いつの間にか、頭上を覆う雲の厚さが増し、辺りがより一層暗くなっていた。そのせいか、周囲の気温がぐっと下がったかのように感じられる。

 先程までの比ではない。

 まるで真冬の吹雪を思い起こさせるような寒さに、れんの手はかじかみ始めていた。


「ここのところ、すっかり寒くなってきたね。でも、これくらいじゃ花瓶の水は一週間もすると腐っちゃうよ。生花が生けてあったらなおさらかな」


 拓真たくまの顔を見る。彼は口を一文字に結んで、小さく震えていた。蓮の顔も似たようなものだろう。

 一度気がつくと、はっきりと知覚できるようになってきていた。

 今のこの状況は、明らかにおかしい。


「ボクのときは、向日葵がまだ結実する前だったから、種を食べることもできなかったよ。花びらはともかく、真ん中まで食べたらげーげー吐いちゃってね。あれがなければ、もう一日はいけたなあ」


 そもそも、この“声”は誰の声なのか。

 いつからか会話に紛れ込み、けれど不思議なほどに違和感がなかった。いるのが当たり前に感じる三人目の“声”。

 ただ、その存在に気がついた今、そこにあるのは恐怖でしかない。


 この場を離れようと、蓮は足に力を込める。しかし、椅子から立ち上がるどころか、身じろぎするのが精一杯だった。まるで、身体が凍りついてしまったかのようだ。

 拓真も同じなのだろう。彼も僅かに身体を揺らしているが、それ以上動く様子がない。


「ふふ、冗談はともあれ、計画の続きを話そうか。道具は懐中電灯と寝袋。食べ物は一週間分以上で保存が効くもの。チョコも良し。次は何を決める?」


「…………」


 肝試しは嫌だ。ここから逃げよう。お前は誰だ。俺たちを離せ。

 そのすべてが口から出てこなかった。ただ、乾いた空気の音が喉から鳴るばかり。

 けれど、焦る蓮の横から声がした。


「が、学校をサボったら、さすがにまずいよ」


 拓真だった。彼はほとんど真っ白な顔色をしつつも、小さな声で言う。


「そもそも、鍵だって高橋先輩から蓮に渡ってることなんて、調べればすぐわかることでしょ? 一日だって返却が遅れれば、熊センに気づかれるに決まってる」


「……そうだな。きっと熊センが黙ってない」


 話に合わせると、蓮の口からも声が出た。

 どうやら『肝試し計画』に関することなら喋れるらしい。

 それでも、問答無用に拒否する言葉はどうしても出せなかった。身体も動かないし、今はとにかく、理由をつけて会話を引き伸ばすしかない。

 少なくとも、この“声”と肝試しの約束をしてしまうのは、絶対に避けなくてはならない。そんな気がしてならなかった。


「ふーん。熊センって先生? もしかして、熊みたいな、あの?」


“声”は訝しむように言う。山下のことは知っているようだ。

 ならば話が早いと、蓮はすかさず畳み掛ける。


「そうだな。熊センは生徒指導の教師で、厳しいことで有名なんだ。サボって肝試しをしてたなんてことになったら、カンカンだろうな」


「蓮は生徒指導室の常連だから、これ以上何か起こせば内申が大暴落だよ。受験もあることだし、これ以上熊センを刺激するのは、やめたほうがいいんじゃないかな?」


「そう……」


 消え入るように“声”は呟くと、それきり黙ってしまう。どういうわけか、“声”の方も肝試しを強制することはできないらしい。

 これで諦めてくれれば――そう蓮が願った直後だった。


 二人の後方、花壇を挟んだ校舎の方から、何かが落ちるような大きな音が複数回した。それに続いて、女子生徒のものらしき悲鳴も聞こえてくる。

 驚いた二人は、咄嗟に声の方向を見ようとしたが、やはり身体が動かない。


「おや。熊セン先生は、どうも階段から転げ落ちてしまったみたいだね」


 動けない二人に代わるように、“声”は楽しげに囁いた。


「ちょうど2階を降りていたところを、まるで誰かに押されたみたいに、どすん。しっかり鍛えていたから、生きてはいるけれど……可哀想に。これは、しばらく入院だろうね」


“声”は、まるで見ていたかのように状況を語る。

 その間にも、後ろの校舎から漏れ聞こえてくるざわめきは、どんどん大きくなっていった。救急車を求める声も聞こえてくる。校舎に伝播していく混乱を背に、蓮と拓真は、小さく震えていることしかできなかった。


「さあ。これで熊セン先生に怒られる心配はなくなったね。入院していたら、生徒の指導も何もあったものじゃないもの」


 とん、と蓮の左肩を冷たい何かが触れる。冷水でも掛けられたのかと思ったが、違った。

 ほんの少しだけ動く首、それから唯一自由な眼球をめいいっぱい使って見ると――そこに乗っていたのは“手”だった。服越しにも分かるほど冷え切った手が、蓮と拓真の肩をそれぞれ掴んでいる。


 それから、その上。僅かだが、黄色いひらひらしたものも見えた。すぐに、それが花弁だと気づく。木枯らしに揺られているのは、一輪の大きな向日葵。

 けれど、蓮たちがここにやって来たとき、花壇は間違いなくからっぽだったはずだ。


「さあ、計画の続きをしよう」


 どこからともなく聞こえる“声”は、くすくすと笑った。

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