3
いつの間にか、頭上を覆う雲の厚さが増し、辺りがより一層暗くなっていた。そのせいか、周囲の気温がぐっと下がったかのように感じられる。
先程までの比ではない。
まるで真冬の吹雪を思い起こさせるような寒さに、
「ここのところ、すっかり寒くなってきたね。でも、これくらいじゃ花瓶の水は一週間もすると腐っちゃうよ。生花が生けてあったらなおさらかな」
一度気がつくと、はっきりと知覚できるようになってきていた。
今のこの状況は、明らかにおかしい。
「ボクのときは、向日葵がまだ結実する前だったから、種を食べることもできなかったよ。花びらはともかく、真ん中まで食べたらげーげー吐いちゃってね。あれがなければ、もう一日はいけたなあ」
そもそも、この“声”は誰の声なのか。
いつからか会話に紛れ込み、けれど不思議なほどに違和感がなかった。いるのが当たり前に感じる三人目の“声”。
ただ、その存在に気がついた今、そこにあるのは恐怖でしかない。
この場を離れようと、蓮は足に力を込める。しかし、椅子から立ち上がるどころか、身じろぎするのが精一杯だった。まるで、身体が凍りついてしまったかのようだ。
拓真も同じなのだろう。彼も僅かに身体を揺らしているが、それ以上動く様子がない。
「ふふ、冗談はともあれ、計画の続きを話そうか。道具は懐中電灯と寝袋。食べ物は一週間分以上で保存が効くもの。チョコも良し。次は何を決める?」
「…………」
肝試しは嫌だ。ここから逃げよう。お前は誰だ。俺たちを離せ。
そのすべてが口から出てこなかった。ただ、乾いた空気の音が喉から鳴るばかり。
けれど、焦る蓮の横から声がした。
「が、学校をサボったら、さすがにまずいよ」
拓真だった。彼はほとんど真っ白な顔色をしつつも、小さな声で言う。
「そもそも、鍵だって高橋先輩から蓮に渡ってることなんて、調べればすぐわかることでしょ? 一日だって返却が遅れれば、熊センに気づかれるに決まってる」
「……そうだな。きっと熊センが黙ってない」
話に合わせると、蓮の口からも声が出た。
どうやら『肝試し計画』に関することなら喋れるらしい。
それでも、問答無用に拒否する言葉はどうしても出せなかった。身体も動かないし、今はとにかく、理由をつけて会話を引き伸ばすしかない。
少なくとも、この“声”と肝試しの約束をしてしまうのは、絶対に避けなくてはならない。そんな気がしてならなかった。
「ふーん。熊センって先生? もしかして、熊みたいな、あの?」
“声”は訝しむように言う。山下のことは知っているようだ。
ならば話が早いと、蓮はすかさず畳み掛ける。
「そうだな。熊センは生徒指導の教師で、厳しいことで有名なんだ。サボって肝試しをしてたなんてことになったら、カンカンだろうな」
「蓮は生徒指導室の常連だから、これ以上何か起こせば内申が大暴落だよ。受験もあることだし、これ以上熊センを刺激するのは、やめたほうがいいんじゃないかな?」
「そう……」
消え入るように“声”は呟くと、それきり黙ってしまう。どういうわけか、“声”の方も肝試しを強制することはできないらしい。
これで諦めてくれれば――そう蓮が願った直後だった。
二人の後方、花壇を挟んだ校舎の方から、何かが落ちるような大きな音が複数回した。それに続いて、女子生徒のものらしき悲鳴も聞こえてくる。
驚いた二人は、咄嗟に声の方向を見ようとしたが、やはり身体が動かない。
「おや。熊セン先生は、どうも階段から転げ落ちてしまったみたいだね」
動けない二人に代わるように、“声”は楽しげに囁いた。
「ちょうど2階を降りていたところを、まるで誰かに押されたみたいに、どすん。しっかり鍛えていたから、生きてはいるけれど……可哀想に。これは、しばらく入院だろうね」
“声”は、まるで見ていたかのように状況を語る。
その間にも、後ろの校舎から漏れ聞こえてくるざわめきは、どんどん大きくなっていった。救急車を求める声も聞こえてくる。校舎に伝播していく混乱を背に、蓮と拓真は、小さく震えていることしかできなかった。
「さあ。これで熊セン先生に怒られる心配はなくなったね。入院していたら、生徒の指導も何もあったものじゃないもの」
とん、と蓮の左肩を冷たい何かが触れる。冷水でも掛けられたのかと思ったが、違った。
ほんの少しだけ動く首、それから唯一自由な眼球をめいいっぱい使って見ると――そこに乗っていたのは“手”だった。服越しにも分かるほど冷え切った手が、蓮と拓真の肩をそれぞれ掴んでいる。
それから、その上。僅かだが、黄色いひらひらしたものも見えた。すぐに、それが花弁だと気づく。木枯らしに揺られているのは、一輪の大きな向日葵。
けれど、蓮たちがここにやって来たとき、花壇は間違いなくからっぽだったはずだ。
「さあ、計画の続きをしよう」
どこからともなく聞こえる“声”は、くすくすと笑った。
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