第7話『あ、うん……あの、お姉ちゃん』

色々な波乱はありつつも、それなりに順調だった私の中学校生活だったが、中学二年生の夏を過ぎた頃から不穏な空気が流れ始めた。


原因は分かっている。


一つの噂話が流れているためだ。


『千歳加奈子は家族とトラブルを起こし、立花光佑に泣きついて、家に住み着いている』


光佑くんを好きすぎる子が家まで付いていけば、いずれ同じ家に住んでいる事はバレる話だと思っていた。


しかし、こんな根も葉もない噂が出回るとは思ってもみなかった。


幸いというべきか。晄弘くんや光佑くんの耳には届いていないらしく、それだけは良かったと思う。


もしもこの件が朝陽さんの耳に入れば、きっと酷く悲しむだろう。


それだけじゃない。光佑くんだって、幸太郎さんだってきっと悲しい。


だから、私は誰にも相談しないまま噂の出どころを探す事にした。


幸いというべきか。カーストで下位に落ちない為、なんて邪な目的で友達になった三人は、噂はあくまで噂だと言ってくれ、もし光佑くん狙いなら協力するよ。なんて言ってくれたりもした。


まぁ本心じゃないだろうが。


多分長く一緒に居る事で私が晄弘くんに片思いしている事ばバレたのだろう。


だから彼女たちのライバルにはなり得ないと思われているのだ。


そして、それは他のクラスの女子も同じで、特に私へ冷たく当たる様な事は無かった。


まぁ、男の趣味がどうのこうのと言われたが、それは良い。晄弘くんの魅力は私だけが分かっていればいいのだ。


そう。むしろライバルがいなくて助かるくらいだ。


まぁ協力する代わりに情報を寄こせと言われた時はどうしようかと思ったが。


晄弘くんとの仲を協力する代わりに光佑くんの下着を持ってきてくれと言われた時は本気で警察に相談しようかと悩んだが、まぁ良い。


まだ彼女は犯罪者じゃない。


まぁ、どこで見て知ったのか、朝陽さんや陽菜ちゃん、綾ちゃんの隠し撮りをと言ってきた奴に関しては、次に舐めた事言ったら山に埋めると言っておいた。


どさくさに紛れてふざけた事を抜かす奴はどこにでもいる。


まぁ、まさか何かする事は無いだろうが、もし次不埒な事を考えたのなら処理するべきだなと考えて、私は図書館へ世界の拷問辞典を借りに行くのだった。


そしてそんな日の帰り道。私はずいぶんと久しぶりに、ある人間と偶然再会した。


別に嬉しくはないが。


「あ……お姉ちゃん」


「……紗理奈」


「その、久しぶり」


「……」


「あれー? じゃあ紗理奈ちゃんが言ってた人ってこの人ぉ?」


「きゃはは! 私も噂、知ってるぅ。立花先輩の家に勝手に入り込んだ人でしょ。信じらんないよね!」


「立花先輩もかわいそうー。こんな女に騙されてさ」


「てか、本当に紗理奈ちゃんのお姉さんなんですかぁー? 全然っ。似てないね!」


「ちょっとー可哀想だよー。あ。分かっちゃった。お姉さんだけ拾われた子なんじゃないのー? なんか暗いし。こっちまでジメジメしてきそうー」


「やだー。お塩持ってきてよ。お塩」


「なんでお塩?」


「知らないの。ほら雨の時にうねうね動いてる奴いるじゃん。アレって塩掛けたら溶けちゃうんだって」


「アハハハ! じゃあお姉さんもお塩かけたら溶けちゃうかもね! アハハハハ!」


好き放題騒いでいる紗理奈の取り巻きは無視して私は、何やらもじもじとしている紗理奈を睨みつける。


ようやく分かった。噂の出どころが。そうか。アンタだったんだ。紗理奈。


そんなに私が幸せになるのが気に入らないんだ。


放っておいて欲しいのに。それもしてくれない。


思わず舌打ちが出そうなくらい苛立っていた。


私の持ってるものは何でも欲しがって、全部初めから持っていたくせに。ようやく私が貰えた幸せも、奪おうっていうのか!!


「……さい」


「えぇー? 何か言ったぁ?」


「聞こえませーん。ちゃんと話してくださーい」


「ピーピーうるさいガキどもね。って言ったの。聞こえなかった? 耳が遠いの? もしくは理解力が無かったかな。まぁ頭悪そうだしね。可哀想ね。頭が悪いのにこうして学校に通わないといけないなんて。同情するわ。毎日自分の頭が悪いって知るのは苦痛でしょ。私なら生きていけないわ」


「は、ハン! 立花先輩を騙しておいて何偉そうな事言ってんの!?」


「そうだよ。どうせアンタなんか誰も好きになんかならないよ! 立花先輩だって色仕掛けで近づけただけじゃん!」


「ハッ。自分で言ってて空しくならないの? アンタたち。人の事、暗いだの、ナメクジだの言っておいて、アンタらの大好きな立花先輩は無駄に着飾ったアンタらより、私を選んでるんでしょ? 私に魅力負けてんのよ? 分かってるの? あぁ、分かってないのか。頭も足りない。容姿も足りない。モラルも足りない。足りてるのは何? あ。ごめん。私には分からないけど、多分何か貴女たちにも価値があるのよね。あると良いのだけれど。無かったらごめんなさい。謝っておくわ」


「うっさいブス!!」


「調子に乗んな!」


「はいはい。負け犬の遠吠えがいっそ心地いいわ。今日からブスに負けた女として自慢げに生きてくださいよ。そういえばブス以下ってどういう容姿になるのかしら。教えてくれない? あ。ごめんなさい。そんな事考えられる頭なんか無かったわね。言葉を話せるだけで偉い偉いって褒めてあげるべきだったわね。人間の言葉が話せるなんて凄いわ! お上手なのね!」


「何こいつ! うざすぎ!!」


「行こっ、紗理奈ちゃん!」


「あ、うん……あの、お姉ちゃん」


「……二度と話しかけるな」


私は苛立って喚き散らしたいような気持ちを何とか抑えて、これ以上紗理奈の顔を見ているときっと怒りを抑えられないと、見ない様に気を付けながらその場を後にした。


後ろからはまだガキどもがギャーピー騒いでいるが、これ以上関わりたくは無かった。


そして、振り返る事なく、足早にその場を去り、急いで家に帰って、誰もいない家の中を通り、静かに部屋に閉じこもった。


悔しい! 悔しい!! 悔しい!!!


好き放題言ってくれる。


『どうせアンタなんか誰も好きになんかならないよ!』


「そんな事ない」


『アンタなんか誰も好きになんかならない』


「そんなことない」


『どうせ』


「うるさい! うるさい!! うるさい!!」


私は近くにあった枕を壁に投げつけて、何も聞きたくないと両耳を手で塞ぐ。


しかし、声は何度も何度も私の中から響いて、私を切り裂くのだった。


痛い。苦しい。


人を傷つけようとして放たれる言葉は刃物だ。


それは目に見える傷は残さないが、深く刻まれた傷はどれだけ時間が経っても消える事はない。


私はあの人たちから離れてようやく忘れられる様になっていた傷を強く自覚した。


そして自覚してからも流れ続ける涙はいつまでも止まる事なく、流れ続けるのだった。




それからどれだけそうしていただろう。


窓の外はすっかり暗くなり、扉の外では陽菜ちゃんたちが騒いでいる声がする。


そろそろ夕食の時間だ。私も行かなくてはいけない。


だというのに、私の体は一向に動こうとはしなかった。


「加奈子さん。入ってもいいでしょうか」


「……はい」


そんな時、扉の向こうから心配そうな朝陽さんの声が聞こえ、私は返事をしたが、すぐにそれが失敗だと気づいた。


散々泣いていて、涙の痕がまだ残っているのだ。


それをすぐに拭おうとするが、間に合う訳もなく、朝陽さんは部屋の真ん中で電気も付けずに座り込んでメソメソ泣いている私を見つけてしまう。


すぐさま朝陽さんの顔は驚いたような顔になり、部屋から離れていった。


遠くで朝陽さんの声がする。


「みんな、今日は外食にしましょうか。お父さんが帰ってくる前に、駅へ行って一緒にご飯を食べて来て下さい」


「お母さんはどうするの?」


「お母さんは今日ちょっと疲れちゃったからお家で食べます。あ。加奈子ちゃんもあんまりお腹減ってないみたいだから、家で待ってますからね」


「りょーかい!」


「おそとだ。何食べようかな」


「綾ちゃん。ひなと半分こずつにしよ。ハンバーグとスパゲッテー。両方食べられるよ」


「それは名案だ。ひなちゃん。天才」


「へへへ。それほどでもあるね!」


「……うん。分かった。じゃあ、俺が二人を連れていくよ。加奈子ちゃんの事、任せても良い?」


「任せてください。これでもお母さんですからね」


「うん。お願い」


元気よく外へと向かうみんなの気配を感じながら、私は改めて部屋に入ってきた朝陽さんに向き直り、何も言えずにただ、そこに座っていた。


そんな私の近くに座ると、朝陽さんは私の手を握りながら、まずはお風呂に入りましょうかと言うのだった。


朝陽さんに誘われるままに一緒に入ったお風呂で、私は朝陽さんに頭を、そして体を洗って貰いながら、ずっと考え込んでいた。


あの言葉が私の中から消えない。離れない。


こうして朝陽さんに優しくして貰っていても、自分にそんな資格があるのかと考えてしまうのだ。


「さて、これで綺麗になりましたよ。じゃあお湯かけますね」


「……はい」


「じゃあ、私も洗っちゃいますので、先にお風呂に」


「あ、いえ。私も、朝陽さんの背中、流させて下さい」


「そうですか? ありがとうございます」


穏やかに笑う朝陽さんを洗い終わり、私たちは少しだけ窮屈なお風呂に向かい合わせで入った。


「ふふ。流石に二人で入るのは少し狭かったですかね」


「そう、ですね」


「子供はすぐに大きくなりますね。少しだけ寂しいです」


「朝陽さんは」


「……?」


「朝陽さんは、どうして私を引き取ろうと思ってくれたんですか?」


「どうして。と言われると難しいですが、一番は加奈子さんを好きになってしまったからですね」


「……」


「話をして、一緒にご飯を食べて、暮らして、そういう時間を積み重ねて、加奈子さんの良い所も悪い所も知って、その上で加奈子さんには幸せになって欲しいと、私は思ったんです」


朝陽さんは昔を懐かしむような顔で、窓から星空を見上げながら語る。


まるでずっと昔の事の様に感じる話を。


私がこの家に来た頃の話を。


「いつしか私は親の様な気持ちで、家族の様な心で加奈子さんの幸せを願う様になりました。そして幸太郎さん、光佑くんも同じ気持ちだった。多分よくは分かってなかったと思いますが、陽菜ちゃんや綾ちゃんも」


「だから、私は貴女と家族になりたいと願ったのですよ」


「加奈子さん。貴女が大好きだから。愛しているから」


あぁ。


私は幸せ者だ。


この世界の誰よりも。


それがよく分かる。


「さ、加奈子さん」


私は朝陽さんに呼ばれるまま位置を変え、後ろから抱きしめられる様にしながら、共に星空を見た。


私の悩みなんてちっぽけな物に思えるような、満天の星空を。


「加奈子さん。私の願いはたった一つです。加奈子さんや、光佑君。陽菜ちゃんや綾ちゃん。みんなが幸せになってくれる事です。私たちよりもずっと、ずーっと長生きして。沢山笑って、沢山泣いて、怒って、また笑って。そんな日々を繰り返して、生きていて良かったな。って思える様な日々を過ごせる事です」


「……はい」


「どうか幸せになって下さい。加奈子さん。貴方にはその権利がある。幸せになっても良いんですよ」


私はもう返事をすることが出来なかった。


ただ何度も頷いて、お風呂に大粒の涙を零しながら、私はこの人たちに出会えた幸運に感謝した。


そしてお風呂を出てから、髪を乾かして貰い、一緒にご飯を食べた。


いつもの元気な食卓では無いけれど、二人で食べる食事もそれはそれで楽しかった。


生きているだけで嬉しいと言える日々がここにはあった。


それが私にとって一番の救いだったんだ。

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