第4話

(1)



 燃え盛る大社の炎が近隣の松林まで拡がっていく。

 松林の最奥、広大な湖まで禍々しい紅蓮に染め上げるように、炎は勢いを増していく。当に焼け落ちた城館の方角を振り返りたい。でも振り返るのが怖い。


 垢じみた見すぼらしい着物、わざと顔に塗った煤や泥への不快さなどとうに消し飛んだ。自分と同じく薄汚い姿の侍女たちに手を引かれ、炎から逃れゆく幼き少女は涙ながらに父母を、最愛の義姉あねの名を繰り返す──





「……あたしの父は、今は無き那邦なほう大社の最後の大祝おおほうりだった」


 伊織、樹、周はハッとしたように、互いに目を合わせる。

 名の知れた神社の神官は神職かつ、土地を治める領主であり、神職最高位の大祝は只人にあらずと崇められている。


「ってことはだ、おめーは那邦氏の……」

「そう。あたしは那邦領主の娘……、といっても、側室腹だが」


 土地を治めるための武装はしていても、父も母も、義理の母と姉も皆、乱世の世に似つかわしくない、温厚で優しい人たちだった。

 取り分け、年の離れた腹違いの姉・月白げっぱくはその名に違わず、月の光の如く儚げで繊細な美しさを誇り、闇を照らすがごとく誰に対しても慈愛を持つ清廉な姫であった。

 幼き氷室はそんな義姉が大好きで、月白も雛鳥のようについて歩く義妹を疎むことなく、大層可愛がってくれた。だが、平穏な日々は氷室が数え八つの時、南条家が那邦領へ突如侵攻したがため、終止符を打たれる。


「確か、一度は那邦側から申し入れた和睦を受け入れ、停戦した……、だったかのう」


 愛用の扇子を無為に開閉させる伊織に向け、氷室はこくり、深く頷き──、ぎりり、奥歯を強く噛みしめる。


義姉ねえ様を人質に差し出す条件でな……!」

「南条の狐領主は希代の好色家だ。助平心に付け込んだいい和睦条件だと思うぜ」

「「樹っ」」


 周と伊織双方から窘められ、樹は「おっと、わりぃ」と素直に謝った。


「義姉様の犠牲が無駄に終わらず、那邦の所領と社が護られればまだ良かった。ふた月と経たずして再び侵攻されるなど……」


 南条が二度目に那邦領へ攻め入った時、覚悟を決めた父は嫌がる氷室を平民の子に扮させ、乳母や数名の侍女と共に逃がした。逃亡中に南条か、南条との同盟国かの雑兵の乱取りに遭い、逃げ切ることは叶わなかったが。


「このご時世、和睦はいつ破られるかなどわからぬ。わからぬものじゃが……、ちと早すぎるわな」

「那邦が滅ぼされたこと、父の力が南条に及ばなかったのだと今では納得している。あたしが南条家を許せないのは……、義姉様へ行った仕打ちさ……!」



 那邦氏滅亡後、家臣たちの反対を押し切り、南条領主は処断される筈だった月白姫を強引に側室に迎えた。

 領主の側室でありながら、月白姫は後ろ盾を持たない敵方の娘として、南条の家臣総出で疎まれ、冷遇された。姫の美貌に嫉妬し、彼女の複雑な立場を危険視する正室や他の側室たちからも蛇蝎の如く忌み嫌われた。

 月白姫は城内外の各行事などへの出席はおろか、外に出ることさえ禁じられ、人目を避けるように城館の一角にて常に軟禁状態で過ごしていた。面会が許されるのは領主、侍女二人、侍医と五人にも満たない。まともな話し相手は憎き領主ただ一人のみ。


 座敷牢と変わらぬような、息が詰まる一方の暮らしの中、月白姫は心身共に衰弱していき──、三年ほど前に病であっけなく命を閉じたという。




「あたしが忍びの下で修業中、月白姫については悪い噂しか流れてこなかった。その頃、いや……、尾形領にくるまでのあたしは自分が生き抜くのに精一杯で、本当の自分についても、南条家への憎しみも頭から抜け落ちてしまっていた。考えようともしなかった。どうして忘れていたのか、どうして思い出そうとしなかったのか……」



 納得しつつも、奪われた幸せな日々は二度と戻らない。

 思い出したところで、義姉を救い出せる力が自分にあったかもわからない。


 家を、義姉を奪った南条家が心底憎い。

 でも、もっと憎いのは。


 すべてを忘れ去り、南条家のために身命を賭していた氷室自身だ。



「……本当は、生きている内に義姉様を南条から救いたかった。お前が言うな、とか、虫が良いとか、笑いたければ笑うがいい……!」



 怒り、哀しみ、悔恨、うしろめたさ──、語り尽くせない、複雑極まる感情の波が胸中で渦巻き、氷室を飲み込もうとする。自嘲することで平常心を保とうとするが、気を抜くと目頭が熱くなってしまう。


「……少し感情的になり過ぎた。頭を冷やしてくる」


 熱いのは目頭だけじゃない。顔も、身体も熱い。

 全身を流れる、冷え切っていた血が沸騰しそうだ。


 そそくさと男三人に背を向け、上がり框で草鞋を手早く履く。


「氷室」

「わかっている。この家の敷地からは出たりしない」


 伊織の呼びかけに被せるように口早に答えると、氷室は外へ出て行った。






(2)


 氷室が出て行き、少しの間、沈黙が降り、周が薬研車を挽く音のみが居間に響いていた。


「あの小娘の話、どう思うよ?」


 会話の口火を切ったのは樹だった。


「どうって?」


 薬研車を動かす手を止めず、周が問う。


「いや、どこまでが嘘で、どこまでが真実まことかっつーことだよ」

「すべて真実じゃろう」

「だっから……!てめーは何でそう簡単に信じるんだよ!!」

「氷室は嘘が下手じゃ。嘘が下手じゃからこそ心を凍らせ、顔にも出さず、嘘か真実かを隠す術を身につけた。まるで」


 伊織は一旦言葉を切ると、音もなく立ち上がった。


杜緋とあけ様のようじゃ」


『杜緋』の名に、樹と周の顔つきが一瞬にして引き締まった。


 杜緋とは──、尾形紫月の同腹の姉であり、父である先代領主の命で四度も政略結婚を繰り返したのち、四度目の嫁ぎ先の小国で自ら命を絶った悲劇の姫である。

 紫月が還俗し、父と後継者の義兄を追放、領主の座を奪った理由の一つは、姉の死は父のせいと恨んだためとも噂されている。

 ゆえに、尾形領では杜緋の名を表立って口にしてはならないのが、暗黙の了解だった。



「伊織。その御名を軽々しく口にするんじゃねぇ。増してやあんな小娘と同列に並べるとか……、っておい、てめー聞いてんのか?!」


 伊織は樹にかまわず、氷室に続いて外へ出て行く。


「ったく、何なんだよあいつ」

「まぁまぁ」

「まさかと思うけどよ、伊織の奴、小娘にあの御方を重ねてねぇだろーなぁ……」

「さあ?そればっかりは本人のみぞ知るでしょ。でも、もしそうだったらどうする?伊織を許せない?」

「はあ?!許すも何も……」


 樹は、ちっと舌を打ち、居心地悪そうに頭をぼりぼりかきむしる。


「正直ぶん殴ってやりてぇ」

「言うと思った」

「うるっせぇ。不敬にも程があるだろうがよ」

「あはは、たしかにね。ただ、俺たち以上に伊織はあの御方に複雑な想いを抱えてるからねぇ」

「んなこたぁ、俺だってわかってる」



 樹は子供のように不貞腐れ、周から徐に顔を逸らした。


 樹たち三人の間で杜緋の名を避けるのは、彼らにとって特別な存在だったからだ。


 樹の母は杜緋の乳母であり、彼女とは乳兄妹の間柄だった。

 周は杜緋の母の家に代々仕える薬師の家であり、樹と彼女より少し年上ながら幼なじみのような間柄だった。


 そして、表向きには乳兄弟と言われているが、実際は妹が紫月の乳兄妹である伊織は──、かつて杜緋の婚約者いいなづけと定められた身であった。

 予想をはるかに超えて、賢く美しく育った杜緋を政略に利用すべく、先代領主が婚約を破談しなければ、彼は杜緋を妻に迎える筈だった。

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