第2話 父は置いていく。この先耐えられそうにない

 帝都のアップタウンの一角、はずれには老朽化した邸宅が放置されていた。すでに家主は引っ越したか、死亡したか、買い手が付かず何十年とそのままにしているか、何にせよほとんどは無人だ。


 そのうちの一軒、錆びた鉄柵の煉瓦造りのこぢんまりとした屋敷が、アルン伯爵家の邸宅だ。古くは皇帝家に仕える由緒正しい家系だったが、度重なる不作と不況の煽りを受けて領地からの税収が激減し、ろくに事業も起こせず、今となっては先細りの貧乏貴族の筆頭だ。


 車寄せすらないため、門前で馬車を降りたドロシーは、自分で門扉を開けて家の中へと入っていく。


(なんか、婚約破棄のショックで前世の記憶が蘇ったせいか……我が家ってものすごいボロいし貧乏だって実感が湧いてきたわ。今までこれが普通としか思わなかったのよね、慣れって恐ろしいわ)


 先ほどまでいたノルゼリン侯爵家の屋敷では、明るく広々としたホールで真新しい銀食器と茶器を手にお茶をしていたわけだが、ドロシーの実家とはまさに雲泥の差、目の前の屋敷にある朽ちて褪色した赤煉瓦のひび割れは数えるのも嫌になるほど多い。当然、中も似たようなもので、壁紙が剥がれた客間はもう何年もそのままだ。


 とはいえ、同情すべき点もある。ドロシーの父、アルン伯爵は、家を立て直す努力はしていたのだ。しかし先年、ドロシーの母であるアルン伯爵夫人が病死したため、すっかり生気を失って何もかも自棄やけになってしまっていた。このままでは借金が増えるばかり、何とかして金を集めなければ——その金策の一端で、ドロシーはテーナー伯爵キャリックと婚約を結んで、援助を受け取る算段を進めていたのだが、それがなくなればどうなるかなど、想像するまでもない。家の取り潰しだって視野に入る。


(キャリックがいきなり婚約破棄を突きつけてきた理由は、何となく分かるのよね……ドロシーだけなら分からなかったかもだけど、いやぁ前世の記憶と知識ってすごい。手に取るように分かっちゃう。ドロシーが世間知らずだったってこともあるけどさ)


 しかし、分かったところでどうにもならない。その上、アルン伯爵にどう説明しても無駄だろうことも分かってしまっている。


 案の定、ドロシーが帰宅するなり、父のアルン伯爵は執事たちとともに玄関で出迎え、かと思いきや、カンカンに怒って慌てふためていた。入れ違いでキャリックからの使いが帰り、そこにドロシーが戻ってきたのだから——。


「何ということだ! ドロシー、この親不孝者め!」


 あろうことか、アルン伯爵はドロシーへ怒りを爆発させたのである。これには年配の執事も止めようがない、という顔つきだ。


「あの、お父様、これはどう考えてもキャリックが」

「言い訳をするな! お前のせいでテーナー伯からの融資の話がすべて白紙だ! 我が家の家計が窮乏していることはお前にも口を酸っぱくして教えただろう! なぜその場で懇願でも何でもしなかった!」


 やはりと言うべきか、キャリックは婚約破棄を伝えると同時に、アルン伯爵家への財政援助も打ち切り宣言していたようだった。屋敷の修繕もままならない貧乏なアルン伯爵家には大打撃、娘を引き渡してでも欲しかった金は手に入らない、混乱し切ったアルン伯爵は青い顔で頭を抱えている。


 ドロシーは、娘よりはるかに衝撃を受けている父親へ話しても無駄だと分かっているが、事情の説明を試みる。


「お父様、婚約破棄はおそらく、キャリックが我が家に多額の援助をすることが惜しくなったからではないでしょうか。ノルゼリン侯爵家令嬢アイナの横槍もあったでしょうが」


 キャリックは裕福だが、大変にドケチだ。使用人の使う蝋燭一本の残数まで目を光らせ、古びたパンツ一枚さえ捨てさせず、浪費を決して許さない。しかしそんな伯爵のもとに嫁ぎたい貴族令嬢は今までおらず、困り果てた先代テーナー伯爵がやっとこさドロシーとの婚約をまとめて隠居した途端に婚約破棄このざまだ。


 ところが、アルン伯爵は耳に入れるべき情報を入れず、入れなくてもいい情報を入れていた。


「ノルゼリン侯爵家令嬢、だと!? お前は、婚約者を横取りされて女として恥ずかしくないのか!」

「いえそうではなくて、お父様、話を聞いて」

「もう我慢ならん! 男ならともかく、女など金がかかるばかりで育てる苦労も割に合わんと思っていたが、うんざりだ! 出ていけ! 婚約破棄されたお前にもう嫁の貰い手は付かん! 我が家の汚点だ!」


 おそらく、アルン伯爵の精神的プレッシャーは、限界に達したのだろう。


 元々強い人ではないのだ。重圧に負け、娘を追い出すと宣言するほどに、追い詰められているのだとドロシーは理解している。


 親への同情半分、呆れ半分でドロシーは反論する。


「出ていけと言われても、どこへ行けとおっしゃるのですか。娘を寒空の下に放り出すなんて、お父様はそれでも貴き血を引く貴族の一員ですか」

「親に口答えするとは何事だ! このバカ娘が!」


 うむ、これは話にならない、とドロシーは心の中で思うところをすべて叩き伏せ、綺麗さっぱり説明も説得も諦めた。もはやアルン伯爵にとって、一人娘のドロシーでさえ敵同然なのだ。勘当して追い出して、さっさと伯爵家を立て直す算段をつけなければならないアルン伯爵は、家を保つためにはどこか縁戚から次期当主を騙して連れてくるしか手がない。ならドロシーはいらない、そう考えたのだろう。


 あろうことか、アルン伯爵の怒りはそれでも収まらず、ドロシーを突き飛ばした。


「お前のような跳ねっ返りの女は、修道院にでも放り込まねばどうにもならん! 我が領の端にある聖ヘレナ修道院に送り込んでくれるわ! 金輪際、顔を見せるな!」


 言うだけ言って、アルン伯爵は立ち去ろうとする。自室にでもこもるのだろう、尻もちをついたドロシーは他人事のように考え、起き上がって最後に一言言い返した。


「分かりました、明日の朝、聖ヘレナ修道院へ向かいます。お見送りはけっこう、それでは」


 アルン伯爵は振り返らず、激情のままに足音を大袈裟に立てて帰っていった。


 覆水盆に返らず、男子に二言はなし。ドロシーは執事に数点確認事項を伝えると、荷造りのため部屋に戻る。


(貴族令嬢より修道女のほうがまだマシよ。バカでいさせられるお人形なんてもううんざり、!)


 ドロシーの胸中には、悲しいだとか寂しいというセンチメンタルな思いよりも、憤懣ふんまんやる方ない二度の人生への怒りが渦巻いていた。今はそれがドロシーの原動力となっている。


 ドロシー・エルエベル・サイラス・フォン・アルンは、アルン伯爵領聖ヘレナ修道院の修道女としての認可状——本当は認可など必要なくこれはただの紙切れだが、何もないよりましだ——を都の大教会で朝一番に受け取り、大型カバンを手にさっさと乗合馬車で目的地へと向かった。


 前世の記憶を得たことで、ドロシーの行動力はもはや貴族令嬢のそれではない。


 それに、宇佐美唯の果たせなかった趣味の続きを修道院で続けていけるのなら、足取りも軽いというものだった。


 宇佐美唯ことドロシーは——重度の『歴女』だったのだ。

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