第1幕

第1場 藤枝孝宏、オペラ座の変人に出会う

 黒龍館こくりゅうかん大学文学部国文学科の学生である僕・藤枝孝宏ふじえだ たかひろが、英文学科の彼女・三枝朱音さえぐさ あかねさんと知り合ったのは、つい二週間前、学部内でのコンパの席でのことだった。


 金髪のギャル風の子や、いかにもオタクっぽい子、勉強が友達ですみたいな子たちがひしめいていた。


 申し訳ないけれど、どの子も僕には苦手なタイプだ。


 その中にあって、純白のワンピースに黒髪を肩のあたりまでさらさらと垂らし、小さな麦わら帽子をかぶってあどけない笑顔をみせる彼女は、僕にとって太陽のようにまぶしく映った。


 さながらおびただしい雑草が生い茂る草むらの中に、たった一輪だけたくましく咲きほこるヒマワリのように感じた。


 コンパの終了後、僕は思い切って彼女に告白をした。


 彼女はにっこりほほえんで僕の想いを受け入れてくれた。


 光よ、あれ。


 僕の無味乾燥な学生生活にも、ついに光明が差した。


 大学に入学して、二年目に訪れた春だった。


 人生初のデート。


 シネコンで八十年代の恋愛映画を観て、百貨店で互いの服をコーディネートし合い、彼女の行きつけだというおしゃれな喫茶店で食事もした。


 そこでお互いの大学生活や高校時代の武勇伝、果ては過去のトラウマ・エピソードにいたるまで、思いつくままにしゃべりあった。


 趣味の話に入ったとき、彼女はクラシック音楽を聴くのが好きだと答えた。


 クラシックなんて、学校の音楽の授業くらいの知識しかない僕にも、彼女は作曲家や演奏家の隠れエピソードなんかを交えて、わかりやすく語ってくれた。


 モーツァルトは下ネタ好きだったとか、シューベルトは生涯独身だったのに死因は梅毒だったとか、ブルックナー(だっけ?)はロリコンのうえネクロフィリアだったとか、果ては指揮者のカラヤンが実は超能力者だった(!?)とか。


 彼女のする話は、素人の僕にもとても面白く、ついつい聞き入ってしまった。


 かくして僕の初デートはきわめて成功裏に終わった、はずだった。


 なのに、ああ……


 今でも思い起こされる、あの一言。


「次の日曜日、オペラを観にいきましょう!」


 天国から地獄とはまさにこれである。


 クラシックの『ク』の字も知らない僕にオペラ!?


 あの話の流れでどうすればそんな結論に帰着するのだ!?


 たとえるなら、そう!


 レベル1の勇者が独りでラスボスに挑む行為に似る!


 赤ん坊が格闘技の世界チャンピオンに挑む行為に似る!


 準備体操なしでフルマラソンを全力疾走する行為に似る!


 下戸げこがウォッカを一気飲みする行為に似る!


 サバを煮る……


 いや、待て!


 サバを煮てどうする!?


 落ち着け、落ち着くんだ!


 うだうだと脳内でどうでもよいことを考えながらふらふらと歩いていると、気がつけばあたりは宵闇よいやみに包まれ、おびただしい数の赤い提灯ちょうちんや、目のくらむようなネオン看板の立ち並ぶ場所に行き着いていた。


 知らず知らずのうちに僕は、夜の飲み屋街に迷いこんでいたのだ。


 なんてことだ、アパートと逆の方向に来てしまったではないか!


 すでに出来あがって千鳥足で歩くサラリーマンや、プラカードを手に行軍するホストクラブのキャッチとおぼしきお兄ちゃんたちが行きかう中、自分の醜態しゅうたいにほとほとあきれ返って、思わず立ち尽くしてしまった。


 ちょっと時間が経って、少しは頭の中が冷静になった僕は、「そうだ、ソフトドリンクでも一杯あおって気分を落ちつけよう。そうだ、それがいい!」と考えいたり、適当に一つの居酒屋の暖簾のれんに手をかけた。


 居酒屋『いのしし亭』ね、ふうん。


「ヴィイイイイイシェエエエエエン! イストディプリンツェッシンサアアアアアアアアアアロメエエエエエエエエエエ! ホオイテナアアアアアフトゥッ!」


 心臓が止まるかと思った。


 突如、店内から響いた大音量の謎の呪文(そのときの僕にはそう感じられた)が、目の前のガラス戸をがたがたと振動させた。


 そして次の瞬間、


「やかましいよ!」


「ぶべしっ!」


 黒くて大きくて丸い物体が、店の格子風こうしふうの戸を突き破って、僕の足もとに転がってきた。


 その物体がどうやら人間であることを認識するのに、数瞬を要した。


 くたびれた黒っぽいスーツを着こんだ小太りの中年男性で、黒縁くろぶちの大きなメガネをかけているが、今の衝撃でか片方のレンズに大きなヒビが入っている。


 状況がつかめずもその男性に「大丈夫ですか」と声をかけようとした矢先、くだんの大穴の開いた戸をくぐり抜けて、いかめしい様相をていした中年女性が登場した。


 あたかも熟練のプロレスラーが、わが家のドアでも開けるかのごとく、リングロープをかき分けてリング入りするように。


「なにがサラミだい、この甲斐性かいしょうなし! そんなことだから奥さんに逃げられるんだよ!」


 拡声器でもついているかのような女性の大声に、僕の足もとの男性は、ホラー映画のゾンビよろしく、むくっと起き上がった。


「サラミじゃないよ、サロメだよ! 近代ドイツの大作曲家、リヒャルト・シュトラウスの出世作となった超名作オペラなんだ! いま私が歌ったのは、冒頭で兵士長ナラボートが、王女サロメの美しさをたたえるセリフだよ!」


「何がナラボートだい! あんたにゃバ○ナボートのほうがお似合いだよ!」


「あばぶっ!!」


 蹴りを食らい、路地の反対側にごろごろと転がり、大きなゴミ箱に激突する。


 ひっくり返ったそれから、果物の皮だの、残飯入りの弁当箱だの、とにかくおびただしい量のゴミが降りかかり、男性は汚物おぶつのオブジェと化した。


 あんなになって、命は大丈夫なんだろうか?


 死んでないよな?


 しかし、しかし、オペラ?


 あの人いま、オペラって言ったのか……?


「なんだなんだ!?」


「喧嘩か!?」


 いやおうなく周囲がざわついてくる。


「ああ、またあいつか」


「懲りないねえ~」


 どうやらあの男性について、知っている人がいるらしい。


 僕はほとんど無意識に、その野次馬の一人につめよった。


「すみませんっ、あの人はいったい……」


「あ? ああ、あのオッチャンね。黒龍館大学の渋澤しぶさわ教授だよ。ゲイジュツガク? だかを研究してるオペラオタクで、いつもあの店の女将おかみさんをしつこくくどいてるのさ」


 黒龍館大学!?


 渋澤教授!?


「なんせほとんど毎晩、あんな感じだからな。この界隈かいわいじゃ、『歌狂うたぐるい』だとか『オペラ座の変人』なんて通り名で、けっこうな有名人だぜ」


 歌狂い!?


 オペラ座の変人!?


 そういえば聞いたことがある。


 数年前、某大学の美学芸術学科の男性准教授が、酒の席でへべれけになって大音量で歌を歌い続けた挙句、止めに入った主任教授をフルボッコにして、結局その大学を追われたと。


 そしてその人物がいま、黒龍館大学で教授の任に就いていると。


 その人の名前が確か、渋澤、渋澤達朗しぶさわ たつろう……


 サイレンの音が近づいてくる。


 誰かが通報したのか、一台のパトカーが路地をぬうようにしてこちらにやってきた。


 降り立ったおまわりさんは苦々しげな表情で、くだんの汚物のオブジェ、もとい、渋澤教授に歩み寄った。


「またあなたですか、渋澤教授! 今度こそ迷惑行為防止条例に照らして、しょっぴかせてもらいますよ!」


 これまたサイレンに拡声器をつけたような大声で、食ってかかった。


 果たして生存していた渋澤教授は、朦朧もうろうとする頭をひねるようなしぐさで、


「何が迷惑だったというのかね」


と、見苦しすぎる反論をした。


「あなたが発する雑音のせいで、近隣住民がほとほと困り果てているんですよ!? それに今回のこの騒ぎ! もう言い逃れはできませんからね!」


「雑音だと? ヨーロッパ中であれほどの大スキャンダルを巻き起こした傑作『サロメ』を、君は雑音だというのかね!?」


「話をはぐらかそうとしても無駄ですよ。それに、いまのあなたのほうがよっぽど大スキャンダルじゃないですか」


「ぐむむ……」


 ああだこうだと、かまびすしいやり取りをしていると、もうひとり、パトカーの中にいた年配のおまわりさんが、大して意に介さない雰囲気でその場に割りこんだ。


「センセエ、今日はずいぶん派手にやりましたねえ」


「おお、巡査部長殿! 話のわかる人間がいてよかったよ! この若造のサイレンみたいにやかましい無駄口をいますぐふさいでくれ!」


「なにが無駄口ですか! サイレンみたいにやかましいのはあなたの歌でしょう!」


「おお、こわいこわい! 心のさもしい人間には、たとえマリア・カラスの歌声でも、ノイズに聞こえるのだろうね!」


「なにがカラスですか! 私はレナータ・テバルディのほうが好きですよ! これ以上治安を蹂躙じゅうりんするのなら、公務執行妨害もあわせてご賞味いただきますからね!?」


「蹂躙だあ!? ふざけるなチキショウ! 警察がこわくて歌が歌えるか!」


「言わせておけばあああ!」


「おい、落ち着け。もういいって」


「でも、部長……」


「この界隈の名物みたいなもんだし、な?」


「……」


「センセエ、今回は大目に見ておきますけど、今後『おいた』はたいがいにしてくださいね?」


「さすが巡査部長殿は話がわかる! わたしも今宵こよいこの場はおとなしく引き下がろう!」


「ふん、命拾いしましたね」


「そのクソッタレは減俸げんぽうにしといてくれ」


「確保おおおおお!」


「あひゃひゃひゃ!」


「あーあ、まるでトムとジェリーだねえ」


 カオス過ぎるやりとりに僕はずっと尻ごみしていた。


 ふてくされていたおまわりさんはパトカーで去り、女将さんも店に戻り、野次馬たちもいつのまいか散り散りになっていった。


 渋澤教授は全身のホコリを手でぱたぱた取り払い、近くを通りかかったタクシーに手を挙げて呼び寄せている。


 どうする?


 行ってしまうぞ?


 しかし、あんな人でいいのか?


 ううっ、もうヤケクソだっ!


「あのっ!」


「……?」


「僕に、オペラを教えてくださいっ!!」


 なぜそんな行動に出たのか、自分でもよくわからない。


 でも何となく、僕の危機的状況を打破できうるのは、この人しかいないと直感したのだ。


「はあ?」


 渋澤教授は怪訝けげんそうな眼差まなざしで僕を凝視ぎょうしした。


「お願いしますっ!」


 深々と頭を下げ懇願こんがんする。


「待て、待て。君がいったい何を言っているのか、事情がのみこめないんだが……」


 当たり前である。


「実は……」


 僕はまあ、しゃべった、しゃべった。


 自分は黒龍館大学の学生で、彼女に一週間後、オペラに誘われたが、そんなものなどまるでわからず、途方に暮れていたことをつらつらと。


「なるほど。要するに、その彼女の前で恥をかきたくないわけだね?」


端的たんてきにいえば、はい、そうです」


「演目は?」


「は?」


「何のオペラ作品を観にいくのかと聞いているんだよ」


「えーと、確か……」


 僕はジャケットのポケットから、彼女にもらったチケットを取り出した。


 教授はそれをひったくると一瞥いちべつして、


「ドン・ジョヴァンニか」


すべてを知る者的な余裕を、態度で見せつけた。


「明日、朝一番で私のゼミ室に来なさい。場所はわかるね?」


「おおよそなら……あ、でも、調べればすぐに……」


「決まりだな。一週間後には君を立派なオペラ通にしてみせよう。そうとなれば今日は早々に帰宅して、明日に備えなさい」


「は、はい……」


「歌がある、歌がある。進め!」


「はい……?」


「なんだ、最近の学生は中也ちゅうやも知らんのか? 君は本当に国文学科の在籍かね?」


「……」


「まあいい。では明日、遅刻せぬようにな」


 そう言うと教授は勢いよくタクシーに乗りこんだ。


「ケルビーノオオアッラヴィットーリア! アッラグロオオオリアミイイイリタアアアル!」


「お客さん! うるさいですよ!」


 タクシーが遠ざかるのに比例して、教授の『歌』のヴォリュームも小さくなっていく。


 わけがわからない。


 あの人の存在も、自分がいま置かれている状況も。


 これからいったいどうなるんだ?


 僕の人生……


 アルプスの山々に聞きたい気分だよ、パ○ラ○シュ……

 

 そんな風にまた、脳内でどうでもいいことをめぐらせながら、僕は再び、ふらふらと亡霊のように、自分のアパートに向けて歩き始めた。

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