2.ここはどこ、あなたはだあれ(1)
私があまりに状況を飲み込めていないせいか「エクレシアは気が触れた」と思われてしまったらしく、周囲の眼差しがさらにぐっと冷え込んでしまった。
もはや不審者を相手にするように、駆け付けた衛兵に両側からがっちりと押さえられて、屋敷から摘まみ出される。
まるで握手会の剥がしのような問答無用ぶり。……あの、仮にもついさっきまで婚約者だったんですよね?
外に放り出された私の前に、後を追ってきた屋敷の人がトランクケースをそっと置いた。それは優しく扱ってくれたからではなく、汚物をつまむようにしていた故のことだった。
「以後、スピーナ邸の敷居を跨ぐことを禁じます」
そう淡々と告げられる。
彼女が屋敷に戻っていった後、扉が閉まるのと同時にトランクケースがぱたりと倒れた。一方の私は、倒れるどころか未だに呆然としたままだ。
門を守るように並ぶ衛兵がじっと視線を向けてくるのが居心地悪くて、ひとまずこの場を離れることにした。
「一体なんだって言うのよ……というかここどこ……?」
ものすごく軽いトランクケースを引きずるように両手で持ち、トボトボと当てもなく歩く。
当然異国の土地に放り出されたような気分。いえ、むしろ文字通りそのもの。周囲の景色が中世ヨーロッパ風だという知識があっても、だからどうしたという状態だ。
屋根の見える方へ、人の声のする方へ。憎らしいくらいに穏やかな風とすれ違いながら石畳の上を進んでいくと、やがて大通りに出た。
にわかに喧騒が大きくなったように感じて、思わずびっくりして立ち止まる。日本もここも、通り一本違えば雰囲気が変わるのは同じみたいだ。
おそるおそる、足を踏み出した。
「あのう……」
八百屋の店先で井戸端会議をしている人に声をかけてみた。けれど、そこで言葉が出なくなってしまう。
一体何を訊けばいいの? 「ここはどこ?」と聞いて「シラナイバーショ」と教えてもらってもどうしようもないし、「あなたはだあれ?」と聞いて「ヤマダハナコデース」と教えてもらっても何も進展しない。まして「私はこれからどうすればいいですか?」なんて、逆の立場からしたらそれこそ不審者だ。
「えっと、あの、その……」
壊れた機械みたいにしどろもどろになっている私を、かわいそうな人を見るような目で訝しんでいた女性は、隣の女性から何かを耳打ちされるとハッとしたように目配せをし合った。
「あらやだいけない、お夕飯の買い物をしなきゃならないのでしたわ!」
「そんなわけでごめんなさいね、私たち忙しいの。お、おほほほほ!」
取り繕ったような、慣れていなさそうな言葉遣いで捲し立てて、二人はそそくさと立ち去ってしまった。去りながら、何度もちらちらとこちらへ振り返っては何かを囁き合っている。
ふと、別の方向から話し声が聞こえた。
「ねえ、あの人って例の……?」
「ああ、クロード様に婚約破棄された……」
さらに別の方向からもひそひそとした声が風に乗ってくる。
「……何でも浮気をしていたらしいぞ」
「そうだっけ? 着服だって聞いたけど……」
なるほど、どうやら
「(……根回しがお上手なことで)」
町に間諜を放って噂を流布させるといった策は、歴史モノなんかでもよく見る手だ。少なくとも、こうした手を回せるくらいにはクロードに対する民心は高いらしい。
もっとも、浮気をしたのはそのクロード様とやらの方なんですが。
「(この調子だと、実は着服もやってたりして)」
どうでもいいけど。
期せずして注目の的となったのは面倒だけれど、表立って襲われたりしないのなら一旦は捨て置いてもいいかもしれない。こちとら現代社会の女子コミュニティで揉まれてきたんですもの、この程度そよ風同然。
割り切ったら足取りも軽くなってきた。そうだ、観光と思えばいいんだ。
「まずは生活インフラの確保だよね。家……は多分あのお屋敷だったのよね。だと、宿の確保?」
日はまだ高い。体感としては昼下がりかもう少しというくらい。
噴水広場まで辿り着いた。きらきらと日光を反射して、ちいさな虹がかかっている。水は思っていたよりもずっと綺麗で、周囲を見渡しても目立ったゴミなどはない。領主はあんなだけれど、治安はいいのかもしれない。
「……さすがに飲めはしないよね?」
水面を覗き込みながら苦笑した時、ふと、水に映る
赤い髪の快活さによく似合う、宝石のような翡翠色の瞳。睫毛は長くて、笑った時のほうれい線なんかも全然目立たない瑞々しさ。羨ましい……連日の残業とエナドリとお酒でボロボロの誰かさんにわけて欲しい……ああそうか、今は私が
きっとエクレシアは、とても素敵な子なのだと直感した。薄めのお化粧でここまで品よく仕上げられるのは、素材の良さだけじゃあ無理。
「まったく、こんな子から浮気するって、あいつの目ん玉はどこに付いてるのよ」
ねえ? と水鏡越しにもう一人の私と頷き合って、顔を上げる。
噴水の周りに配置されたベンチのひとつに腰かけて、私はトランクケースを膝の上に載せた。今は少しでも手掛かりが欲しい。
「さてさて、エクレシアさん、あなたはだあれ?」
がらがらのケースの中には、まず着替えが二セット。
「うわぁ乱暴に詰められたせいで皺になってるぅ……」
ったくあいつらめ。仮にも貴族に仕える者ならプロの仕事をしろっての。
とりあえず、エクレシアと服の好みは合いそう。動きやすさ重視。バリエーションはアウターで幅を持たせるタイプ。メモメモ。
「こっちはメイク道具で、ええと、こっちはジュエリーボックス……じゃない、オルゴール? わ、綺麗な音!」
蓋を開けた弾みにポロンと鳴った一音だけで、心が落ち着くような気がした。
ジュエリーボックスとオルゴールとが一体化したもののようで、収納スペースには慎ましやかなネックレスが丁寧に畳んで仕舞われている。
「下に引き出しがある……?」
鍵がかかっているみたいで、開かない。けれどネックレスを掻きわけても、トランクを引っくり返しても、鍵らしきものは見当たらない。
体をぱたぱたと叩いてみる。つい手癖で、スーツを着ていた時のように内ポケットの位置を叩いた時、胸元に何か固いものの感触があった。
引き抜いてみると、首にかけていたロケットペンダントだった。開いてみると、中から小さな鍵がポロリと転げ落ちた。
「わわっ、あぶないあぶない……」
危うく失くしてしまうところだった。ロケットは元々聖像や薬入れとして用いられてきたらしいから、そこに鍵を隠せばこうなるのも無理はない。
拾い上げた鍵をそっと鍵穴にあてがうと、ぴったりと嵌まった。なんだか急に緊張してきて、鍵をつまむ指先に力が入る。
カチャリ、と音を立てて、ジュエリーボックスの引き出しが開いた。
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