名前を呼ばれること
(……焦ったぜぇ)
一輝は、ふぅっと落ち着くようにオレンジジュースを飲み干す。
恵茉の全てを包み込むような雰囲気のせいで、つい愛奈に対して思っていたことを全部曝け出してしまった。
『愛奈の話をする時のあなたは、凄く優しい顔をしていたわ。本当に心から愛奈のことを考えているのね』
たった少しの会話だというのに、一輝は恵茉の信頼を勝ち取っていた。
以前に愛奈のことをチョロくないかと思ったことはあったが、どうやら恵茉はそれ以上らしい。
『ちなみに、どうしてすぐに信用したかだけど……分かるのよ。人の目や雰囲気はそう簡単に嘘は吐けないもの。もしもあなたが娘に何かするような人であれば……それこそ出会った時のあなたなら、こうは言わなかったと思うわ』
『そうか……本当にそうか?』
『ふふっ♪ あなたと体を重ねた時は、若い力につい心まで屈服しそうになってしまったわ。だからそうね……あなたに堕ちていると言われたらそれまでだけど、とにかく今のあなたは信じられるってことよ』
一輝の記憶では、漫画の恵茉についての記憶はそこまでだ。
以前にも言ったが愛奈ほどの出番があったわけではなく、通称親子丼と呼ばれる三人での行為も一度だけだったからだ。
(ハッキリと……してたんだよな)
欲望に染まった目ではなく、どこまでも母親の目を恵茉はしていた。
「どう? 美味しかった?」
「あぁ、凄く美味かった」
「神名君、本当に沢山食べたね」
「遠慮しなくて良いって言われたし……良かったよな?」
「うん♪」
「もちろんよ」
その後、恵茉が会計するからと言ったため一輝たちは先に外に出た。
一輝としてもやはりいくらか出そうとはしたものの、大人に甘えなさいと恵茉が言ったためその通りにさせてもらった。
「……?」
「っ……」
さて、実は一輝はずっと一つだけ疑問を抱いている。
というのも店を出てから……否、店を出る前からチラチラと愛奈に見られているような気がするのである。
「どうしたんだ?」
「え!? ううん!? 何でもないよ!?」
「……明らかになんかあるだろ」
それでも話してくれないのであれば無理に一輝は訊かない。というか一輝の内心としては、こうして照れている愛奈もやっぱり可愛いとしか考えていない。どこまで愛奈のことが好きなんだと言う話だが、この男はどこまでも好きなのだ。
「まあでも……今日は本当にありがとな」
「え? あぁううん……偶然だったけど、私も楽しかったよ。お母さんも凄く楽しそうだったしね」
「そう……だな。良い母親じゃないか――大切にしろよ?」
「そんなの当然だよ。お母さんのことは大好きだもん♪」
そう言って笑う愛奈の笑顔が少しだけ一輝には眩しかった。
家族を想って浮かべられる笑顔は、おそらくこの世界で一輝は二度と浮かべられない笑顔なのだから。
「ね、ねえ!」
「あん?」
「私がお手洗いに行ってる間、何を話してたの……?」
「……………」
それを聞くんじゃねえよと一輝は表情を変えずに焦った。
後で愛奈が恵茉に聞くこともあるだろうが、おそらく恵茉は誤魔化してくれるだろうという確信があるので安心だ。
ただ、こうして聞いてきたということは愛奈は気になっている。
それなら変に誤魔化すよりも喋った方が良いだろうか。もちろん馬鹿正直に話をするつもりもないが。
「母親として気になったのか、娘のことをどう思ってるのかって聞いてきたんだよ。俺たちの間に甘酸っぱい関係がないことくらい分かり切ってるのにな」
「う、うん……そうだね」
「だからまあ……そうだな――俺の見守りたいと思う子ほどじゃないが、こうして知り合った以上は気に掛けてやっても良いぜってくらいか?」
「……そっか」
一輝の言葉に、愛奈は小さくそう言ってそっぽを向いた。
伝えた言葉は完全に嘘だが、かといって口にした言葉の全ては嘘ではなく本心なのもあって、一輝の表情からは真実だとしか愛奈は受け取らなかっただろう。
(楽しい時間も終わりかぁ……いやはや、幸せだったわ)
推しと夕飯を食べることの出来た時間は、本当に幸せだった。
恵茉とのこともどうなるか不安ではあったが、概ね一輝にとって不安を解消させてくれる終わり方だったのも安心出来る。
まだ顔を背けたままの愛奈に、一輝は声を掛けた。
「藍沢」
「な、なに……?」
「誘ってくれてありがとう。本当に楽しかったぜ」
「あ……っ」
一人寂しく夕飯を済ませるところだったのを、愛奈が誘ってくれたから楽しい時間を過ごすことが出来た。
一輝は笑顔を浮かべることに慣れておらず、更に言えば邪気の無い笑みなんて浮かべられないと思っている――だが、今の一輝は心からの笑みを浮かべていた。
「お待たせ……ってあら? 凄く良い雰囲気じゃないの」
「お、お母さん!?」
「ご馳走になったぜ。ありがとな」
そうして、一輝にとって夢のような時間は終わりを……まだ告げることは無かった。
辺りが暗かったので、家の近くまで送ることにしたからだ。
二人に拒否されたら大人しく帰るつもりだったが、愛奈や恵茉も女性ということもあって夜道は不安だったようで、一輝の言葉に頷いた。
「一輝君のような子が傍に居ると、まるでボディガードみたいね」
「それは俺が厳つい顔だって言いたいのか?」
「違うの?」
「違わねえけどよ……」
「……………」
恵茉との息の合ったやり取りは、前からの知り合いを思わせる。
とはいえそんなやり取りに面白くない顔をするのが愛奈であり、彼女はボソッとこんなことを呟いた。
「……ねえ神名君? お母さんだけ名前ってズルくない?」
「……え?」
「愛奈?」
「なんか……なんかモヤモヤするっていうか、私も名前で呼んで良い?」
「それは全然良いんだが……」
「その代わり、私のことも愛奈で良いから」
それは、正しく名前で呼んでほしいという希望だった。
マジかよと心の中で呟いた一輝だが、このチャンスを逃すのはダメだと即座に脳が理解する。
「じゃ、じゃあ……愛奈?」
思い切って愛奈の名前を呼ぶと、彼女はビクッと体を震わせた。
そして、お返しと言わんばかりに小さな声が響き渡った。
「うん……一輝君」
「っ!?」
一輝は一瞬、気絶したかのように白目を剥いた。
だが根性を総動員して倒れるのを我慢し、ニヤケそうになる頬を必死に我慢しながら内心で叫びまくっていた。
(愛奈に名前を呼ばれただと……? うおおおおおおおおおっ!!)
もしも叫んだら間違いなく近所迷惑になるほどの咆哮だ。
その後、二人と別れた一輝はジッとしていることが出来ずに、近所をランニング以上のスピードで走り回ったのは言うまでもなかった。
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