第6話 疑心暗鬼になりかけた冬

 ドロシーは、唐突に同道することになったヴィルとともに、古の街道をてくてくと歩いていく。ドロシーが目指すのは聖ヘレナ修道院、そのことを喋っていないのに、ヴィルはすでに知っていた。その上、衝撃の事実をドロシーへ伝える。


「え? 修道院には誰もいない?」


 素っ頓狂な反応をしてしまったドロシーは、慌ててヴィルの顔色を伺う。はしたなすぎて、アルン伯爵令嬢であることを疑われかねない。


 だが、心配は無用だった。ヴィルはしみじみ、聖ヘレナ修道院の現状について語ることに忙しい。


「そうなのです。十五年ほど前に最後の一人であった院長が老衰で亡くなってからは、国境警備担当のアルン伯爵領兵が拠点として使っていましたが、冬季は駐屯していませんのでまだ誰もいませんよ」

「でも、修道院は事実上廃止となったことを周知しなかったの?」

「誰も来ませんし、誰も興味がないですからね!」


 とんでもないことをサラッと口にするが、この青年はその重大性を認識しているのだろうか。


 帝都で「ある」とされているものが実は十五年も昔に「なくなっている」、つまりはトップたるアルン伯爵による領地管理が行き届いていない証拠であり、ただでさえ困窮しているアルン伯爵は管理の失陥を指摘されかねない。「金がなくて先祖代々の土地さえまともに管理できない、なんて貴族としてあるまじき痴態である。領地管理は他家に任せ、アルン伯爵家は取り潰しだ!」——なんて、帝国貴族議会で議論が提起されてもおかしくないのである。


 豪放磊落な性格のヴィルは、隣で密かに頭を悩ませるドロシーに気付かない。


「アルン伯爵領の代官であるナージウ様から、あなたがいらっしゃるので急いで出迎えろと命じられまして、ええ、おそらくこちらの状況は何も知らないだろうから危険だと。都会育ちのご令嬢が歩いて辿り着ける場所ではありませんし、野生動物の楽園と化しています。先ほどのように」


 ヴィルの口から、聞いたことのない名前が出てきた。


 代官、つまり帝都に住むアルン伯爵に代わって領地を収める立場にあるのが、ナージウという人物だ。しかし、あのアルン伯爵が娘のことを現地へ連絡を入れてくれていた、などとドロシーは頭から信じ切ることができない。


 となると、ナージウという人物は独自の情報網で——もっとも考えうるのは、アルン伯爵邸にいる使用人を通じて、だろう——ドロシーがアルン伯爵領聖ヘレナ修道院へ移住することを知って、ヴィルを派遣したのだ。色々な思惑はさておき、ごく単純に危険だから、だろう。さっきの灰色熊グリズリー、明らかに人類が対抗できる大きさの生き物ではない。仔象よりでか買った。あんなものが跳梁ちょうりょう跋扈ばっこする土地だと分かっていれば、ドロシーもはるばるやってくることはなかったのだから。


 しかし、ドロシーは今更帰ります、というわけにもいかない。何とかして、住処を作らねば。ヘイゼルフォートに戻る……のは避けたい、あの黒巨羊シープドッグに怯えながら生きていくのは嫌だ。それに、ヴィルに変更した行き先を知られるのはよくない。不幸続きで強迫症気味になっているあのアルン伯爵の耳に入れば、どうなることか。


 差し当たって、当初の目的地である聖ヘレナ修道院に辿り着けばどうだろうか、とドロシーは思っていたが——。


「ちょっと待って。今、修道院に行っても誰もいないから、キャンプ程度ならともかくほぼ生活できないってこと?」

「ええ、おそらくは」

「おそらくはって……はあ、辿り着く前にあなたに会えてよかったわ」

「間に合って何よりです!」

(できればもっと早く、栄えた都市の近くで会いたかったわ。そうしたら準備だってちゃんとできたのに……引き返して、どこかに逃げることだって)


 ドロシーの手元にある食料は、ヘイゼルフォートで買ったパンの塊が三つ、調味料や干し肉、水くらいだ。旅の資金だって令嬢のお小遣い程度、どこかへ移住するにしてもあまりにも心許なく、春になるまで節約しつつ聖ヘレナ修道院に留まって、クレナード王国側へ密入国を企むことがまだ現実的に思えてきた。


 とにかく、一旦腰を落ち着ける場所を作らなくては。シープドッグに追いかけられて散々走ったせいでドロシーの両足はガクガク震え、明日は筋肉痛待ったなしなのである。


「さて、どうしよう……せめて人並みの生活はしたいから、生活物資を入手しないと。できれば家畜の類も欲しいし、移動手段として馬も必要だわ」


 すると、ヴィルはきょとんとして、こう尋ねてきた。


「馬? 馬が必要ですか?」

「ええ」

「なら、ヘイゼルフォートに戻らなくても大丈夫ですよ」

「どうして?」

「聖ヘレナ修道院は、むしろクレナード王国のサン・レヴィ村に近い位置にあります。領兵たちもむしろそちら側から物資を調達しているほどで」

「一応聞くけど、昔の因縁とかは……?」

「何もありませんね! それどころか、気前のいい客として認識されていますよ!」


 これまでの両国の歴史とは何だったのか。現地においては昔の因縁など忘れ去られていることも珍しくない。逆も然りだ。


「待って、グナイストさんは」

「ヴィルとお呼びください!」

「じゃあヴィル、あなたは領兵なの? やけに詳しいけど」

「いえ、騎士です。ナージウ代官閣下麾下のカラクル騎士団に所属しています」

「え? 何それ?」

「えっ」


 ドロシーとヴィルは顔を見合わせた。何か、ボタンのかけ違いのような、互いの認識のすれ違いがある。


 若干顔色が悪くなったヴィルは、戸惑いつつも早口気味にドロシーへ確認してきた。


「か、確認ですが、ドロシー様は、アルン伯爵家のご令嬢、ですよね?」

「ええ、それは間違いないわ」

「ナージウ代官閣下のことはご存じですか?」

「アルン伯爵家は帝都にずっといるから、代官が派遣されていることは知っているけど、名前までは私は把握していなかったわ。伯爵家の実務からは遠ざけられていたから」


 それは事実である。ドロシーは伯爵令嬢として務めを果たすことを求められてきたが、女伯爵になることは求められてこなかった。とにかく家のためになる男を結婚相手として捕まえてこい、というわけである。ご破算になったことは言うまでもない。


 加えて、ドロシーが前回アルン伯爵領に帰ったのは、父方の祖母の葬儀があった十年以上も前のことだ。物心つくかつかないかのころに色々と教え込まれたって憶えてはいない。ナージウもカラクル騎士団も、さっぱり聞き覚えがなかった。


 そこで、ドロシーはやっと思い至る。


(ヴィルって、本当にアルン伯爵領の関係者? ナージウ代官は実在するの? 仮にいたとして、本物の代官? 途中でアルン伯爵に気付かれないよう入れ替わっていたりはしない?)


 何もかもが疑わしく、互いに互いの身分を信じられそうにないくらい、認識が乖離している。ここにいるのは、アルン伯爵令嬢とアルン伯爵領カラクル騎士団所属騎士のはずだが、どうにも違う可能性が出てきた、と双方が思っているのだ。


 足を止め、しばし二人は見つめ合う。どうしよう、これ、と困惑しているだけだ。


 そこで、ヴィルがやっと打開策を出した。


「ドロシー様、お願いがあります!」

「いきなりね」

「色々とナージウ閣下に相談してまいりますので、時間をください! あ、修道院まではこのままお連れしますから! 俺が帰ってくるまでそこに留まっていただければそれで十分ですので! どうか!」


 ドロシーは観念した。疑ったって、どうしようもないのだ。にっちもさっちも行かないなら、流れに身を任せるしかない。


 せっかくしがらみから解放されて、歴史的遺構——この石畳や水路を調べたりできると思ったのに、このざまである。


「……分かったわ、そうしましょう」


 ドロシーは大きなため息を吐き、気分転換に晴れた空を見上げるしかなかった。


 憎々しいほどに、空は澄み切って、青い。

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