『残暑』

@Yu-ta_kamizono

第1話

 お盆休みも終わり、日常が戻る。

朝からの日差しは容赦なく、すでに気温は高い。

予報を見なくても今日のうだるような蒸し暑さは簡単に想像できた。


 翌週の土曜日は美咲の結納を迎える。

今日が金曜なのであと1週間といったところだ。

結婚相手である侑真の仕事の状況と、遠方から来ていただく侑真のご両親の都合もあって日柄はともかく結納は市内のホテルで行うことにした。

向こうのご家族には前日からそのホテルに宿泊してもらい、午前中の結納と昼食はホテルで済ませて帰路に着く前に美咲の家に少し寄ってもらうことになっている。

それにしても年々暑さが厳しく、夏が長くなっているように感じる。

暑い中、ご両親に出かけていただくのは申し訳ないなと思いながら美咲はカレンダーを眺め緊張と同時にその日が来るのを楽しみに待っていた。


 セミたちが今日も暑くなるぞと競ってジャージャー声を張る。

今朝、美咲は30分程早く仕事へ行く身支度を整え、玄関先でキッチンにいる両親に「行ってきまーす」

と声をかけた。

パタパタといつもの足音がして母が

「行ってらっしゃい、気を付けてね」

とお守りのように声をかける。

奥から父の行ってらっしゃいの声も聞こえる。

朝食を食べるときに

「少し早く出るからお父さんを駅に送ろうか?」

と一応声をかけたが、父は

「いや、ありがとう。帰りのこともあるから自転車で行くよ。また雨の時頼む」

と答えていた。

美咲はカバンから車のキーを取り出し

「今日は定時で帰れると思うよ」

と母に伝えてもう一度、行ってきますと言いながら玄関のドアを開けた。

「きゃぁっ!」

目の前に落ちていた黒っぽい何かに驚き、思わず小さく叫んだ美咲とその声に驚いた母が見たものは一匹のセミだった。



 今朝、羽化したばかりなのだろうか。

のろのろと手足を動かし、玄関ポーチを左のほうに移動している。

「嫌だ~、虫嫌いなのに。もう少しで踏むところだったかも」

最悪の事態は免れたが、美咲にとって気分のいい朝ではなかった。

「美咲、何かあった?」

階段から降りてきた陽太がおはようと母に声をかけた。

「玄関でセミを踏みそうになったらしいわ」

母も陽太におはようと声をかけ、朝ごはん出来てるわよーといいながらキッチンに戻る。

「あぁ、ありがと」

陽太がトイレを済ませ、顔を洗い終わって食卓に着く。

おはようと陽太が言うと父が新聞から目を離し、陽太におはようと返しチラッと壁掛け時計を確認した。

陽太は麦茶をグラスに注ぎ、まずは一杯目を飲み干した。

二杯目を注ぎ始めるころ、父が「そろそろ行くか」と席を立つ。

「行ってらっしゃい」「あぁ、行ってくる」

息子と父親とは、仲は特に良くも悪くもないがこんな感じらしい。

「かーさん、麦茶なくなるわー」

「いつも言うけど作ってくれたらいいのよ?助かるし」

父を送り出すため、母はパタパタと玄関へ急いだ。

「行ってらっしゃい」の声とドアが閉まる音が聞こえて、パタパタと足音がこちらに向かってくる。

「土曜日にお出しするアイスコーヒーとお茶はペットボトルのを買って冷やしておこうかな…陽太、飲まないでよ?」

「飲まないよ、メモでも貼っておけばいいじゃん。結納用って」

母がご飯と味噌汁をよそい、陽太が箸を準備した。

今日は同じタイミングで朝食をとることになった。

陽太はいただきますと言い、食卓に並んだ目玉焼きに醤油を少しかけた。

母はいただきますと軽く手を合わせ右手で箸を持ち、両手で包んだお椀の味噌汁を一口飲んだ。

箸で目玉焼きを切り分けながら陽太が

「美咲、本当に良かったな。いい人に巡り合えて」と言う。

母は手を添えたままのお椀をテーブルに置き、ホッとした表情をしてつぶやいた。

「そうね…本当に」


 本当に良かったと二人は思っていながら言葉は続かなかった。

この数年、家族みんな辛かった。

特に美咲は心を病んで気がふれてしまったのではないかと思う時期もあった。

引っ越してきて慣れない土地での生活は母も大変だったであろう。

陽太と美咲の通学も当時は遠くなり、時間がかかるようになってしまった。

美咲は巻き込まれた被害者であったのに、世間の好奇の目と噂は美咲と家族を苦しめた。



 7年前、美咲はしつこいストーカーに付きまとわれていた。

高校1年生の秋の終わりごろから帰り道で変な人に見られている気がすると母親に相談した。

美咲はほぼ毎日登下校の後を付けられ、そのうち写真を撮られたと言い不眠症になった。

一緒に通学していた友人がいるときは大丈夫だったが、一人になると帰りに待ち伏せをされた。

ある日、ニコニコと近づいてきて話しかけられ、お茶でも飲みに行こうと誘われた。

何度断っても嫌がっても自分の都合のいいように受け取られて話が全く通じなかった。

相手には美咲の家もすでに知られている。

警察にも相談に行ったし、当時大学生だった陽太も兄として美咲を守るために父と協力した。

父と交代で高校の送迎も付き添ったし陽太はバイトの時間もずらした。

母も家での生活にかなりの神経を使った。

美咲を一人で留守番させないようにパートをやめて、買い物の時間や用事は美咲が高校に行っている間に済ませた。

美咲は送迎したとしても玄関から一歩も外に出られない日もあった。

制服に着替えて支度をするものの、怖くて身体が外へ出ることを拒否してしまい玄関に座り込んで泣いてしまうのだった。

家族で毎日怯える美咲を守る努力をしていた。


 そんなある日、ストーカーの犯人は自らの命を絶った。

仕事を無断欠勤した男性が1週間ほど後に職場の裏山で発見された。

夏の暑さでかなり傷んだ表現しがたい姿で木にぶら下がっていて、遺体とその足元にはおびただしい数の虫たちが群がっていたそうだ。

それは美咲が高校2年生になった夏休みのことだった。

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