「vacancy」 ‐虚ろな自画像と夢の楽園‐
白雪花房
空室あり
完成した自画像を白く塗りつぶす。
ぐちゃぐちゃと歪んでいく男。短髪に無個性な顔をした平凡な顔。消したところでなんの痛みもない。
このろくでなしが。
なんにも残らないじゃないか。
死ね。死んでしまえ。なにもかも壊れて無に帰せ。
自分で自分を破壊し尽くす。曖昧に霞んだシルエット。思いのままに筆を振るっていると、なぜか晴れやかな気分になった。
口元に笑みをにじませ、顔を上げる。
題名は、そうだな。
「vacancy」
ラテン語で空白という意味。虚ろな自分にぴったりではないか。
◆
石英町はなんの変哲もないただの町だ。
大通りを抜けた先にあるひなびた場所には、こじんまりとした家が建っている。
ソラは実家暮らしだ。授業はサボりがち。日がな一日絵を描いている。暇を持てあます大学生だ。
「いい加減に将来のことを考えなさい」
時々母が叱りつけるも、まともに聞いた試しがない。
「俺には絵しかないんだ。画家以外にはなりたくないよ」
頑なに主張した。
今回は絵画のコンペティションに応募する。
センスのいい絵を作る一心で、機械的に筆を動かしたつもりだ。自分を押さえつけ、できあがったものを提出する。
ほどなくして期日が訪れ、展覧会の会場へ足を運ぶ。現地にはすでにたくさんの芸術家志望者であふれていた。受験発表に赴く生徒のようにソワソワとしながら、一点を見つめる。
掲示板から自分の名を探す。
ある、きっとある。自分に言い聞かせながら目を凝らした。
しかし、載っているはずの名前は見つからない。
山村ソラ。
信じられない。まるで自分の存在そのものが世界から否定され、空白の大地に立ったような気分だった。
本当は分かっていた、才能なんかなかったと。幼少期からずっと絵を描き続けているのに、上達は軽微だ。何年も絵と向き合ったところでプロにはなれない。
描いていてむなしかった。なぜ絵と向き合っているのかすら分からない。このまま筆を折ってしまおうか。
ブツブツと口の中でつぶやきながら、弱々しく帰る。リベンジを果たす気はいつの間にか失せていた。
夏休み。
白紙のキャンパスを倉庫に押し込み空っぽになった部屋で、だらだらと過ごす。
時間だけが過ぎていく中、軽い音を鳴らすインターフォン。渋々出向いてみるとTシャツ姿の青年が立っていた。
精悍な顔立ちに爽やかな雰囲気をまとった相手は、昔からよく知る人物である。「こんなところで引きこもって、なにしてたんだよ?」
「なにもしてないよ」
「相変わらずか。ダメだな、お前は」
心底あきれたように肩を落とし、ため息をつく。
「みんな就職先見つけたよ。お前もいい加減に夢から覚めろ」
バタンと扉を閉じて、姿を消す。
拒絶された気分だった。
――「お前もいい加減に夢から覚めろ」
同期はまともな大人になって、プロとして旅立つ者もいるのに、ソラは相変わらずぐうたらと過ごしている。
大学の暇な時間を絵に消費したがために、単位が足りず卒業もできない。
はぁ……。
やはり、夢を見たからダメになったのだろうか。
どうせなら誰もいない場所へ行きたい。全てを投げ出したくなったソラは家を出て、旅を始めた。
◆
歩き始めて、即後悔。
郊外から外は延々と平野が広がっている。帰ろうにも一時間以上は進んでいるため、簡単に引き返せない。死んだ目で歩いていると、長方形の影が見えてきた。
ちょうど薄曇りの空、ヒースの丘に館が建っている。外観は紫紺で窓ガラスも同色。あからさまに怪しい。しかし、宿がなくて困っていたのも確かだ。
おそるおそる戸に近づく。重厚な板。緊張しながらノックをするも、返事がない。ドアノブをひねる。開いた。思い切って押し込む。
すっと入ると、フロントに猫が座り込んでいた。黒い毛並みの整った形をしており、かわいらしく上下する尻尾の先に、リボンがついている。少し気が和んだ。
「マレビトか? 否、異世界人はこちらのほうか」
一瞬、部屋に誰かが隠れているのかと思った。
「私だ」
「喋る猫ぉ!?」
思いっきりのけぞる。なお、相手はこちらのリアクションなど意にも介さない。
「早速で悪いが仕事を頼みたい。空室ならあるのでな」
「なにをしてほしいんだ?」
小首をかしげる。
「夢を見させてやるだけだ。気を楽にしていい」
雑に告げる。
小動物がどうこうするものとは思えないが、つきあってやらんでもない。
のんきに構えていると猫が細い腕を差し伸ばす。つやつやとした毛並みに見入っていると、肉球から光が放たれた。おお? ソラは目を見開く。
「精神の扉よ空想へ誘え。汝に夢を見せてやろう」
ほかならぬ青年自身へ向けた、詠唱のような言葉。とろりと意識が薄らぐ。ソラはなめらかにまぶたを閉じ、体を傾けた。
彼は睡るように意識を閉ざす。視界は眩み、精神は彼方へと飛ばされた。
まぶたを開ける。数度瞬き。
視界に映ったのはほのかに光を帯びた木々。神秘的な森の中、端に緑に混じって紫色がちらつく。空は澄み切った紺色。夜だった。
夢でも見ているのか。動揺。心が震え、冷や汗をかく中、奥のほうから子守唄のような鳴き声が迫ってきた。
「マレビト、マレビトだね」
「哀れな人。大切なものを落としたのね。大丈夫、ここから探せばいいんだから」
小鳥たちがひらひらとした羽を見せつけながら、周囲を飛び回る。南国にいるようなカラフルさだ。蝶と合体したかのよう、もしくはドレスの衣でもまとったか。
「大切なもの……?」
腑抜けた顔で口に出す。声に力がない。
「あなたの心はお空みたいに白紙なの」
「欲しいもの、大切なものを言ってごらん?」
笑いながら話しかける。
少し考えを巡らす。頭の中にはなにも浮かばない。自分はいったい、なにがほしかったのか。
「死ぬわけじゃないし別にいいだろ」
「ダメだよ。君は現実に戻らなきゃ。ほら、野垂れ死にたくないでしょ?」
声を張り上げ、主張する。
「あなたはきちんと帰らなきゃ」
「帰るったってどこに帰ればいいんだよ」
「失ったものを取り戻せば、自然に帰りたくなるよ」
そうは言っても失ったものに心当たりはない。強いていうなら人生だが、そんなもの今さら取り戻せるのだろうか。
ソラは困り果てていた。
ひとまず霧がかった森を進む。出口を目指しているはずなのに、なにも見えない。本当に帰れるのだろうか。不安が加速、肌着に汗がにじむ。いい加減に疲れてきた。
「もうダメ。意味ないよ」
湿った地面に腰をつけ、目を閉じた。
「ダメだよ。帰るんでしょう?」
「頑張って歩き続ければなにか見つかるかもよ」
カラフルな小鳥たちが顔のそばにまとわりつき、明るく声を掛けてくる。
「ねえ、聞いて。ここは魔の牢獄でも、夢幻の迷宮でもないんだよ」
「ここは君の心象風景。君が見た夢だよ」
「思ったことはなんでもできる」
「その冒険の果てに本当の自分が得られるかもよ」
歌うように解説してくる。話は呑み込めない。
でも、ここがもしも自分の中にある世界だとしたら、うまくやれるのか?
見方が変わり、少しだけ気分が明るくなる。ソラは意を決して立ち上がった。
「夢の世界なら空も飛べるかもな」
晴れやかな顔で顔を上げる。手始めに天を貫く巨木を探し登ろうかと思っていると、焦って小鳥が迫ってきた。
「ここは現実とリンクしているからね。飛び降りたら現実でも死ぬよ」
「ひぃ。もっと早く行ってくれ」
思いっきり青ざめ、体をこわばらせる。
「大丈夫。あなたには私が守るもの」
「そうそう。指一本触れさせないよ」
心強い言葉をかけられ、ほっとする。ひとまずは肩から力を抜いた。
ひとまず導かれるように進む。
不意にざわざわと風が吹いた。深緑の茂みが揺れ、細かな音を鳴らす。禍々しい気配。なにかいる。目を尖らせ警戒。小鳥たちもバリアを貼るように飛び回る。
そのとき、薄暗がりからぬっと飛び出す獣。トゲトゲとした見た目だ。危機感が全身を駆け抜ける。さすがにまずいんじゃないか。
「ワー、フォレストビーストだー!」
小鳥たちが情けなく喚き散らす。
こちらも体が強張り、震えだした。男なのに情けない。田舎で熊と遭遇した心地になっていると、小鳥たちが近くに寄ってきた。
「絵を描いて、絵を描いて」
「え?」
「いいからお願い。追い払って」
一方的に筆とキャンパスを手渡される。おずおずと受け取る。
「敵を描いて」
「帰ってって言って」
「無茶言うなぁ!」
言っている場合じゃない。
敵が爪を立てて、襲いかかってきた。
げっと顔を歪める。目を閉じる代わりになんとかキャンパスと向き合うことに。
前方では小鳥が飛び出し、バリアを展開した。
隙を見て、なんとか絵を描く。獣をデフォルメ。上からUターンしろと矢印を書く。たちまち敵は硬直した。
「さあ、森へ帰るんだな」
ここ森だけど。
ツッコミはさておき胸を張って主張する。たちまち獣はしゅんとした顔となり、トボトボと帰った。
追い払うことに成功した様子だが、実感が湧かず、放心する。
ひとまず歩き出した。深い色合いの葉をかき分けるようにして進むと、青い泉にたどり着く。透き通る水は美しく、底すらないような気がした。
「覗いてごらん。きっと君の欲しいものを教えてくれるよ」
小鳥に誘われるようにかがみ、水面に顔を近づける。
青は静かに凪いだままだった。なにも起こらない。
おかしいなと、首をかしげる。
「ふーん。じゃあ、こういうのはどうだろう」
ふわりと小鳥たちが泉の周りを飛び、魔法をかけた。
瞬間ぼわっと霧が立ち込め、鏡のような面に映像が映し出される。それはもしもの自分。もう一人のソラがたどった結末。
青の向こう側の世界で彼は森に留まり、骸骨となる。灰となって消えた後はなにも残らない。思わずゾッとし、青ざめる。
「機能してないわけじゃない、か」
「じゃあ本当に欲しいものがなくなっちゃったのかな?」
唖然とする青年を放っておいて、小鳥の一体が無責任なことを口走る。
「まあ、鏡に向かって話しかけても、女神なんて現れないよ」
「気をつけてね。早くしないとこの世界の住民になっちゃって、朽ち果てるだけだからね」
運命は如実に現実を突きつける。
ソラは精神が震えるのを感じた。不思議と臆する気持ちは湧いてこない。むしろ状況が分かって、すっきりとしたところだ。
すぅと息を吸って、吐く。精神を鎮めて目を開けた。
前を見据えると薄っすらと線が伸び、月光が降るように森の中に道を作っている。
ソラは歩き出した。一歩一歩、水面を渡るようにていねいに。
いつの間にか景色は開けている。空は青と紫のグラデーションがかかった幻想的な色。遠くの風景はけぶって見えない。
奥にはゲートが立っている。
ひとまず脱出に成功した。
「連れてきてくれてありがとう」
振り返り、笑いかけようとして、表情を固める。いままで近くを囲っていたカラフルな影が、形もない。背後に見えるはずの広大な森も、同じく。
全てが幻想だったかのようにきれいさっぱり、吹き洗われていた。
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