第18話


 月光が頭上から降りそそぎ、心地の良い風が吹く。

 良い夜だ、とアイシャは思った。春も半ばを超えたテュシアの夜は動きやすくていい。流れる汗に気を使う必要も、白い息を目立たなくする必要もない。

「殺すにはちょうどいい日だ」

「誰を、ですか?」

 アイシャはぴたりと足を止めた。手の中でダガーをくるりと回す。

 目の前から歩いてくる闇の化身のような男を見て、彼女はかすかに笑った。

「あたしが殺したいと思ってる奴なんて、そう何人もいないだろうさ。分かってるんだろ? あんた、あの男の従者だもんな」

「それなら、あなたもよくご存知のはずだ。主人の命を狙われて、抵抗しない従者がいるはずもない」

 すらりとナギの手元から、銀色に輝く細い刃が現れる。鞘に手を置いたまま、男はアイシャの直線上で足を止めた。

「逆に問います、アイシャ殿。あなたの主人はルゥルゥ・クレイディ伯爵令嬢なのでは?」

「は? 当たり前だろう。あの子以外を主人になんかしないよ」

「彼女は、私の主人を殺せば、あなたを許さないと仰っておられましたが」

「そうだな、それで?」

 アイシャは手の中でダガーを回す。

 くるり、くるり。

「主人がいくら望んでいなくとも、たとえ自分が処罰されようとも、主人のために行動するのが従者だろうが。あんたは違うのか?」

 くるり、くる、くる。

「知ってるぜ、呪い憑き。あんたが奴隷として、あの男の食物として王宮に買われたこと。だが、あんたの体に住まう呪いのせいで血は飲めたもんじゃねえ。不要なものとして打ち捨てられそうになったあんたを、あの男が引き取って、傍においていることもな」

「……よくご存知で」

「お嬢の婚約者の周りくらいは調べるだろ。まあ、調べたのはほとんどお嬢の親父から借りた密偵だがな。これがまた、使い勝手が良くて助かる。あのタヌキ親父も役に立つもんだ」

 ナギはあからさまに顔をしかめた。

「よくもまあ、自分の仕える家の主人をそのように……」

「家? はははっ、言っただろ、あたしの主人はお嬢一人だ。他は全部、世界も含めておまけなのさ」

 くるくる、くるり。

「だから、お嬢を損なうもの全てが敵なんだよ。お嬢の血を飲みやがったあの男も、王子だからってあの男を生かさず殺さずとっておいてるこの国も、一度の恩に忠誠誓ってお嬢への加害を止めもしねえあんたも。被害者の面してお嬢から搾取し続けるもの全て、あたしの敵だ!」

 アイシャの手からダガーが消えた。ナギが反射的に手を振るった先、きぃんと高い音がして、ダガーが宙へ弾かれる。

「っ……!」

 じんと痺れた手首をくるりと返して、ダガーの衝撃を殺した。アイシャはひゅうと口笛を鳴らす。

「なんだ、割と夜目が効くんだな、あんた」

「……被害者面なのは、どちらだか」

「あ?」

「あなたの主人であるご令嬢が、いつ、あなたにそんなことをしてくれと頼みました? 狂犬と呼ばれるのも頷ける。あなたが殿下を殺したが最後、あのご令嬢は、責任を取って首を縛られるのでしょうね」

「そんなこと、あたしがさせねえよ。何があったってお嬢を守るって約束したんだ。世界の果てまでだって、お嬢を抱えて逃げてやる」

 ナギの唇が、かすかに悼むように歪んだ。

「ますますご令嬢が可哀想だ。当人を抜きにした約束の中で、自分の人生が決められているのですから。愛情だと言い聞かせて子供を殴る親と、一体何が違うのでしょうか?」

「……なんだと?」

 アイシャは瞳に警戒の色を滲ませた。この男、何を知っている?

「もちろん予想しておられると思いますが……アイシャ殿、あなたのことも調べさせていただきました。呪い渡りに仕える楔の一族の一人、アイシャ・ハーフィズ。あなたの言う『約束』とは、クレイディ伯爵令嬢のお母上と交わされたものですね? ご令嬢自身とではない」

 刹那、アイシャの瞳が燃え上がった。だんっと地を蹴り、一瞬でナギの目の前まで跳躍する。振りかぶられたダガーを、間一髪のところでナギの刀が受け止めた。

 聞くに絶えない不協和音が、宵闇にぎゃりぎゃりと響く。

「だったらなんだ! あたしはハルマから――お嬢の母親からあの子を預かったんだ! あの子を傷つける全て、許してたまるか!」

「そこに彼女の意思がないのなら、あなたがしているのは人形を愛でているのと一緒だと言っているのです!」

 きんっ! と二つの刃が弾き合う。ざわめく木々の音にかき消されて、かすかな音は霧散していく。

 アイシャが獰猛な瞳で笑った。

「じゃあなんだ? お嬢が許してるから、お嬢の体に傷をつける行為を許せって?」

 もちろん、そんなことを許せるはずもない。今はもう、手からこぼれ落ちる美しい水をただ見つめていられるほど、アイシャは世界の全てに寛容になれない。ハルマを失った日から、アイシャの世界の中で色づいているのはルゥルゥ一人だけだ。

 彼女を汚す全てを許せない。かつて汚され、貶められた花を知っているから。

「お嬢が組み敷かれてる姿を見て、あたしがどれだけあの男を殺したいと思ったか教えてやろうか? あたしのことを調べたなら、ハルマがどうしてこの国に留まることになったのかも知ってるんだろ? ……それを知っておいて、あんな獣を野放しにしておいて、よくもまあ、被害者面で静観できるもんだ!」

 ぎんっ! と再び刃が競り合う。

 答えてみろ、とアイシャは思った。加害者の顔で、のうのうと御託を並べてみればいい。毒に浸された手で、笑顔で握手を求めるような愚行を!

 睨みつけた先で、闇を閉じ込めたような瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。

「あなたは何に懺悔をしているんですか?」

「……何?」

「あなたのことは隅々まで調べました。何のためにハルマ殿がこの国に来たのかも、あなたがどうしてご令嬢を守っているのかも知っています……全ては懺悔のためでしょう?」

 アイシャは唇の端を歪ませて笑う。

「だったらなんなんだ? その程度のことを知られたくらいで、あたしが怯むとでも?」

「では、あなたが懺悔をしているのはクレイディ伯爵令嬢にですか? 違いますよね。あなたが懺悔をしているのは……あなたが許しを乞うているのはハルマ殿だ」

 彼は真正面からアイシャを睨みつけ、競り合う刃の向こうでぎりりと歯をかみ締めた。

「ヴァリス殿下が死ねば満足ですか? あの方が、酷く凄惨に死ねば、あなたの懺悔は終わるのですか? クレイディ伯爵令嬢が、その隣でどんな顔をしているか、考えたことはあるのですか?」

 アイシャは一瞬だけ言葉に詰まった。途端に刃が押し戻され、咄嗟に力を入れ直す。

「御託を並べてんじゃねえ! そもそもお前らがあの男を野放しにしてるから、お嬢が傷つけられてんだろうが! あんなケダモノを放っておいて、よくもまあ、お嬢のことを心配してるツラなんかできるもんだ!」

「俺が、殿下を殺すことを考えなかったと思いますか?」

 不意に、仄暗い瞳が、闇の中で光った。

 本能的な恐怖がぞわりと背筋を駆ける。咄嗟に振り下ろしたもう一つのダガーも、角度を変えた刀に受け止められる。

「殺してさしあげたほうがよっぽどあの方は楽になれますよ、当たり前でしょう! 腕に無理やり武器を縫い付けられた状態でこの世に産み落とされて、あの方を抱きしめられる人なんているわけがなかった!」

 高く音を立てて刃が弾かれる。息つく間もなくナギは横薙ぎに武器を振るい、アイシャは上体を逸らして避けた。

「でも、あの方は一度だって、それだけは命令してくださらなかった! 俺は殿下のために買われたんですから、殿下を殺した罪で死んだって良かったんです! 望むならいつだってあの方の首を落としますよ、ええ、あの方が望むならね!」

 はらりと落ちた涙があっても、彼はアイシャのダガーを正確に見切って弾き落とす。

 彼女は単純に驚いた。楔の一族の中でも、アイシャは特別だった。突然変異のような膂力と身軽な体。屈強な男だろうと、大抵の人間はアイシャに敵わない。そんな彼女に、目の前の細い男は対等に渡り合っている。

 なのに、そんな男が泣いているのだ。アイシャはひそかに困惑していた。

「でもこんなこと、本当は意味なんてないんです。俺は一族の中でも落ちこぼれで、呪いを使いこなせなかった。どんな呪いだって俺の体に入るのに、俺の腕は言うことを聞かなくなる。代わりに体を鍛えましたけど、呪いを扱える者には敵わない。俺は、誰かに許されたくて、求められたくて、殿下に命令してくれと頼みこんだ。それだけなんです。殿下も全部分かってたから、俺に命令なんてしませんでした。……分かりませんか? 俺たちがしていることは同じです」

「……何?」

「殿下を呪い殺したところで、俺を殴って国に売り飛ばした俺の親が褒めてくれるわけじゃない。あなたがご令嬢のために殿下を殺したところで、ハルマ殿はあなたの懺悔には応えられない。俺もあなたも、あの二人のことなんか見えていないんだ」

 いつの間にか、ナギは刀を下ろしていた。今ダガーを投げれば、彼はきっと抵抗もせずに倒れるだろう。分かっているのに、アイシャは一歩も動けずにいる。

 武器を持った武人が二人、手をだらりと垂らしてその場に立っている。

「殿下はずっと、自分が助けた従者にすら本当の自分を見てもらえないまま、悪魔の声に耐えながら今までを過ごしていました。あなたは? あなたのご令嬢を正面から見てくれた人はいましたか?」

 アイシャは息を呑んだ。そんな自分に驚く。

 なぜ答えられない? こんなのは詭弁だ。分かっているはずなのに。

「あなたは彼女を、彼女の願いを、きちんと見てきましたか?」

 ぎり、と唇を噛み締める。こともあろうにルゥルゥは、ヴァリスを楔として契約を交わした。あのときアイシャが感じた絶望を、ルゥルゥはきっと一生理解できないだろう。

 でも、本当は分かっているのだ。ルゥルゥは、アイシャに全てを預けることはない。どれだけ命令したって、アイシャが彼女の言うことを聞かないことがあると知っているから。

 だから、信頼していると告げた直後に、アイシャが裏切ることを考えながら動いている。

 そういうふうに考えさせたのはアイシャだ。ルゥルゥがアイシャを信じなくなったのは、そもそもアイシャのせいなのだ。

「俺たちが自分のことしか見えていないのは、もう仕方ありません。そういうふうにしか生きられないんですから、騙し騙しやっていくしかないんです……でも、殿下やご令嬢の目を塞ぐ権利は、俺たちにはありません」

「……分かったような口を聞くなよ、ガキ」

「あなたも分かっているはずですよ。俺はあの人を殺してくれる人を待っていた。けど、あのご令嬢は、殿下を殺すどころか、手を握って光の下に出してくれた。俺がどれだけ嬉しかったか……あなたも、同じ気持ちでしょう。自分の楔を見つけることが、呪い渡りにとってどれだけ幸福か知っているなら」

「あんたよりもずっとよく知ってるよ。呪い渡りにとって楔は、この世に自分を縫い止めてくれるよすがだ」

 呪い渡りにはよすががない。自分が生まれた土地ですら、彼女たちにとっての故郷にはならないのだという。他人の呪いが自分の体を侵食して、通り抜けて、また侵食して、通り抜ける。自分の体が塗り替えられる行為を繰り返すたびに、自分というものがどんどん削れていくのだ。それはどれほどの恐怖だろう?

 自分が根を張る土地のない中で、他人の呪いに触れ続ける呪い渡りは、生きるたびに心と体を削られていく。自分のよすがを見つけられないまま、生きて、生きて、生きた先で、狂ってしまう者も少なくない。

 楔の一族が生まれたのだって、呪い渡りの生きる道を切り開くためだ。アイシャの祖先はそのために、自らの一族に楔の名をつけた。楔を見つけられなかった呪い渡りに寄り添えるよう、楔を見つけた呪い渡りが幸福に生きられるよう、阻むもの全てを許さぬ鉄壁の矛。それがアイシャの一族だ。

 そうだ、本当はちゃんと分かっている。生きる意味をなくして、幸せになれる呪い渡りはいない。

 アイシャはルゥルゥの手を取れなかった。自分は彼女の楔にはなれなかった。自分がここにいるのは、本当は、全てハルマのためだから。

 あの春風を失ってから、アイシャの心は、ずっと常冬の中にいる。

 アイシャはダガーをくるくると回しながら、自嘲気味に笑った。

「分かっているさ。あの子とあの男がいる場所には、あたしたちはどうしたって行けないんだ。あの子たちが背負うものは、あたしたちには肩代わりができない」

「ええ、その通りです」

 ちゃんっと音がして、ナギが刀を収めたのが分かる。

「そして、俺たちが背負う必要など、最初からどこにもなかったんですよ。殿下も、ご令嬢も、互いに互いを見つけたんです……俺たちで務まる役だったなら、こんなことにはなっていません」

「そりゃそうだ」

 アイシャは肩をすくめる。見上げた先には煌々と輝く月があった。視界の端に、ルゥルゥとヴァリスがいるだろう、閉ざされた部屋がある。

 あそこに飛び込んでいくことはできない。もうずっと前から、ルゥルゥとヴァリスは自分たちの手の出せない場所に行ってしまった。

 ここから先は、あの二人が見る夢の果てだ。地に足のついてしまった自分たちには、どうすることもできないのだろう。


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