幽体離脱症候群の彼

友真也

第1話

「自分の体が自分のものじゃないような感覚に襲われる時があるんだ」

 私の体に、晩夏の暑さからなるそれとは違った汗が吹き出す。


 部活動を引退してから一週間ほどたち、いつも通りなんとなく校門前で合流した放課後、制服である白いカッターシャツを着た下校中、幼馴染の朱鷺ときは突然、棒状のコーンスナックを食べながら、空に放つように呟いた。


「それは最近よく聞く、性同一性障害のようなものなの?」

 ふと今朝のニュース番組で性転換手術についての特集が組まれていたことを思い出

 した私は、そんな駄菓子を食べながらも、凛々しい横顔を見せるアップバンクの髪をした彼に向かってそう言った。


 軽々しく聞けるような話の中身でも無いが、私と彼との付き合いは長い。

 赤子の頃からお互いを知り合っている。

 親しき中にも礼儀ありと言うが、向こうもSNSにあげたら炎上必至の、ラインを超えた発言を私に向かってすることも多いのでお互い様だろう。


「いや、佳鈴かりんじゃないんだしそれはない」


 そんなところはほんとサイテー。

 無表情のまままっすぐな目でそんなこと言わないでほしい。


「髪が短いからってそんな判断するのやめてよ。

 そもそも本当にそれで悩んでる人とか、悩んでなくても、それを誇りに生きてる人たちに失礼だし。

 運動するときに邪魔だからベリショにしてるって言わなかったっけ?

 それともそう思われるようなこと、私なんかした?」


 少し熱くなってしまったかもしれない。

 二人きりの会話じゃなければ非難轟々のものだろうが、彼は安心したような表情のあと、意地悪そうに笑う。


 そう見えたのが気のせいじゃなかったらいいのに。


 なんて思いながら、私は彼の最初の言葉を思い返す。

 彼の表情や発言は体になにか異常がある人間の振る舞い方ではなかったから、私はこのとき、彼のその言葉を聞いて垂れた悪い汗を、東京特有のヒートアイランドによるそれと思うようにした。


 とはいえ、あまりに脈略がなく、突然出てきた話を全く信じていないかと言われたら、そんなことはない。

 彼は本当に伝えたいことを、よく唐突に言ってくるから。


 少し間をあけて、彼は私の声に穏やかな言葉を返す。

「わかってるよ。

 バドミントン、本気で頑張ってたって知ってるから。」


 隠し味は真剣の、温かい笑みで。

 体内で地球温暖化が一瞬で進んだかのような錯覚に陥った。


 その笑顔が、その言葉をさらりと言ってのける君がほんと、好き。


 なんて言えるわけないし、このままでも私は十分幸せだからその気持ちは隠して、ただお礼を言う。

「あ、ありがとう」

 柄にもないけど。


「あと……」

「ん?」

「さっきのまくし立て方、パワハラのセンスあるよ」と彼は付け加える。


「ちがう!

 あとパワハラのセンスってなに?」

 冗談めかした彼の声に、私は思わず大きな声を出した。


「アッハッハ!」

 彼の大きな瞳が細まって、放たれた大きな笑い声が、体温の下がった私の体の中に響いた。


「いつからそうなったの?」

 私は話を本題と思わしきものに戻した。

「ん?

 ああ、二日前くらいからかな。

 二十四時間ずっと自分を上から見ているような、そんな感じ」


 彼の言うことを素直に受け取るとするのなら、それは心の問題よりはどちらかというと物理的に心身の違和感を感じているものなのだろうか。

 こうなった原因ももとを辿れば心にあるのかもしれないけど。


 昨日も今日も、朝から夕まで一緒にいたはずなのに、全くそんなそぶりを今まで見せなかった朱鷺は、私のカバンが乗った自転車をゆっくりと押しながら、淡々と話を進める。


「その、大丈夫なの?」

「さあな。

 少なくともいつも通り元気ではあるけど」

 言葉とは裏腹に普段よりも声は小さかった。


 仄かに吹いた風が私のスカートを揺らす。

 夏休みが終わっても、秋を知らないみたいにセミはまだ鳴き続けていた。

 蜃気楼は私たちの視界を妨げ、西に佇む大きな積乱雲はもうすぐ街全体を包み込もうとしている。


 遅れてやってきた夏バテなのかとも思ったが、そんな症状は一度も聞いたことがないので私はその言葉を抑えた。

「とりあえず寝たら?

 どうせいつも夜中までずっとゲームしてるんでしょ?

 睡眠不足でゲームと現実の区別がついてないんじゃない?」


 辛辣な言葉を最後に付け加えてしまうが、私には解決策はこれくらいしか思いつかなかった。

 医学的な知見を残念ながら持ち合わせているわけではない。

 寝れば治るは母の教えだ。


「げ、図星。

 今日も友達とゲームする約束があるんだけどな」

「朱鷺の家に上がり込んで、気絶させるのも辞さない覚悟だから」

 それを睡眠と言えるのかは微妙なところだが。


 しかし、もし原因が明白だったなら、私の心にかかった少し霧が晴れた気がした。

「はい、七時には寝ます」

「朱鷺は酒飲みのお爺さんか。

 ……とにかく、早く寝たほうがいい」


「心配してくれてありがとうな」

 絡まったような表情の朱鷺。

 このとき、なぜか私には彼が別れの挨拶をしたように見えた。


 僅かにはかなかった。

 気のせいだと、不安がみせた幻だと私は言い聞かせた。

 私は彼のカゴに載ったスクールバッグを持ち上げる。

「心配なんてしてないから。

 ……また明日ね」

「おう、またな」


 私は彼が家に入っていくのを確認して、彼の隣にある自分の家に入っていった。

 これでこの話は終わりだと、私は思っていた。


「ねぇちゃんー、風呂空いたよー」

「はいはーい」


 あ、もう九時か。

 私は小学校六年生の弟の呼びかけを聞き、デジタル時計に目をやり、シャープペンシルを置いて立ち上がった。

 隣の家の向かい合った部屋、朱鷺の部屋にはまだ明かりがついている。


 さっさと寝て、心配だから。


 夕食の塩焼きそばを食べ終わったあと、部屋にこもって英語の勉強をしていた私は、部屋のタンスから着替えを取り出し、家族の中で一番最後に風呂場に向かう。


 スマホを使えるのはこの時間だけとマイルールを課しているため、アイドルグループの缶バッジがいっぱいついている、革でできたスクールバッグから取り出す。


「ジップロックに入れてっと」

 私は十二段ある階段を小気味良く降りて一階の方へと向かった。


 新品みたいな白色をした四十度の湯船に浸かると、決まって私は音楽ストリーミングアプリ内の人気曲をシャッフルで再生する。

 話題のラップ調の曲が流れてきた。

 好きでも嫌いでもないが、よくこんな早口で歌えるものだなと感心する。


 普段ならここでストレッチも行うのだが、今日は部活がないので休憩。

 今日も、か。


「ふー」

 お風呂は一日の決算みたいで好きだ。

 気を抜いたら直ぐにでも寝てしまいそうなので、頭の中を動かす。

 私は今日起きた出来事を反芻はんすうしていた。


 その中にはもちろん、彼との下校中の話も含まれていた。

「なんて言ってたっけ……」


 お風呂で呟いた声は反射して、頭の中にもう一度入ってくる。

 私は半分無意識に、

『心 体 離れる』、と検索した。


 お風呂の中は少しばかり電波が弱いので、効果はないとわかっているものの、なんとなく携帯を上下左右に動かす。

 青いゲージが一番右まで行くとパッと検索結果が画面に表示された。


 サイトが優秀かどうかなんてなんてわからないので、とりあえず一番上にあったものをタップしてみる。

『現役医師が解説 心と体の乖離について』

 現役医師って言ってるし、とりあえずこのサイトでいっか。


 スマホを下に向かってスクロールする。

 ……んー、これは絶対に違うし、これな訳もない。

 彼が参っていたら必ず私に相談するから多分精神的な系統のものじゃない。

 この前は英検の前日に緊張して電話してきたし。

 両親との悩みも言ってくるほどだから、私に相談をしていないのはつまり大丈夫と言えるだろう。


 原因不明のままか、と思いながらしばらく携帯をスライドしていると、一番最後に出てきたそれに、私は思わず目が奪われた。


「幽体離脱症候群?」


 原因不明、症例極小、療法未知。

 スクロールする指は恐怖で震える。

 主な症状は、幽体離脱のように魂が体の外に出てしまうこと。

 彼が言っていたのと同様だと思っても過言ではない。


 いわゆるの奇病の一つらしく、そもそも患者が少ないため、ほとんど何の研究も進んでいないので診断もできないことも多い、というよりも知っている医者が少ないようだ。

 そしてたとえ診断できたとしても治療法は存在しないらしく、自然治癒を待つしかない。


 回復した例もないみたいなのに。

 お風呂の小さな波紋が、台風の日みたいな荒波に感じられる。


 見たくないのに、見なければいけない。


 そんな矛盾に近い義務感をを抱えながら読み進めていくと、私は思わず目を逸らしたくなるような記述を見つけてしまった。

「嘘でしょ……」

 声が漏れる。


『最大の特徴は、罹患者の一番の望みが叶えば、心を繋ぎ止める理由がなくなって、命がなくなってしまうことです』

 一番の望み……

 私はすぐに左に一度携帯をスライドしたあと、細長いバーをタップして今度は『幽体離脱症候群』と検索した。


 無慈悲にも全てのサイトで結果が同じだったことは言うまでもない。

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