第17話


 ふっ、とルゥルゥの意識が浮上する。

 瞼を押し上げた視界の中は薄暗く、起きた気がしないほどだった。一瞬頭が混乱して、ぱちぱちと瞬く。どうして寝ていたのだっけ……と考えて一拍、怒涛の勢いで記憶が戻ってきた。

「っヴァリス様!」

 反射的に飛び起きる。そうだ、自分は彼を手当てしようとして、色々あって自分の血を飲ませることになって、そして……その後……

「なんだ、もう起きたのかよ」

 唐突に聞こえた声に、体がびくりと震える。思わず振り向いた先で、窓枠に彼が座っていた。

「……ヴァリス様?」

「あ? なんだよ」

 月光を背に負いながら、彼は穏やかに答えた。かすかに笑ったようだが、顔はよく見えない。本当に、すっかり夜まで寝こけてしまったらしい。

「怪我は、もう大丈夫なのですか? さっきは包帯を巻けなかったので、ガーゼを取り替えて、傷を……」

「ああ、そんなのはいい。こんなもん、放っときゃ治る」

 ルゥルゥの言葉を遮るようにして、彼はわずかに首を傾けた。

「それより、ルゥルゥ、悪ぃんだが……もう一度血が飲みたい」

 なめらかに窓枠から下りて、彼は一歩こちらに踏み出す。雲が緩やかに月を覆って、彼の姿がたちまち闇に溶け込んだ。

 目の前のベッドがぎっと軋んだ音で、彼が膝をついたのをかろうじて悟る。

「お前の血が……一番美味い」

 手首を握られて引き寄せられた。どこか艶っぽい声が耳を打つ。きゅっと握られた手が、柔らかなものに触れた。おそらく、ヴァリスの頬だ。

「いいか? ルゥルゥ……」

「……ヴァリス様」

 ルゥルゥはそっともう片方の手を伸ばし――彼の肩に手をかけ、ぐっと固定するように掴んだ。

「ヨル、ここへ!」

 高く呼んだ次の瞬間、弾丸のように飛び出してきた黒猫が、ヴァリスの手首に噛みついた。

「ぐっ!?」

 思わず彼がルゥルゥから手を離したところで、素早く身を引く。不安定なベッドの上から降り、再び高く声を張った。

「ナツ、ソラ、来なさい!」

 音もなくそばに寄ってきた二つの影。彼らは同時に唸り声を上げ始める。ヴァリスが暴れたあの夜と同じ……否、それ以上に警戒した鳴き声だ。

「おかしいと思いました。明かり一つない部屋で正確に私の位置が分かるなんて……それに、ヴァリス様はそうやすやすと私に血を飲ませてくれなんて言わないと思いますよ。先ほどどうにか頼めるようになったばかりだというのに、そんな誘うような言い方をして。まるで、私があなたの獲物のようです」

 手首を押さえる男を見つめながら、ルゥルゥは顎に手を当て、小首を傾げた。呪いのせいで、一時的に理性のたがが外れているのだろうか?

 そのとき、雲の隙間から月が顔を出した。窓から射し込んだ光が彼の横顔をくっきりと映し出す。

 ルゥルゥは瞬間的に息を呑んだ。彼の瞳が――琥珀に染まっていたはずの虹彩が、血のような赤に変わっていたのである。

「あっははははは! もう気づいたのかよ、早ぇなあ……流石、混ざりモノを傍に置くだけはある。飼い犬に手を噛まれるのも可哀想だからマーキングしてやろうと思ったんだが、そう簡単にも行かねえわな」

「あなたは……誰ですか?」

「俺か? 誰だと思う、お嬢ちゃん」

 シニカルに笑う男が、月明かりに照らされてよく見える。普段のヴァリスからは想像もつかないほどあくどい顔だった。彼は目つきが悪いだけで、こんな嘲笑じみた表情は見せない。彼の嘲りは、大抵が自分に向けられたものだ。

 ならば、目の前のこれは――

「……悪魔?」

 にい、と、男の顔が奇妙なほどの愉悦に歪んだ。

「ご名答。お前、本当に察しが良いんだなぁ」

 ルゥルゥはぽかんとした。

「……本当に、ヴァリス様に取り憑いている悪魔なのですか?」

 咄嗟にずいと身を乗り出す。目が爛々と輝いていた。

「本当に? やっぱり嘘ですとか言いませんよね? 実はただの低級霊ですなんてことはないですよね?」

「おいてめぇ馬鹿にしてんのか? 俺が低級霊なんぞをこいつの体に住まわせるわけねえだろうが。せっかく住みやすい体だってのに」

「住みやすいとか住みにくいとかあるんですね……」

 人の体に住んだことなどないので分かりにくいが、座り心地の良い椅子みたいなものだろうか?

 一国の王子を椅子扱いするというすさまじい不敬を頭の中でかましていると、悪魔はくつくつと笑う。

「まあな、こいつの悲鳴は聞いてて心地がいい。そのくせ全然弱くならねぇのが良いな、壊しがいがある。俺がこっちに出てこれたのも何年ぶりだ?」

 悪魔はしばし思案するように視線をめぐらせる。

「……あの呪い憑きの男の血を飲んだとき以来か? もしかしてこいつ、そこから一度も人の血飲んでねぇのかよ。せっかく俺が毎月きちんと『乾く』ようにしてやってんのに、本当に我慢強くて可愛い奴だなぁ」

 ルゥルゥは目を見張った。彼はそんな頻度で吸血衝動に耐えていたのか……

 唖然とするルゥルゥに気づき、彼はふと口を歪める。

「感謝するぜ、お嬢ちゃん。お前の血は美味かった。もしかして処女か? 処女の血は美味いんだよな」

 ルゥルゥはかこんと顎を落とす。ヴァリスの顔でなんてことを言うのか……

「なんだよその顔、箱入りか? よく見りゃ肌艶もいいし、とうとう奴隷を買ったのかと思ったが違うみてえだな……」

「私はヴァリス様の婚約者ですよ。貴族で未婚ですから、経験がないのは仕方がないと思ってください」

 悪魔はぱちりと瞬き、吹き出すように笑った。

「は、こいつに婚約者! おいおい、何人目だ? 今の今まで壊されてねぇなんて珍し……ああ、混ざりモノがいるからか、なるほどな」

 興味深そうにナツとソラを見つめる悪魔に、彼らは未だに唸り声を上げている。本当に、ヴァリスではないらしい。分かっているのだが、顔も声も同じだと混乱する。

「……ヴァリス様と話し方まで似ているのですね」

 住んでいる体に影響を受けるのだろうか? と首を傾げると、彼は「逆だよ」と笑った。

「俺がこいつに似てるんじゃなくて、こいつが俺に似てんだよ。当たり前だろ。親よりも長く、こいつの頭の中で話してんだからな」

「話を……されているのですか? ヴァリス様と?」

「好きなときにな。俺はこいつの全部を知ってる。こいつが自分の破壊衝動で、どれだけの婚約者の血を流してきたか、懇切丁寧に教えてやろうか?」

「いえ、それは正直どうでもいいのですが……」

 虚を衝かれた顔をした悪魔の前で、ルゥルゥは顎に手を当てて黙考する。

 もしかして、彼が言っていた「出てくる」というのは、この悪魔のことを示していたのだろうか?

 血には魂が宿る、というのは、呪い渡りの中では有名な話だ。血を流すことも、他人の血を取り込むことも、自らの魂を揺らがす行為だ。ならば、身に宿る悪魔が主導権を奪うことも、あるのかもしれない。

 それなら――好都合だ。

「それより、あなたにお聞きしたいことがあるのです」

「なんだよ、こいつの呪いの解き方を教えろってか?」

「いいえ、それは私が見つけるので教えなくて構いません」

 手を雑に横に振る。解き方なんて心底どうでもいい。そんなものは後で見つければいいのだ。

「あなたが、どうしてヴァリス様を呪っているのかを知りたいのです」

「あ?」

「この方のお母様はあなたに、王太子殿下を呪うように願ったのではないのですか? それを、どうしてヴァリス様が呪われることになっているのです?」

 そもそもが不思議なのだ。ヴァリス自身も「悪魔に兄を呪わせる方法が失敗した結果、自分に取り憑いている」と言っていたが、それは正直考えづらい。悪魔ほどプライドの高い生き物もいないからだ。

 彼らは基本的に人間の不幸を好む。だが、それ以上に自分という存在に誇りを持っている。これほど長くヴァリスを苦しめる力を持つ悪魔なら、呪いに失敗したなどという屈辱的な行為を見逃すはずがない。最悪、その場の全員を殺してなかったことにするだろう。

 だったら、どうしてこの悪魔は、自分が失敗したなどという噂を黙って聞いているのか?

「もしかして……あなたがヴァリス様を呪ったのは、別に間違いではなかったのではないですか? あなたは元々、彼を呪うつもりだったのでは?」

 悪魔はほんの一瞬だけ目を丸くして、新しいおもちゃを見つけた子供のように笑った。

「お前、どこまで知ってる?」

「何も知りません。だからあなたに尋ねているのです」

 一歩踏み出す。月光の下で、夜のような色をしたルゥルゥの髪が煌めいた。

「本当にヴァリス様を呪っている悪魔なら、質問に答えてください。あなたは最初から、狙ってヴァリス様を呪ったのではないですか?」

 悪魔の瞳が、三日月のように歪んだ。絶対にヴァリスのしない顔だった。

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