味では、きっと。

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