第5話 また明日

「なに、この点数」


 聞かせるための溜め息を吐いて、母は手に持った紙束を机に投げ捨てた。


「どうするの? これじゃあどこの大学にも受からないわよ。どうして真面目に勉強しないの。お母さんへの当て付けのつもり?」

「…………」

「また黙るの? ……本当、どうしてこうなっちゃったのかしら」


 母は、自分がいかに親として家庭を守り、教育に腐心しているかを説く。

 そして、それに応えない俺の不出来と、報われない己の不幸を大袈裟に嘆いた。

 いつものことだ。

 俺は努めて、冷たい雨のように降り注ぐ言葉を聞き流す。

 反論などしようものなら、更に何十倍もの非難が濁流のように襲い来ることはわかりきっていた。


「いい教育を受けさせたい」

「選択肢を増やしてあげたい」

「あなたのために言ってるのに」


 事あるごとに母はそう繰り返したが、そこには俺の意思も心も関係ない。

 ただ、劣等感に起因するであろう見栄とプライドがあるだけだ。

 それに気づいたのは、いつからだったろう。



 遊んでもらった記憶は、ほとんどない。

 昔から、母はいわゆる『教育ママ』で、俺はずっと勉強することを強いられていた。

 成績が良ければ褒められて、悪ければ怒鳴られる。親の愛は、いつも条件つきだった。


「あの子と関わるのは止めなさい。あなたまで馬鹿になる」


 俺にとっての友達は、母にとっては比較すべきライバルで。


「……映画? くだらない。時間を無駄にしないで」


 心を打つ娯楽作品は、忌むべき不要物で。


「ろくな大人にならないよ」


 不満や弱音を漏らせば、母は決まってそう言った。

 だけど、期待されることを嬉しく、誇らしく思う気持ちもあった。

 俺は、俺なりに精一杯、それに応えようとしていた。

 高校入試、地元で一番の進学校に合格を決めた時、母は言った。


「お母さんのお陰ね。恥かかずに済んで安心した」


 その時、わかった。

 俺は母の所有物だった。

 自分じゃなく、母の人生を生きていた。


 この先もずっと、こうして生きていくのか?

 『ろくな大人』になるため?

 ろくな大人ってなんだ?

 俺が、本当にやりたいことは?


 春が来て、高校生になった俺は勉強を止めた。

 反動みたいに、あっと言う間に勉強についていけなくなった。

 母は怒り、泣き、脅し、懇願し、やがて俺を見限った。

 高校生にもなると、母の背丈も追い抜いて、絶対的だった親の存在も脅威ではなくなっていた。

 それからは、時折、思い出したように親不孝を責められるくらいになって、それも黙っていれば終わった。

 落ちこぼれた成績と引き換えに、友達もできた。

 少しだけ、息をするのが楽になった。

 きっと、やりたいことも見つかるだろう。

 やっと、自分の人生が始まった気がした。



『恐らく8月いっぱいだろう、と言うのが国連の見解だそうです』



 世界の終わりは、唐突に、笑えるくらい呆気なくやって来た。

 夏休みが始まった頃だった。


 ニュースを読み上げるキャスターも半信半疑の珍妙な顔をしていて、それがむしろ異常事態を象徴しているようで、酷く不気味だったのを覚えている。

 詳しいことはわからない。

 とにかく、世界中で科学者だの宇宙の研究者だの、様々な専門家が必死に調べて、スーパーコンピュータが何度も計算し尽くした結果が、地球の滅亡という冗談みたいな現実だった。

 最初は誰も本気にしていなかったが、連日の報道が煽った不安は、テレビが変わり果てた海を映し出した瞬間、爆発した。

 目に見える異常、差し迫った脅威が持つ力は絶大だった。

 恐怖に駆られて、誰もがパニックを起こした。


 流言、デマ、陰謀論。

 宇宙人の侵略である、と一般人が騒いだ。

 アジアは真っ先に消え、ヨーロッパに行けば助かる、とワイドショーが報じた。

 アメリカが仕組んだ狂言である、と政治家が吠えた。

 人類を間引く惑星の自浄作用である、と精神異常者が笑った。

 選ばれし者を選別して救う方舟がある、と宗教家が祈った。


 情報は錯綜し、根拠のない噂に踊らされ、車に荷物を詰め込んで逃げようとする者も大勢いた。

 両親も、早々に避難した。

 俺はついていかなかった。

 だって、地球が丸ごと滅びるというのに、いったいどこに逃げようっていうんだ?


 ……これが、『ろくな大人』なのか?


 誰もが冷静ではいられなかった。

 どこも酷い状態で、ほとんどの人間が町からいなくなった。



 *



 ひとりの生活は思いの外、快適だった。

 日用品や食料はスーパーやコンビニに十分過ぎるほどあったし、面倒な支払いや契約なんかは、混乱した社会においてはもはや機能していない。

 当初は変化した生活や社会に抵抗や戸惑いもあったが、さすが、人間というのは環境に適応していく生き物らしい。すぐに気にならなくなった。

 それに何より、今は俺にとってはじめての、自由な夏休みだった。

 どうせ死ぬのなら、最後くらいはそれを楽しみたいと思った。

 いつか見た、青春映画のように。

 この時の止まった世界で。

 俺は残った友人たちと、思いつく限りの遊びをすることに決めた。



 *



「よ、榎本。今日は何する?」


 集合場所の公園につくと、挨拶代わりに片手を上げて、春日井が暢気に言った。

 夏休みデビューで染めたボサボサの金髪が太陽光に透けている。

 もう昼過ぎだというのに眠そうなのは、どうせ昨夜もゲームに勤しんでいたんだろう。

 こいつは先週、中古ゲームショップから大量に持ち帰った往年の名作をプレイするのにハマっている。

 スポーツ推薦で入学した春日井は、勉強をやめた俺と同様に、

 部活に追われないはじめての夏を満喫しているようだった。


「あー、どうするか」


 俺は頭を掻いた。

 昨日はボウリング。

 その前はゲーセン、プールにキャンプに、バーベキュー。

 そんな風に一通り遊び回って、もう三周はしただろうか。


「……流石にネタ切れだよな」

「何しても金がかかんないのはいいけど、飽きだけはどうにもね」


 欠伸を噛み殺しながら、春日井が言う。


「女の子でもいたら、新鮮で華やかなんだけどねえ。……あーあ、このまま彼女ナシで死んでくのか、オレはぁ」

「お前、彼女欲しいの?」

「そりゃそうだよ。高校生で夏休みとくれば、女子と夏祭りデートに決まってんだろー」


 決まってはないと思うが。

 春日井は熱弁をふるう。


「ふたりでグループからはぐれて!下駄の鼻緒が切れておんぶして! 神社の境内で花火に掻き消される淡い告白だろうが! なあ榎本、わかるか!?」


「ああ。お前が昨夜やったゲームが恋愛シミュレーションだったってことは」


 それも、夏が舞台の。

 こいつはとにかく影響されやすい。

 先週は格ゲーに夢中の春日井に付き合わされて、俺は毎日ゲーセンに入り浸るハメになった。


「はぁ。憧れるよなぁ、夏祭り。浴衣姿の女の子」

「祭り、か……。でも人数いないとできないからな」


 今年はどこも開かれないだろう。


「海もナシ、祭りもナシ、彼女もナシ。せっかくの夏だってのにさ」


 ブランコに座る春日井が大袈裟に仰け反る。

 チェーンが軋み、がちゃりと音が鳴った。


「あ!」


 空を見上げたまま、春日井が大声をあげる。


「いいこと考えた!」

「いいこと?」

「花火だ!花火、やろう!」


 言いながら春日井は大きくブランコを漕いで、勢いのままに飛び降りる。

 俺はその背中に声をかけた。


「……花火はもうやっただろ」


 三回もやった。

 花火。夏の風物詩であり、もはや代名詞と言ってもいいくらいだ。

 思いつかないはずもない。

 しかも、今では店からも取り放題。

 ロケット花火だろうが線香花火だろうが、何十本でもまとめて遊べるし、どこでやっても怒る奴はいない。片付けだって、必要ない。

 遊ばない手はなかったが……かといって、ひと夏に四回もやるほどのものでもない。


「は?」


 春日井が驚いたように振り返り、言った。


「バカ!手持ちじゃねーよ、マジのやつ!」

「マジのやつ?」

「打ち上げ花火やるんだよ!」

「え」


 三尺玉だ、と春日井が叫ぶ。


「…………バカはお前だろ」


 前言撤回、俺は呆れた。





 想像に反して、本物の打ち上げ花火を手に入れるのは随分と簡単だった。


 町外れの製造工場はもぬけの殻で、倉庫の中にはこの夏に打ち上げる予定だったであろう、スイカほどの大きさの花火玉が大量に残されていた。

 爆発物を取り扱うだけのことはあって、倉庫は強固な鉄筋コンクリートに囲われている。

 落雷対策に避雷針まで立つ念の入れようだ。

 鍵は無造作に事務室に残されていた。



 倉庫に入ると、火薬の匂いがした。

 花火玉が並んだ棚は、種類毎にラベルで整理されているが、細かい違いはわからない。


「こんなにデカイと、いくつも持って行けないな」

「ひとり二発、合計で四発ってとこだね」


 玉を物色しながら春日井が言う。


「小規模だな」


 大きさこそスイカだが、スイカよりもかなり重い。

 これは思いの外、重労働だ。


「じゃあさ、往復して花火大会開いちゃおうぜ」

「たったふたりでかよ」

「花火上げたら目立つから、まだ町に残ってる人も集まるかも」

「集めてどうするんだ?」

「彼女探す」

「お前、本気の目だな」


 生憎だが、そこまで付き合う気力はない。

 それに、いったい何人がまだここに残っているんだろう。

 俺たちの仲間も、どんどん減っていった。


「車でもあったら運ぶのも楽なんだけど……」

「運転できないからな、俺ら」

「岡原んとこも、避難しちゃったしね」

「……ああ」


 車が用意できたとしても、事故って花火ごと大爆発するのがオチだ。

 もし、大の車好きだった岡原が残っていれば、花火大会も実現できたかも知れない。

 倉庫内のじっとり絡みつくような暑さに汗が滲む。

 それきり、俺たちは黙って花火を物色し、気に入った玉をリュックに詰めた。



「あのさ、榎本」

「ん?」


 工場を後にした、鮮やかな新緑の並木道。

 ふいに春日井が、能天気なこいつにしては珍しく、言い淀みながら俺を見た。


「恨んでる? 逃げちゃった奴らのこと」

「……いいや」


 別に、恨んじゃいない。

 生きたいと願うことも、僅かな可能性に賭けることも、最後の時を家族と過ごしたいと思うことも、 間違っていないだろうから。

 仕方のないことだとわかっている。

 ただ、俺はこの町を出る気にはなれなかった。

 春日井はしばらく逡巡した様子で黙っていたが、やがて明るく口を開いた。


「あいつらにも見えるくらい、ド派手に打ち上げようぜ」

「……つーか、何も決めてなかったけど、どこから上げるつもりなんだ?」


 花火には詳しくないが、ある程度の広さや安全性が確保できなければならないだろう。

 イメージでは川沿いか浜辺といった水場の近くだが、川も海も今はもうない。


「学校」


 春日井は短く答えた。


「学校? 何で?」


「高台にあって遠くからも見やすいだろうし。……それに、なんかスカッとするだろ。あんなお行儀のいい進学校サマの校庭で、花火なんか打ち上げたらさ!」


 絶対、史上初だぜ。と春日井が笑う。

 想像してみる。

 確かにそれは、気持ちいいかも知れない。


「……あ」


 その時、地面に一滴の染みが落ちた。

 それから徐々に勢いを増して、隙間なくアスファルトを色濃く染めていく。

 湿り気を帯びた、独特の匂いが鼻を掠めた。


「雨、マジかよ」

「花火濡らすなよ!」


 俺たちは慌てて、誰かの家の軒下に滑り込む。

 天気予報もなくなって久しい。だから、たまにこういうことになる。


「嘘だろ、なんでこんな日に限って」


 春日井が呆然と呟く。


「こりゃ花火は延期だな」

「……無理かな、やっぱり」

「無理だろ」


 雨はどんどん強くなっていく。

 しばらく雨宿りするしかなさそうだった。


「ま、別に今日じゃなきゃダメってこともないだろ。残念だけど、またの機会にしようぜ」

「…………」


 春日井は答えなかった。


 沈黙が続く。


 本当は、春日井の様子がいつもと違うことに気づいていた。

 でも俺は何も言わなかった。

 何もできないから。

 止まった時間の中を遊び回って、平気なふりをしていても、それは必死で現実から目を逸らしているだけだ。

 皆、そうだ。

 俺だって。


 独りの夜。

 何気ない沈黙。

 未来の話をする時。

 ふとした瞬間、絶望が押し寄せてきて、吐きそうになる。

 焦燥に叫びだしそうになる。

 恐怖に気が狂いそうになる。


 ……俺は死ぬ。


 俺は死ぬんだ。

 今、俺がマトモなふりをしていられるのは、醜い大人たちのようにはなりたくない、そんなちっぽけな見栄に過ぎなかった。


 ザァザァと降り注ぐ雨音だけが、この場を支配していた。

 どれくらいの時間そうしていただろう。

 やがて、小さくため息が聞こえた。


「……しょうがないか」


 春日井は力なく笑い、言った。


「じゃあさ、花火、榎本が預かっといてよ」

「はぁ? 何でだよ」

「だって怖えじゃん? 火薬のカタマリ持って帰るの」

「俺だって怖いっての!」


 押し問答の末、結局俺が預かることになった。

 結局、その日の雨は止まなくて、俺たちはコンビニの適当なビニール傘をさして、家路を辿った。


「じゃあ、また明日な」


 別れ際、春日井が言った。





 翌日。

 いつもの公園に、春日井は来なかった。

 別に珍しい話じゃない。

 俺たちの約束はいつも曖昧なもので、どちらかが寝坊することもあれば、すっぽかすことだってよくあった。

 ただ、何となく予感した。

 きっと春日井はもう、ここへは来ないんじゃないか。

 そんな予感。


 別に、珍しい話じゃない。

 身近にいた奴がいなくなること。

 この夏。何度も、経験してきた。

 珍しい話じゃないが、慣れるものでもない。


 次の日、やっぱり春日井は現れなかった。

 その次の日も。

 次の日も。

 次の日も。



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