間違った溺愛、返却します!
川奈あさ
第1話 気づかぬうちに愛が深まっていたようです
オーガンジーとチュールが重なる軽やかなドレス。流れるような曲線が美しい淡く儚い色合いのドレス。金糸がふんだんに使われた精巧な刺繍が華やかなドレス。
瞳の中に取り込むだけで、心が満たされる。私が恋焦がれる、なによりも愛しい存在。
「すごいです。本当にすごいです……!」
王城に用意された一室はドレスを着せたトルソーで埋まっている。三十着はあるだろうか。
この部屋に案内されてから私は語彙をすべて失い「すごい」しか発していないかもしれない。
一着ずつじっくりと観察したいところだが、こうして少し離れた位置から全体を眺めるというのも壮観……素晴らしい。
「どうかな? 喜んでもらえた?」
まばゆいドレスと同じくらい美しい青年が私に向かって微笑む。
「はい、もちろんです……! それにしてもすごいですね。王城にはこんな素敵な部屋があるだなんて。ここはどういった部屋なのですか? ここでゲストのドレスを仕立てているとか……?」
私の声が上ずってしまうのは許してほしい。
こんなにたくさんのドレスを……しかも見るからに上質なドレスを見るのは、こんなに至近距離で一度に見るのは、初めてなのだから……!
夜会で顔見知りとなった青年が「君のための部屋を案内しよう」と言い出したときは、少々怪しいと思ったが……本当に素敵な場所を案内してくれたものだ。ついてきてよかった!
「喜んでもらえてよかった。今日からここは君の部屋だからね」
「…………ん?」
「リルアの笑顔を見ることが出来て僕も嬉しい。調度品はどうかな? 気に入ってくれるといいけれど」
「今なんて言いました?」
「リルアの笑顔が――」
「いや、その前です。君の部屋とか、なんとか」
「そうだ。今日からここがリルアの部屋だ、と言った」
「はあ」
言葉の意味がわからず気の抜けた声が出てしまった。意味を確かめようと彼の顔を見つめると「ああ」と思い当たったような声を出す。
「リルアを驚かせたくて、ドレスを並べていただけだよ。もちろんこのままだと生活はできないからね。あそこに扉があるだろう? あれはクローゼットになっている。普段はそちらに保管すればいいよ」
「いえ、そんなことは聞いていないです。私が暮らす部屋というのはどういうことでしょうか?」
「その通りの意味だよ」
「……もしかしてここで雇ってもらえるということですか?」
「雇う? まあそうだね、永久就職と呼ばれるものかな」
ニコニコと音が聞こえてきそうなくらいにうれしそうな男は頬を染めた。
……何かが噛み合っていない気がする。
「ありがたいお話ですけど、私には王家専属の針子はまだ難しいです。まだ見習いを始めたばかりで、実務経験はほぼありません」
城下町にあるドレスショップで下働きを始めて数ヶ月。まだ私は雑務しかこなしていない。
「針子? 見習い?」
彼はようやく笑顔を解いて、不思議そうに首をひねる。
「ええと、すみません。なにか誤解というか、噛み合っていないですよね、私たち。この部屋はなんのための部屋ですか?」
「君が住む部屋だよ」
「なぜ私がここに住む必要が?」
「王家は婚約した時点で、婚約者と生活を共にするんだ。あちらの扉は僕の部屋に繋がっているよ」
「…………待ってください。今、すごく情報量が多かったので、一つ一つ整理させてもらえますか」
なぜだろう。暑くもないのに、背中を汗が流れていくのを感じる。
「まず王家、と仰いましたね。王家というのは誰を指していますか?」
「僕です」
「あなたの名前は?」
「僕の名前を忘れてしまったの? 何度も名乗っているのに」
「ええと、まあ、はい。すみません……」
「僕の名前はシュリアス・ランバート」
……この国の第三王子の名前じゃないか。政治に疎い私でも名前くらいは知っている。
あなたもしかして第三王子ですか?と訊ねるのは恐ろしく、ひとまずこの問題は一旦無視することにしよう。
「次に婚約、というのは。誰と誰の話ですか?」
「リルアと僕 シュリアス・ランバートだね」
「ほう」
ありえない返事が返ってきたので、私の唇からもなんともいえない呟きが漏れた。
「つまり、私とあなたが婚約をして、ここが私の生活する部屋だと仰っている……?」
「そうだね」
「それで、このドレスはなんですか?」
「リルアがドレスが大好きなことは僕も知っている。だから君のために作らせたんだ。ここにあるものはすべて君のものだよ」
目の前にいる男は、瞳を宝石のように輝かせた。私に虫を見せて喜ぶ六歳の弟のような瞳だ。本気で私が喜ぶと思っている輝き。
「申し訳ございませんが、こちらすべて返却します。婚約というのは何かの間違いでしょう。では失礼します」
私の唇からなめらかに言葉が滑り出した。人生で一番早口言葉がうまくいった瞬間だった。
一刻も早くここから立ち去らないと、何か大変なことに巻き込まれる気がする。
しかし私の手首は彼の大きな右手によって、いとも簡単に捕らえられた。
彼の左手には、王家の紋章が入った紙があり、そこには何やら文字とサインが……。
「オルコット子爵から許可もいただいている。この婚約は正式なものだ」
眼前には、間違いなく私の父のサインがある。
……そうでしょうね。私の父なら喜んで、数秒も悩むことなくサインをしたでしょうね……!
「私たちが婚約関係にあるのは把握しました。でもなぜですか? 家柄的にどう考えても釣り合いませんよね?」
シュリアス王子は一瞬きょとんとした顔をすると、目線をそらした。どうやら少し照れているらしい。
「僕は婚約者を自分で選んでいいと言われているんだ。家柄なんて関係ないよ」
「はあ、しかし、なぜわざわざ私を……」
「僕が君のことを愛しているからだよ」
「愛……?」
私は貴方の名前も知らなかったのに……!? と叫び出したい気持ちになったが、そこはぐっとこらえる。不敬罪という文字が頭をよぎったから。
「ええと、すみません。それは私たちが夜会で何度か会っていたことが原因ですか?」
「もちろんそうだよ。僕たちはそこで愛を深めていた」
私が彼と夜会で顔見知りになって、時々……いや二週に一度、時間を過ごしていたのは事実である。
もっとも、私が深めていた愛は、彼との愛ではなく……ドレスへの愛なのだが。
シュリアス王子が、私の手をとり自身の唇に寄せる。
「リルア、人生をかけて君のことを愛すると誓うよ」
まったく気づかないうちに、なんだか大変なことに巻き込まれている気がする。
一体どうしてこうなった!?
私は彼との始まりをなんとか思い出すことにした。
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