第3話


 王宮へ向かう馬車の中で、アイシャはずっと不機嫌だった。小窓の縁に肘をつき、長いこと、じっと外を見つめている。

「アイシャ、まだむくれているのですか?」

 ルゥルゥが苦笑すると、彼女は視線だけで呆れたようにこちらを見た。

「お嬢……あたしを子供みたいに言うのはやめな。むしろ、年齢的にはお嬢があたしの子供みたいなもんだろう」

 確かに、アイシャは既に三十も半ばを超えている。だがその顔は二十代と言われても通用しそうなほど若々しく、体つきもすらりとしていて隙がない。

 加えて、彼女は並の男では敵わないくらいに強いのだった。酒場では自分に手を出す人間を全てぶちのめすので、彼女を指して猛獣と呼ぶ者もいるくらいだ。

 故に、アイシャを引き連れているルゥルゥはますます猛獣使いなどと呼ばれている。

 だが、ルゥルゥはアイシャを従えているつもりは全くなかった。彼女が自分を主と定めているのは、ルゥルゥを尊敬しているからではない。

「私に付いてくる必要もなかったのですよ? 王宮はただでさえ、アイシャには窮屈でしょう」

「そりゃあ、あたしは流浪の傭兵だったからね。自由と酒が一番好きさ。でも、今はお嬢の母親から、お嬢のことを任されている」

 限りなく薄い青の瞳が、鋼のように閃いた。

「だから、あたしがお嬢を一人にすることはないんだよ。お嬢を害するものは全てぶちのめして、地中にでも埋めてやる」

「頼もしいですねえ」

 ぱちぱちと手を叩く。本気で言ったのに、アイシャはがっくりと肩を落とした。

「本当に分かってんのかねえ……いや、まあいいか。お嬢は、例の第二王子殿下とやらに平手打ちする準備でもしときな。どうせろくな輩じゃないんだ」

 一国の王子に対してひどい言い草である。誰かに聞かれていたら不敬罪で首をはねられてもおかしくない。

「そう……でしょうか? 私、殿下とお会いするのは初めてなので、少し楽しみなのですが」

「呪われてる王子がか?」

「人から呪われるのは、傍から見るだけでは分からない苦しみがあるのだと、お母様は言っていました。呪いをかけるには、対象への強い思いが必要です。強い呪いは十年の思いが凝縮されることも少なくありません。呪われた側は、その強い思いを真正面から投げつけられているのです。守るものも何もないまま……それが二十三年も解けていないだなんて……」

 ルゥルゥは首を傾げた。呪いが持続し続けることは、実はあまりない。そもそも呪いは時間によって風化するものだし……そもそも、人間の体が先に限界を迎えてしまう。狂って自死を選ぶ者だって少なくないのだ。

「だから、二十三年も耐えているのだとしたら、殿下はきっと強い方なのだと思います。私、嫁ぐなら強い方が良いと思っていましたから」

 アイシャは怪訝に眉をひそめた。

「そういえば、お嬢の男の趣味とか聞いてなかったな……強い奴が好みってことか? そりゃ、お嬢を守れもしない人間に嫁がせるのはどうかと思うが……」

「体は強くなくても構いません。心が強い方であれば」

 にっこり笑って、ルゥルゥは頭上に手を伸ばした。頭に乗っている白描の喉を撫でる。

「だって、心が強い方なら、私がハルのような子たちと遊んでいても驚かないし、怖がらないでしょう?」

 アイシャはぽかんと口を開ける。しばし固まって、仕方のない子供を見るような目で笑った。

「お嬢、覚えておきな。いくら心が強い人間でもな。自分の嫁が混ざりモノと戯れはじめたら十人中十人が腰抜かすもんだよ。賭けてもいい」

 彼女があまりにも自信に満ちあふれていたものだから、ルゥルゥはころころと笑った。

「では約束をしましょう。殿下が腰を抜かして怯えた暁には、私、離縁も考えます」

「乗った。約束、違えるんじゃないよ、お嬢」

 彼女が不敵に笑ったとき、ふと馬車が止まった。

 どうやら着いたらしい。アイシャが扉を開けて先に降り、エスコートするように手を差し出す。遠慮なく手を取ってタラップを降りれば、降りそそぐ陽射しが目を柔らかく焼いた。

 そこで目にした王宮は、クレイディ伯爵家の屋敷から見たときよりもずっと大きくそびえ立っていた。白く磨きあげられた外壁が目に眩しく、大門から王宮までの道のりにはちりひとつ落ちていない。

「お待ちしておりました」

 そしてそこに、影のように立つ男が、一人。

 濡れ羽色の髪と瞳。全身黒ずくめの男が、王宮の正面――ルゥルゥたちの乗ってきた馬車の目の前に立っていた。

 彼はルゥルゥを見ると何故かややぎょっとしたように目を見張ったが、すぐに表情を引きしめ、慇懃に礼をする。

「お初にお目にかかります。ヴァリス殿下の侍従をしている、ナギと申します。クレイディ伯爵令嬢ですね?」

 彼は腰に剣を備えていた。兵士が使うようなものよりもいくらか細く、やたらと長いように見える。

「殿下の元へ、貴女をお連れするようにと仰せつかっております。こちらへどうぞ」

「あら、どこに行くのですか?」

 彼が指し示したのは、目の前にある王宮ではなかった。その奥にはりつくようにして存在している、こじんまりとした建物だ。王宮よりもふた周りほど小さく、やや簡素な雰囲気を感じる。

「王宮に併設されている別棟へご案内します。殿下はそこからほとんど出ない生活をしておりますので……ご存知なかったのですか?」

「私、社交界にはあまり出ないから……殿下のことも、父からうっすら聞いた程度なのです」

「は……」

 困惑した様子で目を瞬かせるナギに、ルゥルゥはにっこりと微笑んだ。

「もちろん、呪いだとか、暴言を吐くだとか、婚約者を呪っているだとかは聞きましたけれど……初めて会う人の根も葉もない噂を聞いたところで意味はあまりありませんから。これでいいと思っています」

「はあ……いえ、それらに関しては割と根も葉もある噂ですが……」

 結構なことを言いつつ、ナギはしばし顎に手を当てて考え込む。ややあって顔を上げると、こわばった顔で口を開いた。

「では、クレイディ伯爵令嬢。ひとつ、お願いが」

「なんでしょう?」

「殿下の目を見ても、なるべく驚かれませんよう、お願いいたします」

 目? 目が……なんだというのだろう?

 ルゥルゥはやや混乱したが、とりあえず頷いた。ナギは少しだけ目元を和らげて礼を言う。

「では、こちらへ」







 初めてその令嬢の姿を見た瞬間、ナギは思わず面食らった。

 クレイディ伯爵家の名に恥じない、壮麗かつ上品な馬車の中から出てきた彼女は、何故か頭の上に黒猫を乗せていたからである。

 それどころか、彼女がタラップを降りた瞬間、その後を堂々と三匹の犬が追随し、頭上からは何羽かの鳥が舞い降り、彼女の袖や襟からはリスやハムスターが顔をのぞかせていた。肩にも一匹の白猫が体を丸めて乗っており、一体どういうバランス感覚なのかと目を疑う。

 だが、ナギはすぐに彼女が巷でなんと呼ばれているかを思い出した。獣に愛され、呪いにすら手を伸ばし、じゅに犯された混ざりモノすら愛する、ネジの外れた猛獣使い……それが、ルゥルゥ・クレイディの本質だ。

 ナギはそのときふと、大抵の人間に嫌われ怯えられる、自らの主人を思い出した。

 果たしてこの令嬢は、彼のことも愛せるのだろうか?

「別棟……といっても、本質的には離宮のような構造になっています。クレイディ伯爵令嬢には、本日からこちらで暮らしていただきます。本来であれば、王族との婚約段階で同じ場所に暮らすことはありえないのですが……なにぶん、殿下はここからほとんど出ることを許されておりませんので」

 別棟の入口でそう説明すると、彼女はきょとんと瞳を瞬かせた。

「殿下が自分から出ないのではなく、許されていないのですか?」

「はい。殿下にかけられた呪いは未だに解析が進んでおりません。周りにどのような影響が出るか分からないとのことで、殿下が行き来できるのはこの別棟と、隣接する兵舎や官舎に留まっております。とはいえ、殿下がこの別棟から出られることはさほどないのですが……」

「それは、呪いが感染するってことかい?」

 底冷えするような声が、ルゥルゥの隣から響いた。

「そんな状態の殿下に、うちのお嬢を嫁がせようって?」

 ルゥルゥの隣に立つ、傭兵のような出で立ちをした女が、刃のごとき瞳でナギを睨みつけていた。ルゥルゥの侍女か護衛かと思っていたが、そんな生半可な存在ではない。選択を間違えればここで死が襲ってくるのではないかという気迫だ。

 背筋に冷たいものが走る。じっとりとした視線が、値踏みするようにナギを見ている。

「アイシャ、やめなさい」

 ぴしゃりとルゥルゥが言った。

「これはお父様と陛下が決めたことなのです。ナギさんに当たってはいけません」

「お嬢、そうは言っても……」

「私が受け入れたことなのです。これ以上の口出しは許しませんよ、アイシャ。それ以上は、殿下への不敬罪と見なします」

 凛とした声にナギのほうが驚いた。ふわふわと花のように笑う人だという印象が、瞬く間に崩れ去る。

 研ぎ澄まされた氷のような視線が、アイシャの瞳に据えられていた。

「約束したでしょう、アイシャ。殿下が腰を抜かして怯えたら、私は離縁も考えます。その前にあなたが勝手に判断してはいけません」

 ……なんだそれは?

 ナギは一気に混乱した。この令嬢は何をするつもりなのだ?

 咄嗟にルゥルゥを眺める。体の周りにやたら動物を貼りつけていることを除けば、愛らしい顔立ちをした美人だ。くすんだ藍色の髪が夜のように彼女の顔の周りでたなびき、新緑にも似た鮮やかな色の瞳が生き生きと輝いている。背が低くやや童顔なため、少し子どものようにも見えるかもしれない。

 そんな令嬢を前にして、第二王子たるヴァリスが怯える?

 ヴァリスの性格をよく知っているナギからしたら、分の悪い賭けもいいところだった。むしろ彼女がヴァリスを怖がって逃げ出さないかをこちらは心配しているというのに……

 だが、アイシャは苦虫を噛み潰したような顔で頷く。

「絶対だからな、お嬢」

 納得するのか……

「だが、その第二王子とやらがお嬢に手を出したら、あたしは容赦しないぞ。分かってると思うけどな」

「大丈夫ですよ。さあ、殿下の元へ参りましょう」

 それでいいのか……

 正直、ナギにとっては何もかもが意味不明である。だが、ここでつっこんで聞いたところで答えてくれるかは怪しい。彼女たちの中では、もう話は済んだことになっているのだろう。

「はあ……それではこちらへ。この建物全体が殿下の住まいではありますが、だいぶ複雑な構造になっています。殿下の部屋まで案内しますので、離れたりなさいませんよう」

「そんなに迷いやすいのですか?」

「ええ。元は解呪師たちが住まう官舎……いわゆる『呪いほどきの館』と呼ばれていた区画を一部切り取り、改装を重ねて今のようになっています。迷いやすいだけでなく、変わり者の解呪師たちが仕掛けた罠や隠し部屋が未だに残っているのです。決して離れることのないよう……」

「まあ、それは大変!」

 わざとらしいくらいに大きな声を上げて、ルゥルゥが突然立ち止まる。どうしたのかと首を傾げるナギを前に、彼女はアイシャのほうへくるりと振り返った。

「アイシャ、少しいいですか? ヨルを持っていてほしいんです」

「あ? ああ」

 ひょいと頭から持ち上げた黒猫がみゃあうと鳴く。それをアイシャの腕にすとんとおろし、ルゥルゥはにっこり微笑んだ。

「ちょっと待ってくださいね。そのまま動かないで」

「は? おい、お嬢?」

 アイシャの声をまるきり無視して、ルゥルゥはリスを彼女の肩に、ハムスターを胸ポケットに入れ、犬たちを彼女の足元に転がし、二の腕に鷲を乗せ……

 ……何をしているんだ?

 ナギはぽかんと口を開けてその光景を見つめていた。ふわふわとした動物たちは、ルゥルゥの手つきにまるで不安を見せずに従っている。犬にいたってはアイシャの足元で腹を丸出しにしていた。危機感が欠如している。

 そして、五分とかからないうちに、アイシャの体は先ほどまでのルゥルゥのように動物まみれになってしまった。

「わあ、結構似合いますね、アイシャ」

「それはいいんだがお嬢……こりゃどういうことだ?」

「大したことではありません。アイシャは優しいですから、この子たちを振り払ったり、潰したりしませんよね?」

「は? そりゃもちろん……」

 ぽんと手を合わせたルゥルゥの瞳……その奥の瞳孔が、猫の子のようにきゅうと細められた。

「では、私が殿下にお会いするまで、少しの間大人しくしていてくださいね」

「……は?」

 刹那のことだった。ルゥルゥはくるりとこちらを振り向いたかと思うと、ナギの手を掴み、脱兎のごとく駆け出したのだ。

「うわっ!?」

「は!? お嬢!?」

 少女の勢いに引きずられるようにしてナギも走り出す。何事かと後ろを振り返りそうになったが、ルゥルゥの声がぴしゃりと耳を打った。

「振り返ってはいけません! このまま殿下の元へご案内して!」

「は……!?」

「アイシャは私のことになると目の色が変わるのです! 彼女の前では全員平等ですから!」

 なんだそれは?

 呆然としながら走るナギの耳に、信じられない言葉が飛びこんでくる。

「殿下相手だろうとなんだろうと、私に無礼を働いたと見なしたら切り捨ててしまいます!」

「は!?」

「私は殿下と仲良くしたいので、アイシャと殿下を会わせるのは遅らせておきたいのです!」

 何を言っているのかほとんど分からなかったが、そこでかろうじて、ナギはアイシャという名を思い出した。

 王都で有名な平民は何人かいる。貴族ほどではなくても、何かの拍子に王宮まで噂が伸びてくるような人間が。

 たとえば以前、三十人ほどのゴロツキがとある酒場を占拠したことがあった。その地域一帯を我が物顔で闊歩し、あらゆる店で飲み食いをしては、ツケなどと言って料金未払いを繰り返す、たちの悪い連中だ。

 だがその夜、店側の人間には一切の被害を出さないまま、ゴロツキ全員を倒して警邏につきつけた、傭兵上がりの女がいたという。

 名をアイシャ。

 狂犬のアイシャ。

 全身を返り血に染めた彼女の戦い方は、とても人間のそれとはかけ離れていたと聞くが――もしかしてあの人が?

 ナギは目眩を感じた。冗談じゃない。どうしてそんな人間が伯爵家に?

 そして同時に、絶対にアイシャをヴァリスに会わせてはならないと確信した。かの第二王子は、決して人当たりが良い人間ではないのだ。

「……っああもう、そこを右です!」

 咄嗟に叫ぶと、前を走っていた少女はにっこりと笑って頷いた。もしかして自分の主人は、とんでもない人と結婚することになるのでは? と、ナギは思った。

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