第20話 名前を呼んで

「あぁ、そうだ」

「あぁそうだ、って……、名字が違うじゃないですか」


 騙されてはダメだ。

 主任は和泉で、皆川ではない。

 騙そうったってそうはいかない。

 私はそこまで何も考えていない人間じゃないんだから。


「ん? あぁ。そりゃ、由紀の旦那の名字だからな」

「…………はい?」


 由紀の旦那?

 皆川さんの……旦那ぁぁあああ!?


「ちょ、まっ、み、皆川さんの旦那、って……!? 結婚……っ!?」

「皆川由紀。旧姓・和泉由紀。32歳。17歳で10歳年上の男と結婚。12歳の息子と10歳の娘がいる。5年前職場復帰をして、以来秘書課で腕を振るっている。ほれ、これが証拠の戸籍謄本」


 鞄の中から一枚の紙を取り出すと、私の目の前に差し出す主任。

 それには確かに旧姓【和泉】と記録してある。


「本当だ……。でも何でこんなもの持って……?」

「由紀がコンビニで発行してくれた。変な噂が回ってるっていうのもあいつから聞いた。それでお前が誤解してるだろうから、これ持って誤解を解いて来いって」


 変な噂?

 誤解?

 未だ頭が付いて行っていない私にまっすぐに視線を合わせると、主任が再び口を開いた。


「俺の彼女は、お前しかいない。その先を考えてるのも、お前だけだ。他の女はいらない」

「っ……」


 縋るような熱い視線。

 あまりにまっすぐなそれに、目を逸らすことができない。



「……こんなところでなんですから、とりあえず、中へどうぞ」

 それだけ言うのがやっとだった。


 こんな玄関でするような話ではない。

 私はそう言うと、主任を部屋へを案内した。


 キッチンを通り過ぎ奥の自室へと主任を通すと、「どうぞ」と、真っ白いラグマットへ座るよう促す。


「失礼する」

 律儀にそう断ってから腰を下ろす主任。

 その後ろには桜色のベッド。

 ベッド脇にはクマのぬいぐるみ。


 主任がメルヘンになってしまった……。


「あの、主任。ごめんなさい、電話、出なくて……。……私、主任と皆川さんの噂を聞いて……不安になって……。帰りもお二人でどこかに行かれるようだったし、そういう仲なんだって、信じちゃって……」


「はぁー……やっぱりそうだったか。すまない。俺も、お前に何も説明してなかったからな」


「それに……」


「それに?」


 私は意を決して顔を上げると、まっすぐに主任を見つめた。


「しゅ、主任は私のことは水無瀬って呼ぶのに、皆川さんのことは由紀、って呼び捨てにしてるから……!!」

「っ!! そ、それは身内だからで──」

「でも!! それでも、そんなこと知らなかったですもん」

「!!」


 目頭が熱くなる。

 感情が溢れ出す。

 自分で求めることのできない言葉の波が、一気に押し寄せてくる。




「比べてしまったんです。名前で呼んでももらえない自分や、主任のこと何も知らない自分に気づいて、私なんて、って……」

「水無瀬……」


 こんなネガティブな私なんて、愛想尽かされてしまっただろうか?

 一人先走って空回りして……皆川さんにも迷惑をかけて。


「ごめんなさい。やっぱりこんな私じゃ、主任に釣り合わな──」

「雪兎」

「え?」

 顔を上げたすぐそこには、主任の穏やかな顔。


「俺の名前だ。その……言おうとは、思っていたんだ。名前で呼んでほしい、と。オフの時まで主任と呼ばれるのもなんだし」

「ぁ……」


 私もだ。

 私も、主任のことを主任と呼び続けていた。

 なのに自分だけって……。


「お前のことも、名前で呼んで良いだろうかとずっと思っていて、なのにそれが出来なくて、お前が何も言わないのをいいことにそのままにしてしまった。すまない」

「っ、そんな、主任が謝る事じゃ──!!」

「雪兎だ。……これからは、名前で呼んでほしい。これからもずっと、俺の傍にいてくれ。──海月」

「!!」


 海月。

 そう呼ばれた瞬間、涙腺が大崩壊を起こした。

 ぼろぼろと流れ落ちる雫を手の甲で拭って、それでも流れるのをそのままに、私は笑った。


「はい──っ、雪兎さん」


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