第7話 歴史的建造物兼住居、聖ヘレナ修道院
風雨に耐えた石を見ると、感動してしまうのはなぜだろう。
ドロシーはそんなことを考えながら、聖ヘレナ修道院の建物を見上げていた。小さな鐘楼を頭に乗せ、正確に切り出された石灰岩を積み上げて作られた二階建ての簡素な修道院だ。しかし、それはあくまで『街中にあれば』の話だ。こんな辺境に、これほど立派な建物を建てる必要はあるだろうか? ここはかつての最前線ではあるものの、聖ヘレナ修道院は古よりの多大な犠牲者を悼むために作られたという伝説がある。実際、修道院の裏には墓地があり、しっかり背の低い墓石も残っている。五十は下らないだろう。
しかしながら、聖ヘレナ修道院の役割は、とっくに終えているのだ。小さな鐘楼にはもう鐘はなく、両開きの扉は板で塞がれ、おそらくアルン伯爵領兵が次の駐屯時期にやってくるまでこのままなのだろう。玄関上の修道院の印は削れて久しく、形は残っていない。それどころか、少ない装飾のほとんどが自然と風雨によって失われるに任せて、人の手による修復を受けていなかったために残っていない。
周囲には、ただ平原が広がるのみ。今まで歩いてきた街道は南東のクレナード王国へと続いているが、どうにもうら寂しい。
「はあ……本当に修道院としては役目を終えているのね」
もはや、修道院自体が遺跡と化しているのではないか、と思ったが、そうでもなかった。
ヴィルが扉を塞ぐ板を力任せに剥がし、堂々と侵入して二人で修道院内の探索を行った結果、比較的綺麗な居住スペースがあったのだ。駐屯する領兵たちが使っていたものだろう。年代物の木製ベッドの下にはしっかりブリキの四角い缶にシーツや毛布、枕が収納され、くたびれたソファには埃除けの麻布がかけられていた。少し部屋の換気をして、まとめて日光に当てれば何とかくつろぐことができそうだ。
となるともう一つ、残されているものにも期待できる。
ヴィルが慌ただしく、ドロシーに報告する。
「ありました! 長期貯蔵できる食糧は地下倉庫にあります。ドロシー様」
望外の朗報だった。修道院の地下倉庫には、挽く前の小麦だけでなく、大きなブリキ缶に入った小麦粉、きび、薪、中身の入った酒樽、それから栽培用植物の種子類も見つかったのだ。まったく食料がない最悪の事態も予想していただけに、ドロシーはほっと胸を撫で下ろす。
「小麦粉をまとめて一ヶ月分くらい出しておいてもらえる? 多分、私の非力さだと缶を持ち上げるときにぎっくり腰をやりかねないから」
「了解です。井戸水も汲んでおきます」
「ありがとう、助かるわ」
そう、修道院のすぐそばには井戸もあった。人が住むには生活用水が不可欠、しかし近くに川や湖はなく、であれば人為的に水を得る手段があるのだろうというドロシーの読みは当たった。
ただし、朗報はそこまでだ。薪は量が少なく、まだまだ冷え込む夜に暖を取るには心許ない。窯の掃除は行き届いていなかったし、調理用にはすぐには使えそうになかった。
となれば、と進んでヴィルが働いてくれた。ドロシーが修道院内を掃除している間に、せっせと修道院周辺をうろついて枯れ枝を集めてきてくれたのだ。街路樹のそばなら多少は見つかるだろうし、この辺りは風が強いため遠くの森から飛ばされてくる枝も多い。
ヴィルが帰ってくると、もう夕方近くになっていた。ドロシーはキリのない掃除を一旦やめて、ヴィルに頼む調達物品リストと、代官のナージウへ送る手紙をしたためておいた。ヴィルが戻る際に届けてもらえばいい、中身は——ドロシーの境遇と、アルン伯爵の現状、アルン伯爵領のために働けることがあれば教えてもらいたい旨を簡潔に書いただけだ。これよりも込み入った話は、また後日直接会う機会を設けたほうが行き違いを防ぐことができるだろう。
ヴィルが修道院の入り口に拾ってきた枯れ枝は、ちょっとした山になっていた。得意げに、いや、褒められるのを待つ大型犬のように、ヴィルはドロシーへ報告する。
「薪は追加で少し集めておきました。炭もありますが、使い方は問題ありませんか?」
「ええ、大丈夫。そのくらいはできるわ」
「他に、俺がここにいるうちにやっておくことは」
「もう十分よ、あとは私がやるわ」
「そうですか」
もうやることがない、と分かると、ヴィルは目に見えてしょんぼりしている。
居た堪れなくなったドロシーは、コートのポケットに入れていたリストと手紙をヴィルの手に握らせた。
「そ、それより、このリストに書いたものはなるべく全部調達してきてね。ヴィルが頼りだから」
それだけで、ヴィルの顔は輝く。何かとやることを命じられたい系男子は、とても喜んでいた。
「はい! お任せください!」
「うん、じゃあ今日のところは」
「すぐに出立します! 一刻も早く調達してまいりますので!」
「あ、うん、えーと、私はここでじっとしておけばいいのね」
「はい。外は危険どころではありませんので、ええ、冬眠明けの熊は本当に危険です!」
(その熊を吹っ飛ばした人が何か言ってる)
そうして、ヴィルは本当に出立の準備を整えて、もと来た道を戻るために修道院から出て行こうとした。すでに外は暗く、一番星が見えている。危険では、と口にしかけたドロシーは、己の愚かさを呑み込んだ。巨大な熊を吹っ飛ばすような人間に何の危険があろうか。
ヴィルはドロシーへ念押しするように、いくつか忠告を残していく。
「ナージウ閣下の拠点とする都市ブライゼまで、俺の足で往復一週間はかかります」
「えっ、そんなに早いの?」
「急いで行きますので! それに、この辺境がブライゼよりは安全とはいえ、ドロシー様を一人で放っておくわけにはいきません。可及的速やかに! すぐに! 戻ってまいります! もし何かあれば、クレナード王国側へ逃げることも視野に入れておいていただければ!」
「あ、はい。分かりました」
「もし馬が調達できればもっと早く戻れるかと。しかし、今の時期は俺の愛馬エスメラルダも暖かい土地の牧場に預けて放牧しているものですから……そうしないとストレスが溜まって噛みつかれるので……」
「何でそんな凶暴な馬を」
「いいのです、何度となく戦場で俺の命を救ってくれた恩馬ですので!」
「そういうものなんだ」
「そういうものです! 連れてくることができれば挨拶させますね!」
(噛み癖のある馬はできればやめてほしいわ〜……)
それはさておき、早く出立するに越したことはない。ヴィルは元気よく、ドロシーへ手を振って、歩き出す。
「では、行ってまいります!」
「うん、気をつけてね!」
言い終わるや否や、ヴィルは街道を一目散に走っていった。馬は必要ないのではないか、と疑うレベルの足の速さだ。もうとっくに姿は見えない。
ドロシーは急いで修道院の中に入り、扉を閉める。かんぬきをして、ひとまず安全な場所を確保できた。
ヴィルが帰ってくるまでの一週間、ここでただのんべんだらりと過ごすつもりはない。
ただ、今日はもう疲れた。明日の筋肉痛に備えて、早めに休んだほうがいいだろう。
「疲れた……そうだ。明日は早起きして、鐘楼に上ってみようっと」
のろのろとドロシーは二階に上がり、居住スペースのある二階の一室でベッドメイキングを終えると、二枚重ねの毛布をかぶってベッドに横になる。
何となく、前世で、山城巡りでキャンプ道具を背負って二日かけて目的地に辿り着いたときを思い出した。梅雨の時期だったが雨は降らず、山中の岩場で一晩を明かしたときはさすがに心細かったが、満天の星空に圧倒されて気分がよかったことをドロシーは憶えている。
不安はあった、ただ明日への期待が胸いっぱいにあって、そのあとの災難なんて気にもしなかった。
今もきっと、そうなのだろう。ドロシーは明日への期待を抱いて、目を閉じた。
まさか、明日、自分へ向けて矢を放たれるとは想像もしていなかったのである。
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