憧れは猫を殺すのか

第1話 梅雨時の出会い

 天気予報では梅雨前線が北上しているようだ。また雨がよく降る季節がやってくる。紫陽花が咲くので嫌いではないが、鞄を濡らさないように走らねばならないことが少し億劫だった。替えの靴下をもう一組入れて傘を傘立てからするりと引き抜いたこの少女は空想の世界に生きる中学一年生である。現実を生きながら、その目は現実の紫陽花を見ているようでよく見てはいない。瞳にその小さな花々を映しているだけで、頭の中では昨日見たアニメを反芻していた。

 そして何か非日常のことがないのかと、ないとわかっていながら願わずにはいられない難儀な性格をしていた。ただ日常を過ごすだけでは物足りない。けれども何かを起こすほどの力もなく想像の翼を広げては大空に羽ばたけない、身体中に傷がつくほど掻きむしりたいむず痒さに、真夜中みんなが寝静まったことを確認してから静かに涙を流すこともあった。

 そんな北坂あかりは漫画で読んだ憧れの中学に入学してから半年経ち、なんとなく慣れというものにじわじわ侵食されていく感覚を味わっていた。新しい何もかもが自分の中で鮮度を失っていく。慣れた通学路を行き慣れた時間割をこなす。たまに帰り道に鈴蘭が咲いているのを見つけてはその花に心動かされたという新鮮な感覚を、息苦しい海の中から息継ぎをするかのように忘れまいと必死であった。

 惰性で配信サイトの動画を見ては何度も更新を繰り返し、ため息をついてはスマホを放り出す。たまに心に刺さる動画を見つけても、見終わるにつれて活性化されたような心の動きは自然に落ち着いていく。 次は次はと更新を重ねて嫌になり、スマホを放り出すのだ。でもスマホを投げたところで何も起こらない。何も起こらないのである。そんな彼女にとって、あの怪鳥ともいうべき幻想を固めたような存在との出会いは新鮮なんてものではなかった。

 美術の授業で写生大会に出品するからと課せられた課題。お題は「夢」だった。岬からの景色は時によって見せる表情が異なる。朝ならば紫がかった薄い蒼、その中で卵の黄身を垂らしたようなとろりとしたオレンジ色と共にグラデーションを成す赤色がなんとも清々しい。夕方ならば朝焼けと似て非なる、日の光を纏いながら夜の世界の住民票も持っている。そんな感じだ。そしてゆらゆらと揺らめく海。水平線では空と海が接し少し白みがかった線ができていた。

 海は空に寄り添って、圧倒的な存在感を持ってただ波打っている。きっと朝と夜、夜から朝、朝から夕方、狭間の景色ならば夢のような姿を見せてくれるだろうと岬からの景色を写生することにした。

 そこには怪物がいた。頭の中でどんどん連想されていく岬の光景が一瞬にして打ち砕かれる。蛇のように足のない下半身がとぐろを巻いていて上半身を持ち上げて、人間のような顔かたちをしている。長い長い薄い青色でラメのようなものが光る髪を持っていた。そういえば下半身部分もきらめいている。鱗だと気がつくには時間がかかったしあっているかもわからない。

 そして鰭はひらめいていた。そこまでならば人魚なのだと、思い込めたのだが。そうさせなかったのはその背に大きな翼を折り畳んでいたからだ。人魚と天使を組み合わせたようなキメラが物憂げな表情をして空を眺めている。その横顔がなんとも切なく悲哀の中にいるよう。その上で、何も考えていない残酷な目をしているとも錯覚してしまうまさに夢のよう。

 あかりはもう見るところが多すぎてどこになんという反応をしていいかすら分からなくなって頭がショートしそうだった。人魚のような姿、大きな翼、翼があるのに人間部分には腕があって、それはつまり腕の役割を持ってる器官が四本あるのか、そもそも本当にいるのか、天使と人魚が組み合わさった、その怪鳥(?)がゆっくりがこちらを見た時、今度は恐怖に染められていった。食べられるかもしれない、姿を見た自分は殺されるかもしれない。足の感覚もなくなっていくし動けないし、突然自分の体が自分の支配下から抜け出したように何も出来なかった。

 それと同時に、あまりの非日常が全身を襲い訳が分からないショートしそうな感覚と相まってもう脳の一部が焼き切れそうであった。そんな恍惚とさせる不可思議なその彼女はにこりと微笑んだ。とりまく世界はスローモーションで。気がついたとき、その怪鳥は少し両手を広げていた。こちらへどうぞと言わんばかりだ。そして自分の体は当たり前だと言わんばかりにゆっくりと怪鳥に進んでいく。

 彼女の両手に自分の両手を合わせて、ぎゅっと握りこんだ。俗にいう恋人繋ぎを両手にしているような状態だ。顔を見合わせ、惚けているあかりを片目ににこりとまた笑った彼女に毒気を抜かれて、いつの間にか羽に包み込まれているのにも気づかず、退路を絶たれたはずなのに包まれて落ち着くなぁとしか思っていなかった。

 彼女の笑みにはそれ程までに全てを受け入れてくれる優しさがあったのだ。クラスの恋バナになんてついていけなくて、自分の心は常にどこかの世界へ飛んでいた。見ているものと心に思うものは常に別だった。小さな紫陽花の花を見てあっと驚くその瞬間だけはピントが合う、そしてすぐずれる。そんな生活をしていた。

 それが今は嘘のように瞳に映すものと心に思うものが合致していて、ズレたピントがピタリとあって動かない画面はなんて美しいのかと感動すら覚えた。ふと気づくと夕方になっていた。はっとして顔を上げるともう切なそうにこちらを見てくる。言葉が通じるのかわからないがまた来ますとだけ告げて家に帰った。彼女はすんなり手を離して、名残惜しそうに手を伸ばしたままだったことにあかりは気づかないまま走り去る。

 風呂の中でもご飯を食べてる間も惚けてしまっていて、親にはのぼせたのかと心配された。ある意味のぼせているようだ。何も手につかない。普段何度も同じ行動を繰り返しているからご飯、風呂、着替えて自分の部屋に帰ることができたが、心はずっと彼女ばかりみていた。

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