夏ノ桜にゆびきりを
StudioCyan
第1話 プロローグ
学校へ行こう。
朝、目を覚まして、いつも通りにコーンフレークを食べながら、そう決意した。
夏休みが始まった頃の俺が聞けば自分の正気を疑うところだろうが、今となっては至極、当然の流れだ。
理由は単純。
思いつく限りの娯楽はとっくに遊び尽くしてしまったこと。
そのため暇を持て余し、長い休みに飽き飽きしていること。
あとは、今日は天気が良かったこと。
とにかく。不思議なもので、あれほど待ち焦がれていたはずの休みに、今はもうウンザリしていて。
何となく学校が恋しくなった。それだけのことだ。
休みなんてのは、長ければ長いほど嬉しいものだと思っていたが、平日がなければ休日だってないのと同じである。
つまるところ、ある程度の不自由こそが本当の自由を輝かせるってことなのかも知れない。
そういう意味では、今の俺はあまりに自由で、だからこそ不自由だった。
それに、強制されたならば誰が好き好んであんな場所へ行くものかと思うが、こっそり忍び込むとなれば話は別だ。
学校は嫌いだが、学校には魅力がある。
そんなわけで、俺はこの最後の日にこそ、あえて登校してみることに決めたのだった。
私服でも構わなかったが、雰囲気にこだわって、一応、制服に着替える。
外に出た瞬間、後悔した。
「……あっつ」
質量さえ感じるほどぎらぎらと鬱陶しく照りつける太陽に辟易する。
一瞬にして既に気力や体力といった生命力みたいなものを根こそぎ奪われたような心地だった。
背負った荷物が嵩張るうえに、重たいのが実にいただけない。
遠くで鳥が羽ばたく。
陽炎が揺らめくアスファルトに一歩、踏み出す。
目標はひとつ。
今日という日を精一杯、楽しむことだ。
こうして、俺の夏休み最終日は始まった。
*
校門も昇降口も、鍵はかかっていなかった。
好都合だ。
一応、下駄箱で靴を履き替えて、校内へ入る。
昼間といえども、誰もいない学校は酷く静かで、少しばかり不気味だ。
当たり前だが、どこの教室にも人っ子ひとりいやしない。
運動部の掛け声も、吹奏楽部が鳴らす練習の音色も聞こえなかった。
大して気に留めたこともなかったが、ないならないで寂しいものだ。
こうして歩いてみると、それなりに広い校舎には馴染みのない場所も多いことに気づく。
自分の教室と、特別教室棟と、あとは体育館。
その辺りを往復しているだけで、学校生活での活動範囲は存外、狭い。
他のクラスや職員室なんて、まじまじ観察する機会もそうそうなく、興味深かった。
博物館でも見学しているような感覚だ。
とはいえ、やはり博物館みたいなもので、すぐに退屈が勝る。
大して面白いものがあるわけでもない。
結局、一時間もすれば俺は教室の自席に座り、何ともなしに外を眺めては感傷に浸ることになった。
そして、それにもすぐ飽きた。
どうしようもない焦燥だけが腹の底で渦を巻く。
何かやりたいことがある気がする。
やらなければいけないような気がする。
でも、それが何なのかは、まったくわからなかった。
ここ最近は、ずっとそうだ。
だから、こうして学校なんかに来ているのかも知れない。
今夜、俺の目的が達成されたなら、何かわかるだろうか。
何か、変わるのだろうか。
「……これが夏の魔力か」
呟いて、無理矢理に飲み下す。
何とも恥ずかしい独り言だった。
夏は人を詩人にする。
全部、このクソ暑い夏のせいだ。
誰にともなく言い訳をした。
さて、夜までどうやって時間を潰そうか。
「…………?」
ふと、微かな物音が聞こえた。
隣の教室からだろうか。
これは、鼻歌?
誰かいるのか?
廊下へ出て、隣の教室を覗いてみる。
瞬間、時が止まったかのように錯覚した。
窓から射す木漏れ日が埃に反射し、幾筋もの光の柱となって降りそそぐ。
その中心に、女の子がいた。
綺麗な姿勢だった。
久しぶりに目にする、けれど見慣れた制服に身を包み、背筋をすっと伸ばして、手元のノートに何事か書き連ねている。
伏し目がちに俯く目元に、長い睫毛が淡く影を落としていた。
完全に集中しきった様子の彼女がこちらに気づく素振りはなく、俺はただ呆然と見惚れ続けていた。
数秒か、あるいは数分はそうしていただろうか。
不意に顔を上げた彼女と目が合う。
我に返り、緊張で身体が強張った。
「おはよ」
「…………ああ、おはよう」
普通に、挨拶された。
俺は慌てて言葉を重ねる。
「あー、俺は怪しいもんじゃなくて、その……隣のクラスの」
「榎本くん」
「そう、榎本。え、知ってんの?」
「うん。結構、目立ってたし」
「あ、そう……」
それは良い意味でか、悪い意味でか。
激しく気になるところだが、聞くのが恐ろしい気もする。
「私、秋野。よろしくね」
「あー……秋野ね、よろしく」
隣のクラスだからだろうか、見覚えはなかった。
こんな女子生徒が、果たして同級生にいただろうか?
白い肌。
艶やかな濡れ羽色の黒髪と瞳。
目立つという表現において、俺が彼女に勝っている部分など、およそ見当たらないように思えた。
「今日はどうしたの?」
「えーっと……散歩っつーか、探検、かな」
要領を得ない俺の答えに、秋野は手を止めて「なにそれ」と首を傾げた。
「母校を、探検?」
「いいだろ、別に。母校を探検したって」
ぶっきらぼうに返答する。
人と会話なんてするのは久しぶりで、調子が狂う。
というか、当たり前のように雑談をしている事実に混乱していた。
幻想的な謎の女の子と、このシチュエーション。
もっとこう……ドラマティックな展開を勝手に想像していたせいかも知れない。
「そういう秋野こそ、何してんの?」
ばつが悪くなり、質問を返す。
「私? 普通に、勉強」
ほら、と秋野は机に広げていた分厚いテキストを持ち上げ、表紙を俺に見せた。
真っ赤な表紙が特徴の過去問題集、大学入試シリーズ。
通称、赤本。
「は、勉強!? 学校の?」
「うん。受験勉強」
「……マジかよ」
言葉を失う。
それは、あまりにも普通だった。
ふと、沈黙を裂くように鐘の音が響いた。
何年も、飽きるほど聞いてきたチャイム。
でも今は少し懐かしい。
……もう昼休みの時間か。
秋野は慣れた様子で道具を片付けると、そのまま席を立った。
「帰るのか?」
「ううん。仕事があるの」
「仕事」
「そう、仕事」
「花に水をあげるの」
なんだそれ。
……委員会活動?
*
ご丁寧に靴を履き替えて、渡り廊下から中庭へ出る秋野。
俺も興味本位で後に続く。
「…………」
彼女は一瞬こちらを見たが、特に何も言わなかった。
長方形の花壇は校舎に沿うように作られていて、近づくと、俺の曖昧な記憶よりも随分と大きい。
花は咲いていなかった。
ただ、いくつか芽が出ていた。何の花かはわからない。
秋野は迷いのない足取りで隅のホースを引っ張り出し、水を撒いていく。
やっぱり、変な奴だ。
来なくてもいい学校に来て、しなくてもいいことをしている。
「あのさ、」
声に出してから、躊躇う。
あまりに真剣な……鬼気迫るとさえ言えるような顔つきで水やりをする姿を前に、「それ何の意味があんの?」と質問するのは、さすがに憚られた。
秋野は手を止めず、こちらを見た。
俺は代わりの質問を捻り出す。
「なんで、勉強してたの?」
「学校で勉強してたらおかしい?」
「あー、うん……そう言われると、おかしくない、のかな」
いや、しかし。
「課題も終わったから、自習してるだけ」
「榎本くんは、もう終わったの?」
「やってないし、やる予定もないって」
「課題はちゃんとやらないと」
秋野は当たり前のように言った。
正論だ。
しかし、俺には目の前にいる秋野が、宇宙人のように見えた。
……勉強って。
「まさか、夏休み中ずっと勉強してたのか?」
「ずっとではないよ。ごはん食べたり、寝たり」
「あとは……水やりしたり」
それはつまり、ずっと勉強していたということだった。
「……正気かよ。今日、最終日だぜ?」
意味がわからない。
毎日、誰もいない学校に来て、そのうえ自習までこなしていたとは。
「べつに、正気だよ」
淡々と、秋野は答える。
感情は読み取れなかった。
「でもさ、せっかくの夏だろ」
「最後の夏休みの思い出が勉強だけなんて、いくらなんでも寂しくないか」
「寂しい?」
「そう。それとも、そんなに勉強が好きなわけ?」
「……好き?」
俺の質問に、秋野は虚を衝かれたように目を丸くした。
「そんなの、」
そして、しばらくの思案の後「考えたこともなかった」と零す。
「……ただ、やるべきことだから」
「やるべきこと、って。今、この状況でも?」
「それしか、出来ることないから」
そう答える秋野は、迷子のように所在なさげで、何だか今にも消えてしまいそうに見えた。
「他に何かないのかよ、やりたいこととか……やり残したこととかさ」
質問を重ねる。
何故だか、どうにか秋野の望みを聞き出して、ここから連れ出さなければいけないような、 使命感みたいなものがあった。
「そんなの……べつに」
「思いつかないよ」
だったら、と秋野は俺の目を覗き込む。
「榎本くんにとって、今は何をするべき状況なの?」
俺は即答した。
「そりゃあ、遊びだよ、遊び」
「楽しいことをやり尽くすんだ」
浅はかな答えに呆れたのか、秋野は「ふぅん」と小さく息を漏らす。
それから、しばらく考え込んで、無表情に言った。
「勉強しないと、ろくな大人にならないよ」
勉強、ろくな大人、ね。
俺は鼻で笑う。
「ろくな大人なんて生き物、生まれてこの方見た覚えがない」
親も、教師も、政治家も。
口では綺麗事を言っていても、結局は全員、自分のことしか考えていなかったじゃないか。
「…………じゃあ、」
俺の暴言に再び目を丸くしながら、何かを試すように、秋野は言った。
「勉強を、しなくていいなら……」
「私は何をするべきだと思う?」
「デート」
俺は咄嗟に答えていた。
秋野の手が、初めて止まった。
「え?」
「秋野、俺とデートをしよう」
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