第13話


 安堵した後は別のことが気になってくる。ヴァリスの頬を両手で挟み、じっと顔を見つめているルゥルゥに、解呪師の一人が遠慮がちに声をかけた。

「あ、あの、何を……?」

「え? ああ、いえ、ヴァリス様は白目の部分が黒いので、白目を剥くと真っ黒になるのだなと思って」

「は?」

「あ、こんなことをしている場合ではありませんでした。ヘクトルさん、どこかに空いている部屋はありませんか? ヴァリス様を休ませてさしあげたいのですが……」

「ん? ああ、ありますよ〜」

 気の抜けた声にほっとしたとき、扉の入り口からぞろぞろと獣たちが入ってきた。仰天する解呪師たちを前に、ルゥルゥはぱっと顔を輝かせる。

「お前たち、来てくれたのですね!」

 ルゥルゥの愛する獣たちだ。先頭にいたサラが得意げにぴょんと飛び乗ってきたので、常備しているどんぐりをお礼代わりに与える。

「よく来てくれました。私はヴァリス様を休ませますから、お前たちは他の患者の方々のところに行って、解呪の手伝いを。溢れそうな呪を渡らせておいてください」

 あらゆる獣たちは思い思いの了承の声を上げ、すたすたと他の部屋に向かっていく。解呪師たちはあんぐりと口を開けていたが、構ってはいられない。

「ヨル、こちらへ」

 呼び寄せた黒猫の首にある宝石を外し、体を本来の姿に戻す。既に解呪師たちは一部、あまりの光景に気絶寸前だった。ヘクトルだけが、興味深そうに黒豹を見つめている。

「それではヘクトルさん、案内を頼んでも?」

「はいは〜い、承知ですよ。そういうわけだから君たち、あとよろしく」

 ヨルはひょいとヴァリスを背に乗せ、悠々と部屋を出る。彼らが去ったあと、古参の一級解呪師が呟いた。

「……いや、説明しろよ……」






 幸い、ヴァリスはすぐに目を覚ました。どうやら一気に力を使ったことで体が強制的に意識を閉ざしたらしい。

 ベッドの上で仏頂面のままヘクトルに触診を受ける彼は、顔色がやや悪いことを除けばいつも通りだった。

「いやあ、助かりましたよ殿下。本当に呪いかけるの上手ですね。褒めていいのか分かんないですけど」

 ルゥルゥは苦笑する。人に呪いをかける行為は、みだりに行えば当然罰される。本来は緊急事態にしか許されていないのだ。ここ数日で三回ほど見ている気もするが。

「呪うのばっか上手くなってもしょうがねえだろ……くそ、頭痛えな……」

「薬を飲んでくださいヴァリス様。楽になりますから」

 呪いの反動が強いのだろう。ルゥルゥはせっせと茶を淹れてヴァリスに渡す。

「いやあ、そうは言ってもあれはすごいですよ。一級解呪師でもあそこまで正確に呪いをぶつけられるかどうかでしょ」

 ヘクトルが上機嫌で言った。対して、ヴァリスは仏頂面を崩さない。

「つーか、ありゃなんなんだ。どう考えても普通の患者じゃねえだろ。呪いの強さが尋常じゃなかったぞ」

「私も、あそこまで呪の濃い部屋に入ったのは初めてです。大抵の人なら一日で呪に侵されて意識をなくすでしょう。王宮に何が起こっているのですか? 訓練場まで脱走してきた人も、明らかに異常でしたし……」

「あ、お嬢さん、そこまで気づいてました?」

 ヘクトルが興味深げに笑う。ルゥルゥはこっくりと頷いた。

「あの人は身体に変化すら出ているほど呪に体を侵されていました。当然、理性なんてなかったはず……なのにどうして、私にまっすぐ向かってきたのでしょう? そもそもあの方はどうして、解呪師の官舎で暴れることなく、わざわざ訓練場まで来て暴れたのでしょう?」

 ヴァリスが眉をひそめる。

「何が言いたい?」

「何者かが彼を操っていた可能性があります。悪意を持って彼を呪い、訓練場まで連れてきたのでは?」

 ルゥルゥは人差し指を唇に当てながら答えた。ヘクトルがぱちぱちと手を打ち鳴らす。

「ご明察。最近の異常な数の患者と呪いの侵攻速度、明らかおかしいんですよ。さっき殿下が対処してくださった患者も、あれ全員、呪われてから二日か三日くらいしか経ってないんで」

 ルゥルゥは目を丸くした。人が呪いを受ける流れは大きく分けて二つある。一つは、大地から呪をその身に受けることだ。悪魔が封じられた土地であるテュシアでは、大地から染み出す呪に体を侵される人は少なくない。あまりに多くの呪に侵されれば、理性を失うこともある。

 だが、数日であそこまで錯乱するほど呪の巡りが早くなることは、普通ではありえない。そもそも大地からの呪に侵されること自体、特定の地域以外では考えにくいことだ。

 つまり、原因はもう一つの方法によるもの――人からの呪詛だ。

「誰かが王宮中の人間を呪っている……?」

 権謀術数うずまく王宮では、人を呪って命を奪うのも当たり前なのだろうか?

 ルゥルゥはここに来た日のことを思い出した。あのとき襲いかかってきた兵士も、もしかして……

 だが数拍考えたところで、ルゥルゥはその考えを全て脇に置くことにした。

「まあ、呪っている人間がいるのでしたら、まじない送りでもしてしまえば片がつきますからね。今は患者の方々をなんとかするほうが先決です」

 あっけらかんと言い放つ。

「あ? 呪い送りってのはなんだ」

「こっちで言う呪詛返しですよ、殿下」

 ヘクトルが楽しそうに言う。

「呪いをほどくだけじゃなく、呪詛返しまでできるんですか、ご令嬢?」

「お母様から一通りのことは習ったので、もちろんできますよ。とはいえ、依頼もないのに呪い送りをするのは、呪い渡りの本分とは言えませんから。まずは患者さんをなんとかしましょう」

「いやあ助かります。本当に手が足りないんで」

 ヴァリスはため息をついて、ヘクトルのほうを向いた。

「呪われてる奴は何人いんだよ」

「今のところ、ざっと五十くらいですかね」

 相当な数だ。ルゥルゥは顎に手を当て、しばし黙考する。獣たちをここに全員連れてきて呪を渡らせれば、呪いの進行を遅らせることができるだろうか?

「五十か、なら五日だな」

 そのとき、ヴァリスが淡白な口調で言った。思わずルゥルゥは何度か瞬く。

「今日の患者は十はいただろ。呪いの進行が一番進んでてあれなら、同じ方法でやっても最悪俺が倒れるだけで済む。連続でやったらどうなるか分かんねえが、まあ、長くかかっても五日だな」

「待ってください、ヴァリス様。今日と同じように、一気に複数人の呪いを相殺するつもりなのですか?」

 硬い声で問いかけられ、ヴァリスは首を傾げた。

「? それ以外に何がある」

「駄目です」

 きっぱりと言う。

「認められません。あの方法ではヴァリス様に負担がかかりすぎてしまいます。ヴァリス様は呪いを解いているのではなくかけているのですよ。解呪師の方が呪いを解くのとはわけが違います」

 ヴァリスの瞳がすっと剣呑な色を帯びた。

「解呪ができねえ俺への当て付けか? 効率も悪いし使い所のねえ力で悪かったな。解呪師たちがぼんくらじゃなきゃ、俺だってこんなことしてねえよ」

 ルゥルゥは思わずきょとんとした。ヴァリスの瞳をまじまじと見つめて呟く。

「なんというのか……今日のヴァリス様、だいぶ卑屈ですね」

 ずばっと言い切ったルゥルゥに、彼はぽかんと口を開ける。

「……は?」

「というかそもそも、解呪師の方々がぼんくらじゃなかったとして、ヴァリス様は同じように限界までやってしまわれるでしょう? 優しいですから」

「……そりゃ誰のことだ」

 何を言っているのだろうとルゥルゥは思う。彼は初めて会ったときから、だいぶ優しい。自分で刃をルゥルゥの首に当てておいて、ルゥルゥが動いたら慌て始めたのはどこの誰だと思っているのだろうか?

「私のために破壊衝動を我慢してくれて、私を信じてくれて、ヨルと遊んでくれたじゃないですか。優しいですよ、ヴァリス様」

「……」

「というか、ヴァリス様がそこまで急ぐ必要はないと思うのですが……」

 患者にとっては早く治してもらうに越したことはないが、それで医者が倒れたら意味がない。自己管理も呪い渡りの仕事のうちだ。

 すると、ヴァリスは顔をしかめてぼそりと言った。

「お前が言ったんだろうが。ここで呪いに触れれば、俺の呪いを解く手がかりになるかもしれねえんだろ。触れる患者は多ければ多いほどいい。だったら、呪いの相殺も、早ければ早いほど、いいはずだろ」

 目を見開く。

「……そ、」

 意味を理解して一拍、ルゥルゥは息を止めた。

 ああ、そこまでするほどの痛みなのか、と、すとんと理解してしまったのだ。

 悪魔憑き。破壊衝動。幽閉。迫害。大抵のものを与えられながら、生きるためのよすがだけを奪われる日々だ。痛いだろう。苦しいだろう。分かっていたつもりだった。つもりでしかなかった。

 それが、不意に自分の命すら投げ出してしまいそうになるほどの、痛みなのだと。

 彼女の沈黙を、どうやら悪い意味に取ったらしい。彼の瞳から、急速に色が失われていく。

「……そうか、あの約束は嘘か」

 ぞっとするほど暗い声だった。

「俺をここに連れてくるための方便だったなら……それでも、別に、いい。俺だけでなんとかする」

 言って、彼はふい、と目を逸らした。瞳孔の奥が光を失っていくのが見える。黒々とした白目の部分だけじゃない。琥珀の色が揺れて、くすんで、濁って。

 まるで、泥のよう。

 そのとき、ルゥルゥの中の感情が一気に臨界点を超えた。

 座っていた椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がる。ベッドに座る彼の手をがっと掴んだ。ここまで耐えてきたものが全て爆発したような勢いだった。

「っ、は、なん……」

「ヴァリス様」

 ぎょっとしたヴァリスの手をやわく握る。ベッド脇に、そのまま膝をついた。

「ここに、私の、『楔』の誓約を」

 握った彼の手の甲を額につける。もう片方の手で自らの心臓をとんと突いた。

 呪い渡りは、居場所を転々としながら、生きていくために依頼を受ける。そうして力を振るい、様々な呪を、様々な物に渡らせていく。呪い渡りは「循環」の生き物だ。巡り巡らせ、自分も巡る。本来はひとところに留まらない、放浪の一族だ。

 だけれども、彼らは一生でこれと定めたものを、自らの「楔」と成す。楔を見つけることは呪い渡りの生きる意味だ。とある獣を楔とし、その獣が死んだ場所で大地の呪を取り払い続ける呪い渡りもいれば、風を楔として、どれだけ愛する人ができても特定の場所に根を下ろさず、放浪の旅を続ける呪い渡りもいる。

 最も大切なものに、自分を縛りつける。

 そのために、呪い渡りは世界を渡るのだ。自分の楔となる存在がどこにあるのか、誰も教えてはくれないから。

 彼はルゥルゥの楔だ。彼だけが、彼女の人生を縛る権利を得る。そうあれかしと、ルゥルゥが今決めたのだ。

 ヘクトルが呆然と呟く。

「驚いた……楔の誓約が見られるとは……」

 ルゥルゥは唱える。自分だけの楔の言葉を。

「あなたは私の鉄の杭。私の夜の碇星」

 誓約の言葉は短くあれと母に教えられた。捧げる相手を待たせないように。大切なものを見失わないように。

「ヴァリス様。あなたが誰に何を言われてきたのかは知りません。どんな扱いを受けてきたのか、その悪魔のせいで、どれだけのものを失ってきたのかも。でも、何があったとしても関係ありません。私は、あなたのためにここにある」

「は……?」

「呪い渡りは、人生でひとつだけ、これと定めたもののために生きます。それがどのようなものなのかを知るために、放浪しながら生きているのです。私にとっては、それがヴァリス様なのです。今のは誓約です。あなたが私の楔だという」

 いまいちよく分かっていないヴァリスの横で、ヘクトルが苦笑した。

「殿下、つまりこのご令嬢は、あなたに人生捧げるって言ってんですよ」

「……は!?」

「だってそうでもしないと、私のことまで信じてくださらなくなるでしょう?」

 ルゥルゥは煮え立つような怒りを腹の底になんとか沈めて、冷静を装って言った。

「舐めないでください。私は酔狂でヴァリス様と目を合わせているのでも、あなたに触れているのでもないのですから」

 否、全然冷静を装えていなかったが、彼が唖然とした顔でこちらを見上げてくるので、少しだけ安堵する。そういう顔ができるなら、まだこの人の心は死んでいないのだ。

「言ったでしょう、助けますと。ヴァリス様が呪いに苦しんでいるのなら、私がなんとかします。それに……呪いが解けなくても、悪魔が殺せなくても、私がヴァリス様を見捨てることはありません。私は、あなたのためのものです」

 新緑の瞳が強く光った。

「私があなたに嘘をついたなんて、二度と言わないでください」

「……人生捧げるやつのセリフとは思えねえが……」

 呆れと動揺の混ざった声で言いつつも、彼は軽くルゥルゥの手を握り返した。

「まあ、お前がいなきゃ、俺の破壊衝動はどうにもならねえからな」

 それでいい。ルゥルゥを便利に使っていいのだ。ヴァリスには、その権利がある。ルゥルゥが自分でそう決めた。

「何言ってんですか殿下、破壊衝動が収まったくらいじゃ安心できませんよ。ていうか定期検診来てください、真面目に。言っときますけど、殿下の症状はまだ……」

「収められなかった奴らが言うと説得力もひとしおだな、ああ?」

「うーん薮蛇。どうしてこうなるんですかね」

 ルゥルゥは逆に、どうして彼の神経をそこまで逆撫でできるのかが分からない。地雷をテンポよく踏まないでほしい。

 ヴァリスに詰め寄られてへらへらとかわしているヘクトルを見ながら、ルゥルゥはほう、と一息ついた。明日からきっと、忙しくなるだろう。


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